16  16時



 さ、そろそろキリもいいだろう。

 テヒョンは腕時計を見て週末コースの受講者に片付けを始めるように声を掛ける。

 今日は銅板磨きとプレートマーク作りで1日が終わった。受講者たちが図案を書き込めるところへ進むには、まだまだ時間が掛かりそうだ。

 片付けを進めていると、わぁっ!と、女性受講者たちの声が上がった。

 何事かと顔を上げると、ソンジェがお姉さん方女性受講者たちの全面包囲に遭い「あなたお名前は?」「俳優さんなの?」「まあ、お肌すべすべね」などと言い募られ困惑しているではないか。

 ソンジェはソンジェで「すみませんが、あの・・・副手の、・・・ハン・テヒョンッシの姿が見えたもので」などと言いながらマゴついている。テヒョンもコースを受け持つようになったばかりの頃は、そんな風にチヤホヤしてもらえたものだが、それももう遥か昔のこととなった。

 

「ソンジェ、外出て」

 テヒョンは言葉少なに言うと、奥様方受講生には「みなさんは片付けを進めてくださ〜い」とにこやかに声を掛け、ソンジェの後を追って戸の外へ出た。


 後ろ手に重い鉄のドアを閉めながら訊く。

「家でゆっくりしてなくて大丈夫なのかよ」

 若干疲れているようには見えるが足取りもしっかりしているし、多少は回復したのだろう。

「今日は学部生の舞踏の練習があったから少し指導してきたんだ。ほら、先生方今日はいらっしゃらないだろう」

「そういうとこソンジェは偉いよな〜自分が立たない舞台の練習なんて俺だったらこれ幸いと休んじゃうよ」

「なんだかんだ言って俺は舞台が好きなんだな」

 ソンジェは弱々しく笑った。

 そのどこか寂しげな雰囲気を払拭するかのようにテヒョンはあえて明るく言う。

「あ!俺まだ片付けあるけど、今チョンエリッシが油画で描いてるはずだからお礼言ってこいよ。すぐ俺もそっち行くから。じゃあな」

 余った銅板はこちらに集めてくださーい、と叫びながらテヒョンは教室に戻って行った。








 油画の実習室でソンジェが見たのは、薄汚れたソファーに体を沈めて画集をめくるエリであった。その静かな空気になぜか、声を掛けてはならないような気がして言葉を飲む。

 普通の大学生はバイトか遊びに行っている時間なのに、だだっ広い部屋をぐるりと取り囲む有象無象の描き掛けキャンバスたちに見下ろされて、エリは一人、そこにいた。

 人気ひとけの無い週末の夕方。画集をめくる音だけを静かに響かせていたエリは人の気配を感じ、顔を上げ、目を見開く。

「ソンジェッシ・・・」

 思わず声が漏れた。昨日は死ぬかと思うほど具合が悪かったのに、なぜもう大学にいるのだ。

「・・・熱は、大丈夫なの?」

 その疑問を素直に口に出す。

「おかげさまで、昼にはもう全快だ」

 ソンジェはおどけて、張りのある声を朗々と出してみせたがエリは訝しむ。

「何でもう大学に来てるの。信じられない」

大丈夫ケンチャナヨ。食事もしたし、エリッシに言われた通り薬も飲んだ」

「ふん・・・。」

 再び画集に目を落としたエリの鼻息がぞんないな返事として返ってくる。


 昨日の今日で随分とまた態度が違うことだ。

 ソンジェがのこのこと大学に出てきたのでまた腹を立てているのだろうか。

 もう大丈夫なんだけどな、とソンジェは肩をすくめた。

「この絵はエリッシの?」

 実習室を見回して、エリのカバンが投げ捨ててある一角を指差す。

「うんそう」

 エリは目も上げずに言う。

「俺は絵を描かないから、こう言うのが正しいかわからないんだが」

 しばらく壁に掛かった描き掛けの絵を見つめたあと、ソンジェは大きく吸った息を吐きながら

「エリッシの絵は見ていて気持ちが良いな」

 と、体を緩めた。

「ふん。ありがとう」

 ここの表現が素晴らしいだのコンセプトがどーだの何を表現してるかわからないだのと言われるより、自分が感じたことをたどたどしく言うソンジェに好感を覚える。

「でもそういうこと言ってると、あの彼女が怒るからここには来ないほうがいいと思うよ」

 エリの声は冷たい。

「・・・?彼女とは、誰のことだ」

 ソンジェの頭に疑問符が浮かぶ。

 エリは憮然として言う。

「あんたの彼女じゃないの?ほら昨日の。彼女来るなら私行かなくても良かったんじゃん」

