ダイヤ乱れ

八朔日隆

第1話

 骨と、その奥でこれでもかと存在を主張する神経に、鈍い音と痛みが伝う。ぼやけて揺らぐ視界。その中でニヤニヤと笑う少年たちと、見て見ぬふりをする大人たち。

 防ごうとする僕の腕を縫って拳や蹴りが飛んできては、目の前にチカチカ星が生まれる。その星が消える頃には意図せず視界は変わって、空だったり、地面だったりを映している。頬や腹部は打撃を受けて熱を持ち、電気が流れてそこから四肢の末端に広まり、やがて戻ってくる。それが少しずつ弱まりながらも、幾回も繰り返され、体内を反響していく。その波紋が消えきる前に新しくまた波が生まれ、反響は静まることを知らない。うずくまっても尚続く理不尽な暴力に、声を上げる余裕すらない。痛い。辛い。息が吸えない。苦しい。

 たまらず背を向けるが、後ろから蹴り飛ばされて、吹っ飛ぶ。この度に僕は地面の硬さと冷たさを知る。勢いよく吹っ飛ばされたので僕の身体は地面に着地してからも少し地面を滑った。とっさに頭を上げるなんて器用なことは出来なかったので、地に頬を打ち付けて痛みと脳の揺れで気絶おちそうになる。真っ暗なようで、真っ白なようなそんな視界の中で星が一層チカチカ瞬いた。

 口に入った土の匂いに紛れて、口の中が切れているのだろう、鉄の匂いが鼻につく。匂いと共に、「あの光景」がフラッシュバックする。

 こうして殴られることにはもう慣れた、はずだったのに。


       *


 あの日は曇り空だったが、場所によっては薄雲から覗く太陽がビル群を光らせていて明るかった。その雲越しの太陽、空、ビル群。全てがむせかえるような銀色で、嫌らしかった。

 物心ついた時から銀色が嫌いだった。金属光沢の奥に鈍く光る、青いような、冷たさが特に嫌いだった。駅から毎日眺めるビル群や、サラリーマンの腕時計など、その色は僕にとって「社会」の象徴であって、それを嫌う理由が、「自分は社会に適応できていない」というコンプレックスからなっていることをとうの昔から自覚していた。

 僕は凍えるような寒空のもと、高校に向かうため、駅のホームで電車を待っていた。ただ立っているだけ。誰かと話すわけでもなく、時間をつぶすために何かをするわけでもなく。それなのに、銀色の世界ではどうも自分だけが浮いているようで劣等感や疎外感に押しつぶされるようだった。少し後ろで女子高生と思われる2人組のヒソヒソ話が聞こえる。僕のことなんて知るはずもない、僕の外見に一目、変なところはない、だから彼女達が僕について話しているわけではない。頭では分かっていても、自分の悪口を言っているんじゃないか、そんな不安が拭えなかった。

耐えきれずぎゅっと目をつむり、色を遮断する。むかむかする胃とどくどく脈打つ心臓を落ち着けるため、深呼吸する。猫背になって、制服の布の余った所を隆起させ、顔を埋めるようにする。


 ふいにチャイムが鳴った。目を開いて電光掲示板を見やると『電車が通過します』の表記。この表記を見るたびに、僕はいっそ線路に飛び込んでしまおうか、と考える。『到着します』よりも『通過します』の表記の方が僕をその気にさせるのは、きっと両者のスピードの違いだろう。通過する電車はこの駅では止まらないので必然的にスピードが増す。そちらに轢かれた方が強烈で、なおかつ迅速に死ねる気がした。痛い時間は少ない方がいいし、絶対に死にきらなければならない。

毎回、そんなことを考えても結局飛び込めずに、通過しきった電車を眺めては、毎回ただ殴られるためだけに目的地までの電車に乗り込む。そんな理不尽な日々にはいい加減にうんざりしていた。それももう終わりにしてしまおうか。もう疲れた。こんな悩みも人生も、飛び込んでしまえばただの肉塊に帰す。たまたま電車待ちの列の、一番前に居たことがその考えを助長させた。

