第5話

 桶をひっくり返したような暴雨だった。ビニール傘はほとんど役に立たず、横殴りの雨で腿の上までびしょ濡れだった。石段には苔や雑草が生えていて、水に濡れたそれらはつるつる滑った。なるべく石の出た灰色の部分を探して慎重に上がると、コンクリートの地面になった。その奥はまた階段になっている。さらに少しそれを登るとコンクリート、階段、コンクリート、というように一定間隔ごとに階段と平面が繰り返されている。平面になった地面は横に続き砂利が占めるようになる。その砂利の上には墓石が静かに整列していた。

 小石どうしが押し込まれて擦れるじゃりじゃりという音の中にぐちゃりという水を含んだ砂を踏んだときの独特な音がする。視界が悪かったので、覗き込むようにしてひとつひとつの墓跡に刻まれた名前を確認して行った。

「田中家之墓、岩井家之墓、真田家......これも違う」

 間違えないように口ずさみながら確認する。横並びの列を確認しては階段を四、五段ほど上って次の列を確認していく。

「あった。これだ」

 その繰り返しの中でやがて『只野ただの家之墓』と彫られた墓石を見つけた。

 進さんは「只野進」という名前だった。短命の一族だそうで、一人っ子だった進さんの両親やその両親は皆早くに他界して天涯孤独だったそうだ。進さんの母親の千佳さんは進さんを出産したときに他界し、父親の誠一さんも早くに病に犯され進さんの母の後を追うように逝ったらしい。

 筒井家の親戚の大人たちはあの集金会議で口々に只野家のことをこうして確認し合っては形だけの同情を繰り返したので、進さんが筒井家の養子になった経緯を何となくだが知ることが出来た。

 これも大人たちの会議の一部で聞いたことだが、本来、養子として迎え入れられた人物が死亡した際、墓に入るのは養親の家の墓に入るのが一般的らしい。つまり、筒井家の墓である。しかし面倒な手続きを済ませてまで進さんは只野家の墓に入れられた。進さんが最後まで拒絶されたことはあんまりだと思う反面、死してなお生前受け入れられていなかった家に縛られなくて済んだことが良いことにも思えた。

 小山の中腹、静かで何もないところだ。周りを囲む網状のフェンスは錆びて、植物の蔓と葉が表面を覆う。伸びっぱなしの草と苔が石段や歩道に生している。寂れた印象を受けたが、ここなら安らかに眠れそうだと、そう思った。

 墓参りの作法はよく知らなかった。それでもなんだかこの行為は必要な気がした。ビニール傘の柄を肩に乗せ、合掌して目を閉じお辞儀をする。

 進さん、どうかそちらでは安らかに。

 ──雨に紛れて靴が石階段を叩く音が聞こえた僕は、目を開けてそちらを向く。そこには洋子さんがいた。片手に傘、もう片方の肩にバッグ、手に花を携えた洋子さんは、僕の方を見て目を見開いていたが、すぐに墓の方へ歩いてきた。僕が一歩後ろに下がると、洋子さんは墓に花を据え合掌した。僕は挨拶でもするのか、どうしたらいいのか分からなくなってその様子を後ろからじっと見ていた。祈り終えた洋子さんはすぐにこちらを振り返り、

「どうしてこの場所を」

 と聞いた。

「そそ、それは、えと」

 目線を逸らした僕の顔をじっと見る。洋子さんには何か見透かされているような感じがいつもある。というか、見透かされている。僕が何も言えなくても、勝手に気がついて話を進める。

「葬式の時に聞いたのね」

「は、い」

 洋子さんはため息をついた。そして、

「きっとあのとき、私が進の話をしたのが悪かったのね。でも、あなたがこんなことをする必要なんてないの。進のことなんて、忘れてしまいなさい。」

 と冷たく言った。

「え、えいや」

 僕はなんだか『進のことなんて』という言葉が気に入らなかった。洋子さんが、洋子さんだけはそんなことを言ってはいけないような気がした。

「もちろん、こうしてお墓参りに来てくれたことは嬉しいわ。進も、きっとそう。でもね、あなたとは関係のないことだし、むしろあなたの家に迷惑がかかったのだからこんなことをするのはおかしいわ」

 親族会議の結果、母はほんの少しだけ翔太さんにお金を渡していた。それでも、鉄道会社の請求を考えれば端金だった。母のことだから少しくらい情を見せた方が世間体がいいと判断したのだろう。直接僕に迷惑がかかるわけではないが、ただでさえ僕が渡される金は僅かなものなので意外と影響は深刻なのかも知れない。しかし、それと墓参りは全く別のことだと思った。死者を弔うことの何が悪い。