 そこまで聞いて、ソンジェはやっと昨夜のエントランスでのことに思い当たる。そうか。エリは俺の彼女が来たのだと思って脱兎の如く逃げていったのか。

「あー・・・あのスジンは彼女ではないんだ。昔からの知り合いとでもいうか」

 その先をソンジェは言い澱む。

「でも美人の知り合いはちゃんと看病してってくれたんでしょ?よかったじゃない」

「いや、彼女は寧ろ予期せぬ厄災だった。帰ってもらうのに一苦労したんだ・・・」

 自分で言いながら、昨日の攻防がソンジェの脳裏に蘇ってきて、自然と眉間に皺が寄る。

 いや冗談抜きに心身ともに消耗する戦いであったのだ。

「厄災って・・・」

 うんざりしたようなソンジェの表情にエリは吹き出してしまった。

「・・・大変なんだね。いろいろ。」

 口元に笑いを滲ませてエリは言った。

「色々とな。」

 ソンジェは口元に自嘲じみた笑いをにじませながら、エリの膝の上の画集を覗き込んではたと気づく。

「む、その写真」

 見開きのページに、広い空間に掛かる絵画の写真が印刷されている。

「これ?これアメリカのアーティストの画集で」

「この展示写真、大学の時一緒に経済学取ってた奴の家だ」

「えーーーー!」

 エリはページを覗き込んで叫ぶ。

「ここって有名なコレクターの家のリビングだよ!」

「この壁面は彼の誕生日パーティーで見たな」

「はー。ソンジェッシはほんとにセレブなんだね。これ億する作品だけど」

 エリはソンジェを見上げてしみじみと言うがソンジェはなんでもない事だと首を横に振る。

「むこうの大学行ってたらいろんな人に出会うだろう」

「え、なに?アメリカで、経済学やってたのに今は大芸で舞台芸術なの?」

「そうだ、大急ぎで経済学のカリキュラム終わらせて大芸に来た」

「なんでまたこんなチンケな大学に」

 エリも言い草がひどい。

「俺の一番好きな演出家の先生がここで講師をしていてな。先生の劇団に入ることは出来そうにないから・・・もう少し大学で学問を修めるという体を保ってるんだ。」

「劇団に入れないのはなんで?オーディションで落ちたの?」

「んー・・・」

 ソンジェは何か良い言い回しはないものかと考えるが上手いことが思い浮かばない。

「大学が終わったら東京に帰って親の仕事手伝うことになってる。もう少しだけ大学生でいたいんだ」

「お〜長い自由時間プー太郎タイムね。だからアジョッシなのに大学にいるの」

「おい、アジョッシはやめろと」

「あはは!」

 エリは朗らかに笑った。



「で、エリッシの足は大丈夫?」

 ソンジェは画集の下に見える足元の白いサポーターに気づく。

「ああうん!今日はサポーターもしてるし」

「それだけで大丈夫か?足首は固定しないと」

「うーん、どうだろう」

「見せてみろ」

 ソンジェは真剣な眼差しでエリの足元に膝をつき、エリの足首に手を伸ばす。

「・・・このサポーターは湿布がずれないようにするとか保温の為のものだから、保護したいならテーピングで固定するべきだ」

「えー・・・テーピングしたことないんだけど」

「今ちょうど持ってるからテーピングしようか」

 ソンジェはエリの足首を保定したまま床に置いた鞄を顎で指す。

 エリはどうしようかと迷うが、また捻りでもしたらミンギュに何を言われるか分かったものではない。

「大変じゃないならお願いしようかな・・・」

 エリはおずおずと、ソンジェに頼んだ。

「了解。すぐに終わる」

 ソンジェは笑って鞄を引き寄せると、中からテープのロールとハサミを取り出した。

「そんなのいつも持ち歩いてるの?」

 失礼するよ、とエリに声を掛けてサポーターを脱がしていたソンジェは伏せ目がちに柔らかく微笑む。

「舞芸なんて半分スポーツみたいなものだから怪我は茶飯事だな。湿布、ぬるくなってるから剥がすぞ。」

 言いながら、ソンジェは手際良くエリの足からなんやかんや剥ぎ取り、テープを切っては貼っていく。

「・・・」

 さっきまで言葉がテニスのラリーのように飛び交っていた実習室に突然静けさが舞い戻ってきた。しかしその中でビーッとロールから引出されるテープの音、シャキ、シャキとハサミの刃が噛み合う音が心地良い。

