第4話

 焼香の匂い。母は何も言わなかったが、僕と母が今身に纏っているのはレンタルの喪服だろう。普段は不十分にも程がある端金をテーブルの上に置いて、生活など勝手にしろといった感じなのに、世間体を気にして遠い親戚の葬儀の為に家にまで行き、わざわざ喪服をレンタルしてまで出席している。母と同席しているため下の名前で呼ばれ、恥ずかしい思いをする。それを母はなんともないような顔で知らんぷりをしている。僕よりも母の方が「悪魔」に相応しそうだ。

 葬式が行われるこの大きな家は進さんの育った家だそうだ。山に面した古い家で、屋根で鬼瓦が睨んでいる。庭は丸くテカテカとした葉を持つ柑橘系の樹木が燦燦さんさんと太陽の陽を浴びて、爽やかな匂いがした。蝶々やあぶが忙しなくその辺りを飛び回っていた。

 そんな庭を、たまたまこの家への道のりで数人が揃った親戚は雑に並んで横切っていく。玄関の敷居を跨ぐと和風の古い家ならではの独特な匂いがした。外が陽で暖かかったので、室内が冷たく感じた。しかしそれは温度の話だけではなかった。

 玄関入ってすぐ、右手に部屋があった。それに続いて奥側にもう一つ部屋があり、そこは食堂であった。

 冷たさを感じたのは、外では葬儀ということで慎ましくはあるが談笑し合うような朗らかさがあった親戚が一瞬にして緊張した面持ちになったからだった。玄関に通された一同は右手に面した手前の部屋から、ドアを開け半身で乗り出した五十路位の女性に声をかけられた。

「この隣のですね、食堂なんですけれども、そちらの前で履物を脱いで頂けると」

 奥へ指差したあとその女性はすぐにぴしゃりとドアを閉めた。

 言われた通り奥へ進み、食堂の前で靴を脱いだ一同は順々に木の板を踏んで中へ入った。誰もが口を結んでいた。


 葬儀自体が終わってしまうと、大人たちは集まって、険悪な雰囲気で話し合いを始めた。進さんが飛び込んでしまった駅は様々な方面へ枝分かれする利用人口の多い駅だったから、ダイヤグラムは乱れに乱れ、多方面の電車が影響を受けた。鉄道会社は多額の請求をし、その負担を和らげるために進さんの家の人は自分の親戚から工面しようとしていた。先日の母の神妙な電話はそれだった。話が纏まらず親戚の集まるこのタイミングで解決する気のようだ。

 大きな四角いテーブルを二つ、直列に繋いだ大きな一つの長テーブルに座布団が等間隔に置かれ、そこに親戚一同が順に並んだ。僕は一番端っこの、廊下側の席に着いた。隣には母がいた。先ほどの五十路の女性がほうじ茶を入れて、それぞれの前の湯飲みに注いでいった。しかし、それが全員分終わらぬうちに六十位に見える男性が口を開いて、

「進さんの問題は進さんのご家庭で解決するべきでしょう」

 と言った。誰なのか、自分との血縁関係がどういったものなのか知らないが目元が母に似ている気がする。自分とも案外近しい距離にあるのかもしれない。だが、誰とも会話をしないし、誰も教えてはくれないのでわからない。興味もないのでそれで別によかった。

「親戚一同の罪なのだからお支払いしていただけなければ困ります」

 進さんの兄と思われる人が答える。確か名前は翔太しょうたといった。しかし、『罪』と言う単語を出してしまった翔太さんは袋叩きにあう。

「罪というなら、それこそ翔太さんや洋子さんの罪でしょう」「そうだ。兄弟だというのに一体何をしているんだ」「どうして兄弟なのに進さんの様子に気がつかなかったんだ」

 皆、母も含めて、自分達に支払いが及ばないように必死だ。今思うと、母は世間体を気にしたからでなく、話し合いに参加して降りかかる火の粉を払うために僕を連れてまで出席したのかもしれない。しかしそれも、どうでもよいことだった。

 暗黙の了解として、家ごとの代表以外には発言権がなかった。女子供は黙っていろ、という雰囲気もあったが、我が家の場合、家長扱いなのは母であるため許されているのだろう。母はめいめい、翔太さんを非難していた。

 進さんに同情する声は葬式の前後では一度も聞かなかった。死してなお迷惑のかかる奴だとか、裏切り者だとか、恩知らずだとか、そんなような声ばかりだった。しかし、この会議ではそんな台詞で翔太さんを攻撃していた。

 聞くところによると、進さんは養子らしい。翔太さんと洋子さんは血の繋がった兄妹だが、進さんだけは違う。仲も良くなかったようで、遺影のための写真を探す際、写真がほとんど見つからず、見つけたものの中に進さんが前面に写っているものはなかったらしい。笑って写真に写っているものも、一つもなかったのだと。そんな彼は高校卒業後すぐに進さんは家を出て、一人暮らしを始めたのだそうだ。ああ、と思った。僕には進さんの境遇が良く理解できると思った。居場所がなくて家を出たものの、結局一人きりで家と仕事場を往復するだけの毎日。そんな生活に嫌気がさしたんじゃないだろうか。