「め、迷惑だ、なんて、そんな」

「迷惑じゃない。学校に行く電車を止められて、容疑者にまでされて、お金まで払わされて」

「そ、れは」

「あなただけじゃないわ。無関係な人にも、たくさん迷惑をかけた。あの場にはね。私だけじゃなくて、私の手に繋がれたチズもいたの。あんな小さい子の目の前で人が轢かれるのを見せつけて、もう、きっとトラウマよ、あの子」

 無関係な人への迷惑、という話になると弱い。同じ場所で飛び込もうとしていたので、虚構の罪悪感が襲ってくる。

「それにね、あなた、進に何かいいことをしてもらったことはあるかしら。ないわよね。でも、悪いこと、迷惑を被ることはあったわよね。だから、あなたがこんなことをするのは、おかしい」

 そんなことはない。僕は密かに救われた。進さんがいなければ、僕もこの世にいない。そう言いたかったが、口は閉じたままだった。

 俯き、黙っている僕を見兼ねた洋子さんはその態度が気に入らなかったのか、機嫌が悪くなっていった。

「大体ね、進の事なんてあなた、ほとんど知らないでしょう。進は、あなたが思っているような人じゃ、きっとないわよ。

 何も、無いの。周りと全く干渉せず、誰とも何も共有せず、ひたすら日々を貪るだけ。朝昼夜を繰り返すだけ。誰も進が死んで涙を流す人がいない。誰の記憶にも残らない。そのくせ迷惑だけはかけて。それじゃ、何のために生きていたのかわからないじゃない」

 その言葉を受けた瞬間、身体が熱いのか、寒いのか、よくわからなくなった。

「よっ、洋子さんは進さんのことを知ってるって言うんですか!」

 あ、と思った。とっさに言い返してしまった。僕の口から放たれた言葉は重みを持った鈍器のように彼女の頭を吹っ飛ばした。その手応えを感じて、罪悪感がせり上がってきた。何を僕は言っているんだ。少なくても僕が言うようなことではないし、なにより洋子さんの方がずっと僕より進さんの近くにいた。当たり前だ。まがいなりにも兄妹なのだから。やってしまった。どうしよう。罪悪感の後を、焦りが追いかけてきた。

 ちらり、洋子さんの顔を前髪の隙間から覗く。洋子さんは大きく目を見開いて、目を赤くさせていた。鼻の穴を大きく開けて、口を結んでいた。

 しかし、すぐにダムが決壊したかのようにきっとこっちを睨みながら数歩、こちらにずかずか歩いて、僕の胸ぐらを掴み、口を開いた。

「しょうがないでしょ!自分が動かないから仕方なく周りが動くの、それに慣れすぎて、それが普通になってた。何もしなくても、受動態でも、時間は勝手にすぎていくのだからいいわよね。起きて夜を待って、眠って仕舞えば一日が終わるものね。でも、そんな周り任せだからこうなったのでしょう!あなたがいつまでも離れから出てこないから、そのくせ遠くから私を眺めるだけで話してこないから、こうなったのでしょう!思うことがあるなら、言葉にして伝えなきゃわからないでしょ!自分から距離をつくったのに、被害者面して逃げないでよ!ねえ!」

 洋子さんが僕の胸ぐらを掴んだまま腕を前後させる。その振り幅以上に僕は頭を前後させられる。無理やり動かされた首の後ろが痛む。洋子さんは泣いていた。ヒステリーを起こして、叫ぶように、吠えるように罵った。僕は彼女が何を言っているのかよくわからなかった。凛とした彼女がここまで醜くなるのか、とも思った。暴力に慣れているからか、恐怖を感じながらも、冷静だった。だから、すぐに彼女の行動の理由に気がついた。彼女は僕に進さんを見ている。いや、それだけでなく、きっと僕も自分自身に進さんを重ねている。とっさに進さんの肩をもって反論してしまったのもそれが理由だ。あの時、僕自身という存在が否定された気がした。

「どうして、どうしてよ!どうすればよかったのよ!教えてよ!ねえ!」

 彼女の手はぶるぶると震え、喉からは絞り出すような嗚咽が聞こえた。

「あの瞬間、私の顔を見たわよね、何を感じたのよ。教えてよ」

 一瞬落ち着いたように見えた彼女だが、荒い呼吸を数度繰り返したら、熱がぶり返してきたのか、また号哭を始めた。

「あたしを、恨んでいるんでしょう!視線に気がついていないふりして、無視したあたしを!どうしたらいいのよ!どうしたら、どうしたら......」

 胸ぐらを手で掴んだまま、洋子さんはずるずると崩れ落ちていった。おでこを僕のみぞおち辺りに当て、肩で息を吸いながら、墓地の水溜りに膝をついていた。

 何か、言わなければいけないと思った。慰めるなり、諫めるなり。しかし、僕の口は固く閉じたままだった。さっきはあんなに自然に言葉が出たのに。この喉と口は出鱈目か、と自分が情けなく、同時に腹立たしかった。どうやっても言葉が浮かばない。こんな時、進さんならなんと言うだろうか。只野家の墓を仰いだ。しかし、やっぱり何も変わらなかった。