 意を決した訳ではない。あくまで無意識に、自然に。僕は足をかすかに進め始めた。同時に、視界の端に黒い影が映った。酷く陰鬱なオーラを纏ったそれは、スーツを着た男性だった。いつの間にか僕は足を止めていた。

 僕と同時か、その前から歩み始めた彼は、周りには目もくれず、目線を落としたまま、せん妄状態でゆっくりと線路に向かう。間違いなく彼が自分で歩みを進めているのだが、うつむいて、ふらふらと、足を引きずるその姿はどこか受動的で、僕には線路が彼を吸い寄せているように見えた。

 死の誘惑。死にたい、と言葉を零すのは額面通りではなく、ここに居たくない、全てから逃避したいということの裏返しだ。現状と死の苦痛を天秤にかけた結果、死が魅力的に思える。一足先に我に返った僕にはもう見えないが、彼には今、救済への一本路が見えているのだろう。

 周りを見渡す。自分以外に誰か気付いた者はいないのだろうか。誰かが止めるんじゃないか。いや、既に気付いている人がいれば、もうとっくのとうに注意を促す声が上がっていてもいいのではないか。そんなことを考えている内にも、男はゆっくりと、しかし確実に黄色い線の外側へと進んでいく。

 ぼうっとその様子を見ていた僕だったが、流石にはっと気が付いた。冷静に観察している場合じゃない。慌てて男の方へ手を伸ばして追いかける。


 ファァァァァン


 耳をつんざくような警笛が鳴る。音の方からライトのまばゆい光を感じる。目視で確認するまでもなく電車がすぐそこに迫ってきているのがわかる。急ブレーキか女性の叫び声かの空気を割くような音がする。振動がどんどん大きくなっていく!

 ――そんな緊張の極致で、突然、世界は静寂に包まれた。

 なんだこれは。走馬灯というやつだろうか。いや、過去の記憶を遡っている様子はない。無音のまま、ほとんど静止しているくらいのスピードではあるが、確かに時が流れている。顔や体を動かそうと試みるが、ほとんど動かない。きっと頭だけが激しく回転したせいで、周りをスローモーションに感じているのだ。

 我に返って現状を確認する。すでに視界の端にはライトに照らされた車両の先端の銀が映り込んできている。

 僕の腕は今にも彼の肩に届きそうだ。非常にシビアだが、彼の身体を引き上げられないこともないかもしれない。しかし同時に、彼の肩を掴んだ瞬間に彼が電車に接触し、巻き込まれて自分も道連れになるかもしれない。そんな微妙な状況。そうこう考えている間にも、少しずつだが電車は迫ってくる。

 急げ。まずは彼の肩に手を――ここで、僕は思い直した。

 そもそも、彼は自殺をしようとしている。同じように自殺を図った僕だからこそ、ここで彼を止めるべきではないのかもしれない。

 彼も僕に助けられて嬉しいとは限らない。いや、死ねずに絶望するに違いない。彼を引っ張る必要はないのだ。

 ほんの僅かに手を引いた瞬間、音も、時間の流れも元通りになって、ものすごい衝突音と共に目の前の男はさらわれていった。男は衝突の最中、何か呟いた。僕には、死にたくない、と言ったように聞こえた。しかしそれを確認する事はもうできない。彼にせよ僕にせよ後悔してももう遅いのだ。死とはそういうものだ。その実感だけがこの非現実的な光景と僕を結びつけていた。

 電車が進むにつれて、鳴き叫ぶブレーキと周囲の悲鳴、骨や肉が押しつぶされる嫌な音が止んでいく。僕は手を下ろすのも忘れて立ちすくしていた。

 電車が完全に停車してから、車体の下に目線を落とした。車両の連結部の間から赤黒い海が広がっていた。その上をレールの銀が走っている。

 ああ、と思った。やっぱり銀色は嫌いだ。その光景は、社会が不適合者を裁いている縮図そのものに見えた。


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