15 二食のカツカレー 温玉を添えて


 なんだかカン・ミンギュの機嫌が悪い気がする。

 別に何がおかしいと言うわけでもないのだけど、テヒョンの斜め向かいのミンギュの皿の上で、フォークを突き立てられた魚が怯えているように見える。

 いやいや、それは気のせいに違いない。怯えるも何も、魚はもうしっかり衣も付いて、カラッとフライになっているのだから。


 しかしまた、カッ!とフォークと皿のぶつかる音がすると、テヒョンは顔を上げてミンギュの手元を見てしまう。

 この鬼気迫る空気がどうにもおかしい。ミンギュは微笑んでいるのに。

 ああっ、くし切りのトマトも怯えている。

 そのミンギュの隣でカツカレーを掻っ込むエリの、幸せそうなことよ。

 触らぬ神に祟り無し。他人の色恋沙汰などその最たるものだ。

 テヒョンは何も見ないふりをして静かに、蕎麦をたぐった。







 ミンギュの『ニコニコ不機嫌』はカツカレーを待っている辺りで始まった。


「チョンエリッシ、昨日はほんとにありがとね!助かったよ!」

「テヒョンさん。話は聞いてますね?私がどんなに活躍したか。」

「勿論。今朝電話があったよ。熱が下がって楽になったって」

 二食、こと大咲芸大の第二食堂の食券券売機前に3人はいた。

 エリとミンギュ、そして本日のお財布、テヒョンである。

 昼飯時とはいえ学生の少ない土曜なので二食も人影がまばらだ。うしろから急かされる事なくメニューを吟味することができる。


 エリは交渉に入った。

「じゃあ私のおかげですね?」

 眼光が鋭くなる。

「そうだね!」

 テヒョンは感謝丸出しだ。

「じゃあ、温玉つけてもいいですよね。」

「いいよー!」

「あと、パピコもつけてくれますね!」

「いいよー!・・・え?」

「っし!」

 テヒョンが「いいよ」の内容に気付いた時には、エリは拳を高らかに掲げていた。

「あ!今になって取り消そうったってダメですからね。いいよーって言いましたからね。」

 エリは今にもスキップしそうな勢いで、カツカレーと温玉のボタンを押した。

「どんな騙し打ちだよ・・・おまえは小学生か」

 と、呆れ顔のミンギュがボソボソと呟く。

 温玉でもパピコでも幾らでも食べてくれ、とテヒョンは思った。あのソンジェが、チンチャコマヲほんとうにありがとうと電話口で言ってきたのだからエリの訪問が相当助かったのに違いない。


「エリッシ、足の怪我が結構酷かったんだね。なんか悪かったね。」

 がやがやと3人でトレーを持って、カウンター前に並ぶ。

 昨日は無かったエリの足首の白く分厚いサポーターが目立っていた。いつどこでまた挫くかわからないから、念のためつけておけよとミンギュに言われ、一日中つけておく事にしたのだ。


「そうだったんですよ。昨日の日中は痛み止め飲んでたからすっかり忘れてて。夜はもう痛かったからソンジェッシ重くてベッドまで運ぶの大変でした。あ、おっちゃん、温玉直に載せちゃっていいからー!カツの横ね!」

「俺あったかい月見蕎麦」

「アジフライ定食を」


 並んだ食券をチラ見しておっちゃんは、あいよ、と渋く応える。

 穏やかな土曜の二食。天井の高い広々とした空間は大きな窓からふんだんに差し込む陽光でぽかぽかとあたたかい。皆がゆったりリラックスして食事と交流を楽しめる場所だ。

 その中で全く心穏やかでいられない男がいた。

『ソンジェ』の単語に反応して顔色を変えたミンギュだ。


「エリ・・・昨日またソンジェさんと何かあったの?」

 ミンギュの声がわずかにうわずる。

 それにエリはあっけらかんと答える。

「ああー!昨日ねソンジェアジョッシソンジェおじさんの家に行ってきたの。」

「ぶふふ!!!あじょっしおじさん!」

 テヒョンは吹き出した。あのソンジェをアジョッシ!オッパおにいさんじゃなくてアジョッシおじさん!これはエリを派遣した甲斐があったと言うものだ。次エンゼルパイをねだられたらあげることにしよう。