 急に目の前の醜い会議が気持ち悪くなって、耐えられなくなった。僕は立ち上がって、トイレに向かった。誰も僕に気付いてすらいなかった。

 大人たちが侃侃諤諤かんかんがくがくと声を上げるその隣の間では洋子さんとその娘が居た。何もない和室で退屈そうに指人形でおままごとをしている。おままごとは何かそこらにあるものを生活の何かに見立てて行う、擬似的なものだ。だがこの和室には何もないので、物語が膨らまないのだろう。隣での嫌な雰囲気を子供ながらに感じて、気分が乗らないのかもしれない。それでもおままごとに集中しているような素振りをあえて見せていた。何度も体制を変えてくねくねと、飽きが隠しきれていない姿勢だったが、それでも母の洋子さんをちらちらと見て大人しくしていようと努めていた。洋子さんはそれに気づいているが、何もできないのだろう。娘からの目線が来るたびに疲れた顔で微妙に微笑んでみたり、気づかないフリをしたりしていた。そして娘から視線を外して外を眺めて、僕を視認した。

 ぼうっと見て立ち止まっていた僕は気がついて、トイレに行った。吐き気は大体治っていてもう行く必要がなかった。隣接している手洗い場で口を濯いで廊下に出た。しかし、今更会議の大人たちに混ざりに戻る気分でもなかった。

 トイレの隣には外に続くドアがあり、ドアの上半分のガラスからそれが見える。そこからは離れへ向かう細い渡り廊下があった。渡り廊下は雨除けの天井はあったが窓や壁はなく、冬場は寒そうだと思った。ドアの前で突っ立っていると、後ろから声をかけられた。

「素足だと古いから危ないわ」

 振り返ると洋子さんがいた。片手には手を繋いだ娘がいた。

「あら、離れに行くのかと思ったけど、違うのね。余計なお世話だったかしら。」

 僕が上手く答えられないでまごまごしていると、洋子さんはじっと僕を観察してから、

「玄関から靴を取っていらっしゃい。チズの遊び相手になって頂戴。」

 と言ってドアを開けて渡り廊下を歩いて行った。チズ、とは娘の千鶴ちゃんのことだろう。僕なんかが千鶴ちゃんの遊び相手に務まるとは思えなかった。意図がわからずに立ち止まってると、渡り廊下の途中で洋子さんが振り向いて僕を一瞥した。はっと気がついた僕は急いで玄関に向かった。

 会議は玄関口から見て右手の手前の部屋。靴があるのはその隣の食堂の前の玄関。大人たちから何か言われるのではないかと思い、家の廊下を大きく回って玄関へ出た。それでも大人たちには玄関の方がある程度見えるのだが、大人たちは話に興奮しているのかこちらに気づくことはなかった。

 玄関にはたくさんの人の靴が散乱していたが、自分の靴だけはぽつんと離れたところに置いてあったのですぐ見分けがついた。四つん這いで体を乗り出してその靴を拾って、すぐにぱたぱたと戻った。

 洋子さんも千鶴ちゃんも姿が見えない。ドアを開けて靴を履き、渡り廊下へ出た。

 少し肌寒いが、柑橘系の薫風が心地よかった。渡り廊下は所々ささくれがあって、裸足だと確かに危ない。そんなことを俯きながら考えていると、離れについた。なかから千鶴ちゃんの声がする。スライド式のドアを開けようとすると立て付けが悪いのかほとんど開かず、体重をかけるとガラガラと大きな音を伴ってやっと少し空いた。その少しの空間から半身になって中に入った。

 外と比べると中は薄暗かったが、すぐに目が慣れた。洋子さんは尻と両手を地面につけて部屋を眺めていた。千鶴ちゃんはしばらくこっちを見ていたが、すぐにおままごとに戻った。

「ここはね、進の部屋なの。」

 部屋を眺めたまま洋子さんは続ける。

「進はきっと私のことが好きだったのね。でもシャイだから何も言わずにいつも遠くからちらちら私を見てた。食事の時はお茶碗を持ちながら、外では木や建物の影から。

 兄弟が増えると聞いて、最初は喜んだの。勝手に女の子だと決めつけて、あの子が来たらおままごとをしようとか、どんなお話をしようかとか、ずっと妄想してたわ。でも、実際家に来た人はそんな想像とはかけ離れてた。

 私と、それに連れられた翔太は、進を気味悪がって自然に距離を取ったから、それに進から距離を縮めてくることはないから、兄妹なのに全然喋らないし、当然いつまで経っても仲良くならなかった。それを見かねた私たちの親はね、仕事道具を置いていたこの部屋を掃除してね、進の部屋にしたの。母屋から離れた部屋。何をするにも少し距離のある廊下を渡らなければならないような部屋。いつでも静かで暗い部屋。ひとりぼっちの部屋。

 進はね、掃除の時に出てきたラジオをずっと使ってて、廊下を半分も渡った頃には微妙に音が漏れたラジオが聞こえてくるの。私はラジオなんて何が楽しいんだろうと思っていたし、なんなら、安物のラジオだからね、音の感じが怖いとすら思っていたけど、他に何もないものね。気づかないなんて残酷よね。」

 部屋の隅に移動した千鶴ちゃんがおままごとに熱中しているようなふりをしている。決して邪魔にならないように静かに、それでいておままごとをしているとわかるように、確かに聞こえるように何か喋りながら指人形を動かしている。なんだかそんな「おままごとごっこ」に千鶴ちゃんは慣れている気がした。洋子さんはそれすら見ないまま僕に背を向けていた。その背中は僕に何か言葉を求めているように思えた。

「どっどうして、そっその話を僕に」

 言葉が吃る。でも、自然に出た言葉だった。僕の言葉を聞いて、洋子さんはやっとこっちを向いた。

「ごめんなさいね。ただ、あなたは進によく似ているから。今の話を聞いて、いい気はしないだろうけど、つい」

 洋子さんは泣かなかった。そういえば駅でも泣かなかった。理路整然と進さんの自殺を駅員さんに説明していた。ただ、彼女の目には憐みと、確かな悲しみがあった。

 彼女は僕の目を見ていたが、僕に見え隠れする進さんの面影を見ているように感じた。

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