 膝に乗せたエリの足にそっと触れるソンジェの指がひんやりと、熱を持った患部に触れる。

 窓から入る夕方の光の筋に、舞う埃が姿を現しては消えていった。


 ソンジェの処置は素早かった。足の甲を出発点につつつ、とふくらはぎの方へ張り伸ばされたり、踵を巻き込んで貼っていたり、一見、てんで好き勝手に貼っているように見えるその手元をエリは興味津々に眺めながら、嘆息を漏らした。

「わかった・・・。筋の動きを制限するために貼るんだ。グルグル巻くのかと思ったのに」

「!よく分かったな。筋がこれ以上伸びないように貼るんだ。」

 ソンジェが手を止めて視線をあげると思わぬ近距離でエリと目が合い、慌ててまた手元に目を落とす。

「すごいね。こんなちゃんとしたテーピング初めて見た。体の関節や筋のつき方が分かってないと出来ないね」

「そんなに珍しいものではない、先輩や後輩に巻いて慣れているだけだ。エリッシは筋のつきかたを知ってるんだな」

「座学で習うし、ヌードデッサンとかもあって体の構造は一通り勉強するの。でもこっちを巻いたらこっちに引っ張られて、関節がもうそれ以上動かないとか、理に適ってるのおもしろい。」

 エリは鼻息荒く眺めている。

「そうか人体も描くのだな。そういえば、テヒョンからモデルをやってくれと頼まれたことがあったな」

「えっ、ソンジェッシはモデルやったの?またやる?」

 エリの声が一際高く弾む。

「まさかそのような、やるわけないだろう。・・・さあ、できたぞ。」

 笑ってソンジェは立ち上がった。

「エリッシ、足首はどうだ?キツすぎないか動かしてみろ。」

 エリは画集を閉じるとソファの上に置き、テーピングが巻かれた足を持ち上げて見せた。



「そーやって無駄に動かすから痛めるんだぞ!」

 ソンジェの肩越しに飛んできた声の主は、横を通り抜けてエリのもとに来ると、パシッとエリの膝を叩いた。

「いってぇ!ミンギュー!」

「ほらどけよ、俺のソファだろ」

 睨み付けてくるエリを横目に、ミンギュはエリの横に腰を下ろす。

 ソファの中の古いスプリングが沈み込むミンギュの体重にギギィと音を立て、エリの体が反動でぼよんと跳ねた。

「なによ、その言い草」

 いったいどうしたことだ。

 大学までわざわざ連れてきてくれるほど面倒見がいいミンギュの、突然の粗野な態度。ぶつぶつ文句を言いながらエリは靴を素足に引っ掛けた。


 ミンギュは鞄からパソコンを取り出しながらニッコリとソンジェを見上げる。

「キムソンジェッシ、こんにちは。昨日は体調を崩してたって聞きました。今日はもうお加減はいいんですか。」

「ああ、おかげさまで・・・。チョンエリッシが薬を届けてくれたのが利いた。」

「聞きました。エリの副手さんが頼んだとか」

「そうよー。カツカレー奢るから届けてって言われたからね。ソンジェッシが塩かけたナメクジよりも弱ってて、びっくりしたけど。」

 ナメクジと並べられたら普通は気分を害するところなのかもしれない。しかしソンジェは今、湧き立つような心の高揚を感じていた。それは楽しさの中にも胸の奥がむず痒くなる、新鮮な感覚だった。

 エリは画集を閉じて手をソファのヘリに掛け、立ち上がるような姿勢を取った。

 そこにソンジェはごく自然に手を差し伸べ、紳士のようにうやうやしく、普段よりも低い声を出す。

「その節は、お恥ずかしいところをお見せしましたね。わたくし、あのとき死にかけていたナメクジです。この通り、全快しましたのでお礼を申し上げに参った次第です。」

 言い終わってソンジェは気品ある身のこなしで礼を取り、腰をかがめた。その過剰に演技掛かった言い回しにひひひナメクジひひひと歯を見せて笑いながら、エリはソンジェの手を取り立ち上がった。


 それを横目で見たミンギュが声を上げる。

「おい、足に気をつけろってあれほど」

「なによ!どけって言ったのミンギュでしょ。大丈夫よテーピングちゃんとしてもらったし、ソンジェッシが手ぇ貸してくれたし」

 顔を痙攣ひきつらせたミンギュを他所に、エリは立ち上がり、画集を本の山に戻し体を伸ばす。

「んーーー。じゃあ描くかな・・・あ、先にコーヒーをセットしてこよ。」

 エリは研究室へと姿を消した。

 そのエリを視線で追うソンジェをソファから見上げているミンギュから、ニコニコ顔が今にも滑落しそうになっていた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゼミの後は二食の氷 세미나후에는둘째식당얼음 杉野籌木 @suginochugi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