 洋子さんに視線を移すと、洋子さんも只野家の墓を見ていた。そして、僕の胸から手を離して、少し俯いた後、

「ごめんなさい」

 と言って僕の顔を見ずに立ち上がった。そして、来た石段の方へ向いて、そのまま降りていった。墓の周辺には元どおり静寂が残った。



      *



 あれから、ずっと考えている。進さんの人生は本当に無駄だったのか。僕がこれから生きていっても。同じように無駄なのか。

 今日のいじめは特に苛烈だ。普段なら飽きてどこかへ行く男子たちも、一向にその気配がない。このまま殴り続けられたら、もしかしたら死んでしまうかも知れない。死にたい、なんていつも考えていたのだからこのまま死んでしまってもいいのかも知れない。口の中が切れて血の味と匂いがする。進さんの「死にたくない」と言う声がフラッシュバックする。今でも、あの言葉の意味は分からない。でも、耳に強く残って離れない。血の匂いで嫌でもあの光景を思い出してしまう。

 僕は本来あそこで死ぬはずだったのだ。それを、偶然とは言え、結果的に進さんは僕を救った。それだけで、彼の人生に意味はあったんじゃないか。僕だって生きていれば知らぬうちに誰かに何かを及ぼすんじゃないか。洋子さんに僕は、そう言いたかったんじゃないだろうか。なんだか、勇気が出てきた。

 地面に手をつくだけで全身の骨が軋む。地面に打ち付けられた腰骨が特に痛む。それでも、力を入れて起き上がる。

 立ち上がろうとした僕を無情にも男子たちは蹴り飛ばす。吹き飛んだ僕は壁に叩きつけられる。その壁を伝って、僕はなんとか立ち上がった。呼吸が荒い。全身が千切れるように痛い。

 恐る恐る、前髪の隙間から、今までちゃんと見たことのなかった彼らの顔を見た。彼らは邪悪な笑みを浮かべていた。その顔を見ただけで身震いした。しかし、同時にひどく腹が立った。制服の内ポケットからカッターを取り出す。キリキリと音を立てて収納された刃を少し出して、ストッパーをかける。右に持ったカッターを、左手を使って逆手に持ち変える。

 体が熱いのか寒いのか分からなくなる。こんなにどこもかしこも痛いのに、感覚が遠くて、なんでも出来る気がする。足がふわふわする。してはいけない、タブーを破る、喪失感が気持ちいい。脳の奥から、汁のようなものがじゅわりと溶け出す感じがする。そうだ、今ならなんでも出来る。

「う、う、うわああああああああ!」

 上擦った声は途中で裏返った。それでも、叫ぶのをやめなかった。気持ちが良かったからだ。僕を殴っていた三人組はぎょっとして一目散に逃げ出したが、両端を囲まれた中央の1人が二人に体をぶつけて、前に転倒した。すぐに彼はこちらを振り返ったが、腰が抜けたようで、地面を足で蹴ろうとして空回りさせるのを繰り返すばかりで、あまり僕から距離を取れなかった。

「や、やめろよ!なあ、俺が、俺が悪かったよ、なあ」

 僕は彼がなにを言ってるかあまり聞いてなかった。しかし、

「止まれって言ってんだろ!ふざけんな!」

 彼が逆上した声はしっかり確認し、さらに腹を立てた。僕は叫んだ。叫んで、右手のカッターを振り上げた。彼はとっさに防ごうとしたが、カッターの刃は彼の腕の上を超えて、彼の眼窩の下の方に直撃した。なんの抵抗もなく刃は肉の間を滑り、奥の骨に激突した。同時に、何か筋のようなものを断ち切る感触があった。勢いよく振り落とされた僕の右手は彼の防御の手と衝突し、その反動でカッターの刃が折れて、彼の目の下に残った。僕はカッターの刃をまた出そうとしたが、興奮と、彼の血がぬめぬめと手に纏わりついて滑ったので、すぐには取り出せなかった。すぐにまた刺しに行こうとしたが、刃を出し終わった瞬間じたばたと振り回していた彼の足が僕の体に命中し、僕は後方へ吹っ飛んだ。追撃しようとまた立ち上がって叫びながら走ったが、今度は嫌らしい銀の刺又が僕の体を捉えた。そのままものすごい力で後ろに押された僕は尻餅をついて転び、なお地面に力を入れた刺又が勢いよく押してきたので、頭を強く打った。今までで一番大きな星が目の前で瞬いて、僕は気を失った。