 大喜びで涙まで流しているテヒョンとは正反対に、ミンギュの声のトーンは下がり、顔がニコニコと凍っていった。


「へぇ・・・。それはまたなんで?」

「ソンジェッシが熱出したって電話来て、テヒョンさんがまだ勤務中だったから私が薬を届けに行ったの。」

「あー・・・そうなんだ」


 ミンギュはテヒョンをチラリと見遣る。テヒョンは首筋がスッと冷えた気がした。どうしたことだ。俺も風邪か。

 飛び交う不穏な空気には気づかず、エリは続ける。


「ソンジェッシはさすが舞台芸術だよね。体を使ってる人の体なのよ。服の上からでもわかるわ。あれはマルスよ。ダビデよブルータスよ。国宝級肉体美ね」

 言いながらエリは手で造形をなぞるように指先を動かす。

「そうだよなー。ソンジェは舞踏もやるから全身に綺麗についてるよな。美術解剖学の模型に良さそうだ。お、俺の月見蕎麦あがったから先に行くわー」

 テヒョンはほのぼのと応えると、月見蕎麦をトレーに乗せて七味を振ると、箸を掴んで一足先にテーブルへと向かった。

 美術学科の人間はヌードデッサンや美術解剖学などで裸体を見慣れており、それも描くために観察してきているため、筋肉の形や体の構造について語ることのハードルが低い。


 エリは続けて少し興奮気味に語る。

「ねえミンギュ聞いてる?造形的にすごいっていうのかな、大胸筋は大きく張りがあって、こう、胴も締まってて」

「へえ」

「腹筋はそんなに割れてなくて、スッと綺麗なんだけど、外腹斜筋が物を言ってて。ほら、ズボンの脇から股間に向かってつながってる感じの」

「へえ」

「特に僧帽筋の脇の下ら辺なんてすごいんだから。」

「へえ」

「瞬発力とか見ると、足の筋肉もね、大臀筋と下腿三頭筋は間違いなく綺麗な形してるわ。」

「へえ」

「舞台芸術の人は流石にヌードデッサンはさせてくれないよね・・・。あっ、こんなのここだけの話だよミンギュ。はあ・・・私はすごくいいものを見たと思う。」

「へえ」

 ミンギュは胸のざわつきを隠し、平静を装って続ける。

「・・・で、エリはソンジェさんの肉体美をどれくらい見せてもらえたのかな?」

「あ、見たのはチラッとよ外腹斜筋とお腹のあたりだけ。でも体を支えた時触れて、あと腕の中で」

 と言ったところでおっちゃんがエリとミンギュの揚げ物系を持って来た。

「ほーい、カツカレー温玉乗せとアジフライ定食ね、おう、ボーズ。ソースは箸の横。横。そっちだぞ、おーい、箸は要らんのか」

 ミンギュの口は、自動的にありがとうございますーと動くが、頭の中は真っ白だ。

 腕の中。腕の中と言ったか。腕の中で何をしたのだ。

 ニコニコを顔に貼り付けてはいたが、心中は大時化しけ。大波が荒れに荒れて全てを飲み込んでいた。

 そんな風に意識が飛んでしまっていたから、ミンギュはアジフライ定食の味を覚えてなどいないし、ましてやフォークとナイフを使って茶碗からご飯を食べていたことも覚えていない。








 二食から出てきた2人を昼の陽気が照らす。

「あー!おなかいっぱいだー!」

 エリが腹鼓を打つとツナギがボフボフと空気の抜ける音を立てる。

 講義のあるテヒョンは素早く蕎麦をすするとパピコ代をエリに渡し、ごっそーさーんとヒラヒラ手を振りながら仕事場に戻って行った。


 

「おまえ本当に全部食ったな」

「当然でしょ。昨日の夜から胃袋と段取つけてあるからね」

 エリは誇らしげに胸を張った。

「ね」

 と、エリはミンギュの袖を引っ張る。

「ミンギュ、購買寄ってこ。コーヒー奢る約束でしょ」

「今かよ」

「後がいいの?今からデザイン棟行くんでしょ?眠くなんない?」

 そう言われると自分の心配をされているようで、ミンギュは嬉しくなってしまう。飲むしかあるまい、コーヒーを。デザイン棟に行く用も特に無いのだけれど。

「っあー、そうだね。じゃあお願いしよっかな」

 自分だけに向けられた、僅かな想いが嬉しい。ミンギュは頭の後ろをぽりぽりと掻きながらエリの後についていく。


 エリは悩みに悩んで、白いパピコを買った。さっぱりした味は食後の目覚ましに最適だ。

 ミンギュはコーヒーを片手に、エリがパピコを出してパキッと二つに割るのを複雑な思いで眺めている。

「さて。私は今からまた制作に戻るわ。ミンギュはあっちだね」

 あっち、とは、中央広場を挟んで向かいの大きなカラフルなデザイン学科の建物である。

「あー。・・・うん」

 そうは言ったものの、今、ミンギュはなんだか離れ難い気持ちで、胸が苦しい。

「なにもう、そんなに見て。そんなに欲しいなら半分あげるからコーヒーの後で食べな」

 ミンギュの視線を、パピコを欲しがっていると勘違いしたエリが割った半分を突き出してきた。

 いつもならここで当然のようにパピコの半分を受け取って、碌に言葉も交わさずに去るところだ。

 どこまで行っても交わることのない線路のように平行線の距離感を保ったまま、もう何年も、エリのそばで息を潜めてきた。こいつが入っている寮の男風呂の外に立って見張りをしていても、努めて平静を保ってきた。想いがこれ以上進んでしまわないように。

 けれど、それは本当に息を潜めているだけだったのだろうか?本当は、一歩を踏み出すのが、怖かっただけなんじゃないのか。

 今日はもう少しだけ、側に居たい。

 そんな想いがミンギュの口を開かせる。


「なあ、また後で寄ってもいい?なんかあのソファ、座ってるとアイディア降りて来るっていうか」

 どうか変に思われませんように。

 ミンギュは頭をぽりぽり掻きながら平静を装う。

 パピコの頭をちゅうちゅう吸っていたエリは、ミンギュの方に差し出していたパピコの片割れを引っ込めると

「じゃあこれは研究室の冷凍庫に入れておくわ。またあとでねー」

 と軽やかにきびすを返した。ぱたぱたと数歩、小走りに行ったところで振り返り、席料が云々と叫んでいる。

 ミンギュはそれには応えず、デザイン棟へと足早に向かう。

 赤くなった顔を見られる訳にはいかないのだ。



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