14 ミンギュ



 よく晴れた気持ちの良い朝である。エリは布団から起き出して、んーーーっと体を伸ばす。

 朝と言っても、もう日が高い。母はもう仕事に行ってしまい、エリは家に一人のようだ。

 今日は土曜だけれど、ミンギュが迎えにくるのであまりゆっくりもしていられない。せわしなく起き出し、布団をぱたぱたと畳んで着替え、歯を磨く。

 朝ごはんは要らない。

 だって今日はカツカレー!

 エリはルンルン気分で湿布を張り替える。昨日よりは足首の腫れが引いたから今日も大丈夫。念のためにサポーター持って行こうかな。


 そんなふうに準備をしていたらミンギュがやってきた。

「おーいエリッシ、あれ・・・。そのツナギ昨日のと一緒じゃん」

「あー、うん、汚れてないし」

 汚れていない?汚れていないとは。

 ミンギュは腕組みをして、言葉の意味を咀嚼する。

 ミンギュの知る限り、エリは3着ほどツナギの作業着をもっている。これは白地に青っぽい色が多めに飛んでいるのでミンギュは勝手に『マリン』と呼んでいる。他のものとは見間違えようが無い。どこからどうみても、昨日と同じツナギだし、若干オイルの匂いがする気がする。

 言葉をカミカミ噛み砕いてみたが、認識は変わらない。どうやらミンギュには分からない『汚れていない』の基準が世の中にはあるようだ。


 もうそこには触れず、ミンギュはエリにヘルメットを渡す。

「ほら、ヘルメットかぶれよ」

 ミンギュから手渡されたフルフェイスに、ぐりぐりと頭を突っ込みながらエリは被る。

 被って顎のベルトをしめながら、エリは不満げに

「ねえ、いつも思うんだけど。ミンギュのメットの方がいいんだけど」

 モゴモゴと、ぐぐもった声で注文をつけた。


 エリがかぶっているフルフェイスのヘルメットは頭だけでなく顔もしっかり覆われており、目の前にシールドが下りる。中はタイトな作りでクッションも厚く、頬が圧迫されてきゅうくつだ。おまけにミンギュの被っているものより倍は重さがあるので首がぐらぐらする。ミンギュはいわゆる半ヘルというやつで、お洒落だ。顔もぎゅうぎゅう圧迫されずすずしげな余裕ぶっこいた顔でいる。

 どちらかというと、エリはそっちを被りたい。


 ミンギュは不満げなエリを見下ろすと、ヘルメットの頭をコンコンと叩いて笑う。

「こっちならシールドがしっかり下りて、目に虫が入らなくていいんだよ。俺のおすすめ。」

「・・・ふん、なら仕方ないか。」

 本当は、もし何かあった時エリの顔に傷がつかないように、という理由がある。転倒した時の頭部の保護にはフルフェイスの方が遥かに適しているのだ。

 万が一のためにミンギュは自分が普段使っているフルフェイスをエリに渡している。


「さ、乗れ!」

「よし、乗った!カチャー!しゅっぱーつ

 エリがミンギュの胴に腕を回し、元気よく声を上げる。

 ミンギュがアクセルを吹かせると、バイクは乾いた空気を切って走った。




 ************************





 大咲芸大おおさかげいだいは週末に一般向けの絵画講座を開講しており、テヒョンは午前中からその準備に追われる。今日からは銅版画だ。版画コースの準備室で、巨大な金属裁断機を踏んで銅板をバツンバツンと断ち切り、人数分の金ヤスリと布切れを用意する。ピカールを机の上に持ってきて、あとはー・・・図案を描く紙か。テヒョンは必要なものを指折り数えながら準備を進める。

 土曜日は授業を受ける学生が少ないので人通りもまばらになり、大芸の敷地内は鳥の声がよく通る。


テヒョンッシテヒョンさん、実習室もう開いてますか?」

 おや。もう来たのかと、テヒョンは藁半紙を棚から引っ張り出しながら声のする方を向く。

 はたしてそれは勤勉な学生、エリである。

「お〜チョンエリッシ!おはよう。実習室は開いてるけど昼までは研究室閉まってるから保管庫のキャンバスは出せないよ」

 エリが今日は1人ではないことにテヒョンは気づく。

 ふーん。エリの後ろに立っているのは、カン・ミンギュか。デザイン学科の4回生が土曜に大学にいるなんて珍しい。

 ミンギュはテヒョンの視線に気づき軽く会釈する。


「大丈夫です。お昼まではエスキースするんで。ところで、昼、何時にしますか?」

 エリの目が猛禽のように光った。

 くくく、とテヒョンは喉の奥で笑いを噛み殺し、顔をくしゃっとさせる。

「13時にどうかな。」

「じゃあ13時に二食で」

「はいはーい、がんばってー」

 版画室の横を抜けて、エリとミンギュは実習室へと向かっていった。

 テヒョンはまた静けさの中に、ぱらりぱらりと藁半紙のかすれる音を響かせる。





「なに、今日二食で食べるって言ってたのは、あの副手と約束してたの?」

 人通りの無くなったところで、ミンギュはを切り出した。

「そう。カツカレー奢ってもらう約束なの」

「へー、いいね俺も奢ってもらえないかな」

 その言葉に、エリは手首がちぎれそうなほど、顔の前でぱたぱたと手を振って言う。

「無理無理!あの副手ケチだから!エンゼルパイ一個だってくれないんだから!今日のカツカレーは私が手伝いをしたから。正当な労働の対価なの。」

 ふーん、とミンギュは息を吐いた。


「ミンギュあんた今日大学に用でもあるの?」

「えっ」

 あっ、しまった。ミンギュは視線を泳がせる。家に帰る途中だから大学まで送るという体だった。

「あー。・・・来月出すコンペ用のパネル進めようと思って。デザインの部屋開くまでさ、おまえんとこのソファかしてくれよ」

「ふーん。席代取ろうかな」

「それは俺の服返してから言え」

 さくさくと二人で踏む春先の柔らかな芝生に、ミンギュの足取りも弾む。




 エリは何も気づかない。知らない。ミンギュの思いにも、なぜミンギュが隣にいるのかも。

 ミンギュは、潜水のようだと思う。水中で息を止めるかのように自分の思いを秘めて、深海を泳ぐ美しいサメに添う。友達という立場で一番近くにいられるこの距離をミンギュは甘く苦く、心地よく感じている。

 息をしたい、思いを告げたい、そういう衝動がくるたび、必死で押さえ込む。

 今息を吐いてしまったら、サメは逃げてしまう。逃げたが最後、野生の生き物は2度と戻ってこないだろう。

 ミンギュは言わない。

 自分の口元から小さく漏れる気泡を後ろにたなびかせ、息を止めて、サメと泳ぐ。





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