      *



 停学が明けた。また学校へ行かなければならない。あれから、いろいろな人に叱られたり、殴られたりしたが、僕に同情する人は誰もいなかった。いじめの存在を知られても尚、僕ヘの態度は変わるどころか悪化する一方だった。彼は片目を失明したらしかった。高揚感の消えた僕は自分のしでかしたことを酷く後悔した。ついに取り返しのつかないところまで来てしまった、全てが完全に壊れてしまった感じがした。

 反省文や相手への謝罪、色々な罰を受けたが、登校ほどの罰は無いと思う。


 チャイムが鳴った。制服の中から顔を出して、電光掲示板を見る。

『電車が通過します』

 僕には、

「あなたは自殺しますか?それともまだ生きますか?」

 という選択を迫っているように感じた。

 流石に、もういいだろう。洋子さんの言ったことも、一理あるような気がした。このまま生きていても、きっとなにも為せない。僕が死んで涙を流す人はいない。

 電光掲示板に『ダイヤが乱れております。』の表示が見えた。どこかで、僕の知らぬ誰かも自殺をしたのだろうか。その人も、誰の記憶にも残らないのだろうか。進さんは──

 進さんは、誰の記憶にも残らなかっただろうか。いや、少なくても僕の記憶には残った。それに、僕の自殺を、一度は中断させた。

 ふと、ダイヤグラムみたいだ、と思った。みんなそれぞれ始点と終点があって、そんな人たちがお互いに関係しあって、全体としての営みになっていく。であれば、僕は遅延した、というところか。なんだか駄洒落みたいで、少し興醒めした。

 そろそろ、電車がやってくる。洋子さんの『周りに迷惑をかけて』という声を思い出す。確かに、そうかもしれない。駅員達の、『死ぬならどうか他所で』『マグロ』というのも同時に思い出す。でも、僕はここで死ぬと決めていた。僕は上手くいかなった。あそこで刃物を取り出さなければ、違う未来があったかもしれない。しかし、もう完全に終わってしまった。これ以上何かが変わることはないだろう。自分でチャンスをふいにしたのだ。

 僕はここで死ぬことで、誰か自殺願望がある人に思い直させることが出来る気がした。もしかしたら、その誰かは僕と違ってそこから立て直せるかもしれない。

 黄色い線を踏んで、飛び込む。

 世界がスローモーションになる。やっぱり、走馬灯は見えなかった。

 ライトに照らされた銀の車体がすぐそばにある。でも、もう眩しいとも、羨ましいとも思わなかった。スローの世界で、幕を下ろすように目を閉じる。

 ......まだ、死なない。遅い。あまりに時間がゆっくり流れるので、考える時間が出来てしまった。

 そうだ、進さんはなぜ、ここで「死にたくない」なんて言ったんだろう。あの場には、洋子さんに手を繋がれた千鶴ちゃんがいた。その千鶴ちゃんに、自分が死ぬところを見せつけて、トラウマにさせたくなかったんじゃないだろうか。それとも、死を目前にして、やっぱり死ぬのが嫌になったんだろうか。そんなことを考えていると突然、やり残したことが沢山あるような気がしてきた。食事代をまともに持たされていない故に食べた事のなかったお菓子を食べてみたいとか、海を直接見てみたいだとか、遺書を書いていないとか。

 電車はもう真横に迫っていた。今更、何も変えることはできない。

 届け。同じ思いをする人を、増やしてはいけない。そもそも、そのためにこの方法を選んだのだ。同時に、ようやく気がついた。もしかして進さんのあの言葉は、僕に気がついた上で、僕に自殺を思い直させるための──

 僕は叫んだ。


「死にたくない」



      *



「〇〇駅で自殺した、通称『少年D』は手記を残していました。それが今、反響を呼んでいます。

 先日、〇〇駅にて死亡した少年Dは、その自殺の瞬間がたまたま撮影され、SNS上で流出したことで波紋が広がっています。自殺の瞬間、『死にたくない』などと聞こえる肉声まで記録されており、それが自殺や若年層の死生観といったものの議論を呼んでいるようです。

 現場の葦原さん、お願いします」

 薄暗く、散らかった部屋。カーテンの隙間からわずかに漏れた光と、テレビの光だけがぼんやり部屋を照らす。虚な目をした少女はそのテレビを見ながら、首からロープを外して、台から降りた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダイヤ乱れ 八朔日隆 @Utahraptor

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