第2話

 駅員室は大慌てだった。こちらからは壁越しで姿は見えないが、複数の男たちの緊張感のある話し声が聞こえた。怒号が聞こえることすらあり、余裕がない。しきりに「マグロ」という単語が出てきて、会話から、それがあの死体を表す隠語であることを悟った。その呼び方には駅員たちから自殺者への嫌悪感が含まれているような気がした。

 年季の入った制服を纏った駅員と机をへだてて対面した僕はなるべく彼と目を合わせようとした。人と顔を見て話をするのは苦手だ。だから、つい癖で目をそらしそうになる。そんな僕を彼はじっと見ていた。

 僕はたった今起きた出来事を拙くも説明した。手を伸ばしたままの僕を見て、僕が彼を突き飛ばしたと勘違いして駅員に通報した人がいて、そのために駅員室に来るよう促されたのだと駅員は言った。面倒ではあったが、学校に行かない言い訳ができてそこまで苦ではなかった。殺害の動機も特にないので、駅員は僕の無実を信じ、同情的だった。

「お互い、巻き込まれて大変ですね」

 僕が一通り話し終わり、壁の向こうとは対照的に、静まり返った部屋の沈黙に耐えかねたのか彼が話しかけてきた。

「ええ」

 気の利いたことなど言えず、できることは肯定くらいだ。

「なんたってわざわざこの時間に、電車で...」

 恐らく、今頃ダイヤは乱れに乱れているのだろう。どうせ死ぬなら他所で、という駅員の気持ちがひしひしと伝わってくる。

 彼ではなく僕がこの状況を作っていたかと思うと、罪悪感を覚えた。僕がうっかり考え込んで相槌を忘れてしまったので、会話が終わってしまう。あちらは喧々囂々けんけんごうごうとしているのに、こちらで声を上げるのは壁にかけられた時計だけだった。


 しばらくして、若い別の駅員がこちらにやってきて、

「君、名前は」

 と僕に聞いてきた。

「たっ田中悪魔でびるです。悪魔と書いてでびると読みます」

 なるべくはっきり発音するように心がけて言った。それでも吃音症きつおんしょうである僕は流暢りゅうちょうに、とはいかなかった。

 俯いた僕の顔は熱かった。自分の名前は恥ずかしくて嫌いだ。いわゆるキラキラネームというやつで、自分がいじめられるのは名前のせいだとすら思っている。だが小さく喋り、何度も聞き返されてはそちらのほうが恥ずかしくていたたまれない。だから一度で済むように忌まわしい名前を大きな声で言わなければならない。それも忌まわしい。

 僕の名前を聞いた相手は、たいていは驚き、半笑いがごまかせず吐息の多く混じった声で、変わっているだの個性的だのと言う。そのたびに何か気の利く返しをしようと試みるが、結局思いつかずに黙り込んでしまい微妙な空気になってしまう。文字通り、呪いを携えた悪魔だ。

 しかし、若い駅員はうん、と頷くだけで眉一つ動かさずに部屋を去っていった。閉まったドアを眺めているとすぐにまたドアが開き、若い駅員と女性が入ってきた。若い駅員はドアの前で女性に、僕の横の椅子に座るよう促して、今度はドアが閉まりきらない内にまたドアを開けて部屋を出て行った。

 女には既視感があったが、誰なのか思い出せないでいた。母親と同じ年代のように見えるが美人でメイクも濃かったから、見た目よりも老けているのかもしれない。同じくらいの年の人間と関わることすらないのに、年の離れた人物とはもっと関わることがない。先程僕は名前を確認され、この女はそれから入ってきたので、きっと僕のことを知っているに違いない。

人と目線を合わせるのが苦手な僕だが、柄にもなくその女性の顔をじっと見ていた。気の強そうな女性だとは思ったが、記憶の中に彼女の顔は見当たらなかった。

 女は僕の隣にバッグを下ろしながら前かがみになって座ると、顔にかかった前髪を払いながら姿勢を正した。

「筒井洋子ようこです。悪魔くんの母親のまたいとこにあたります。」

 駅員に女が言う。思い出した。この女は以前親戚の集まりで見たことがある。普段、僕には無干渉の母親が、世間体を守るために僕を連れ出したものだった。

「悪魔くん、久しぶりね。」

「は、はい」

 駅員さんの前であまり名前を呼ばないで欲しい。それに、一応血縁関係にある相手に対して緊張してどもってしまうことも合わせて恥ずかしいし、会話は苦手なので話しかけないで欲しかった。

 洋子さんが駅員の方に向き直って話し始める。

「さっき、線路を挟んで反対側のホームに居たんです。それで、一部始終を見てたんですけど、そもそも悪魔くんは進に触れてすらいません。ね、そうでしょう?」

 急に話を振られると困ってしまう。それに進とは一体誰だろう。僕がなんとか頭の中を整理して言葉にしようとしていると、駅員が会話に割って入ってきた。

「あのう、もしかしてその、『進さん』というのは...」

「あっ、すみません。進はさっき飛び込みをした、私の義理の兄です。」

 聞いた瞬間、駅員は僕の方を一瞥いちべつしてさっと青ざめた。進さんのことを僕の前で迷惑だというむねの話をしただけにバツが悪いのだろう。思い返せば、さっきの僕の対応は曖昧だったために、僕が内心穏やかではなかったのではないかと勘違いしているのだろう。なんだか気の毒に思ったので、自分も知らなかったのだとその場で言いたかった。でも、僕の口はしっかりと閉じたままだった。しかし、洋子さんは僕の考えを読んだように喋り始めた。

「あら、気づかなかったのね。ごめんなさい。そうよね、進とあなたは会ったことも...あるかしら。もしかしたらないかも知れないわね。駅員さんも、この度は進が多大なる迷惑をおかけしてすみません。」

「いえいえ、そんな、頭をあげてください。」

 駅員はやっぱりバツが悪そうにしている。それにしても、洋子さんは随分と落ち着いている。義理とはいえ兄が死んだら、しかも駅で飛び込み自殺をしたら、普通はもっと取り乱すのではないか。それに、洋子さんの『進』という呼び方には壁の向こうの駅員たちの『マグロ』と同じような嫌悪感が混じっているようにすら感じた。





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