13 スジン
アクセルを踏む足に感情が籠る。
ハンドルを握りしめて、綺麗にグロスが塗られた唇を噛む。
ソンジェが熱出して寝込んでるなんて知らなかった。
知ってたら、私だって滋養のあるものを持って来たのに。
スジンの胸中を苦いものが満たす。その思いの行き所を見つけられない。
血液の中にどす黒いものが巡ってくるような感覚に、スジンは翻弄される。
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玄関先に転がり出たソンジェは、エリがエレベーターの中に消えてしまうと、のろのろと視線をスジンに移した。
「スジン・・・なんでここに」
ソンジェからはもう立ち上がる気力が霧散してしまっていた。顔から生気が消えている。
ところがどっこい、スジンは追求する気満々だ。
「あれは、どういうことかしら。二人で何をしてたの?」
柔らかなよく通る声が、刺々しく廊下に反響する。
「久しぶりにどうかと思って、今日はワインを持って来てみたの。誰か来てるなんて思いもしなかったから・・・あら。」
言いながら、ソンジェが妙に汗ばんでいることに、スジンは気がついた。
「ソンジェ、どうしたの?」
肩に手を触れると、パジャマは外気に触れて冷えているのに、その下の体が異様に熱い。
「えっ、これって」
「すこし、熱があるんだ。」
「えっやだ」
「あの子はテヒョンの使いだって言ってたろ。薬を届けてくれたんだよ」
ソンジェはじろりとスジンを睨み、扉に手をついて立ち上がった。
「そう言うわけだから、今日は帰ってくれないか。風邪が感染ると良くない。」
「・・・そうね、でも」
スジンは食い下がった。
「ソンジェが本当に大丈夫かどうか見てから帰るわ。不具合があったらこまるでしょう?」
そう言ってスジンはコートの裾を翻して戸の内側に入り、さっさとパンプスを脱ぎ揃えてしまった。
ああ・・・面倒だ・・・と、ガンガンする脳裏で嘆きながらソンジェも中に入る。その頭痛が熱から来ているのか、スジンのせいなのかも、最早分からない。
スジンは、今日のソンジェ何か変だわ、と思っていた。こんなソンジェは初めてだ。
いつだって優しく、スジンの言うことに意を唱えたことなど、今まで一度だって無かったのに。ましてや嫌悪感を見せるなど。
「スジン、悪いが俺は本当に横になりたいから、帰ってくれ。今日は、何も、構うことが、できない。」
両手で顔を覆い、目元を強く抑え、ソンジェは酷くうなだれている。うんざりしているようにも見える。より分かりやすく伝えようとしてか、言葉も細切れの絶え絶えだ。
「いいのよ。あなたが寝付くまで居るわ。お父様も心配するでしょうし。」
こんな時に限って、スジンは頑として引かない。
もう腕組みして寝室の前に立っている。
仕方がない。自分が床につかなければ去らないというなら、自分は床につこう。ソンジェは、飲んだ薬が効き始めるはずなのに、引きずる体がどんどん重くなる気がしてげんなりした。
「・・・ わかった。俺は布団に入るから。そしたら帰ってくれ。あと、鍵を返してくれ」
「それはできないわ。あなたのお父様から預かった鍵ですもの。様子を見てくれって」
スジンは指に絡めていた鍵束を急ぎ鞄の中に仕舞い込んだ。
こう言う時、ソンジェはいつも小さく絶望する。
どこまでいっても自分の首を捉えようとする首輪が追いかけてくる気がする。いや、外れたことなどなかったのかも知れない。このちいさな絶望を積み重ね続けるのがソンジェの人生だと言うのか。
氷水でも浴びたかのような気分で寝室に足を踏み入れ、スジンに向き直って言う。
「訪ねて来てくれたことは感謝する。いつも気遣ってくれてありがとう。今日は帰ってくれ。すまない。では、失礼する。」
スジンが寝室にまで踏み込んでくる前に、ソンジェはドアを閉めた。
「な・・・まって、ソンジェ」
スジンはドアノブを一、二度回してみるが、鍵が掛かっている。
目の前で閉じられたドアの、「拒絶」としての可視化に、スジンは少なからず動揺していた。
未だかつて経験したことのない思いが、スジンの胸の奥をちりちりと焦がす。
「ワイン買ってきたのに・・・」
なんでワインなんか。
持って帰るのもバカらしい。セラーに置いていこう。
スジンはキッチンへと足を踏み入れ電気を点ける。
ソンジェのキッチンには、スジンがオーダーしソンジェにプレゼントした、小型のワインセラーがある。二人で楽しむための飲み物を、いつだって美味しく飲みたい。そんな可愛い乙女心である。
「熱があるなら仕方ないけれど。」
セラーに持ってきたボトルを仕舞い、ふとカウンターに向けて視線を上げると、違和感を覚えた。
いつだって完璧な調度で整った、無駄な物の一切無い、お洒落なソンジェの部屋だった。そこに現れた見慣れぬ物。
「これは・・・なにかしら」
一見、観葉植物のように見えるそれに、スジンは手を伸ばす。すると、切り口から溢れるねっとりとした透明な液がスジンの指に付着した。
途端にスジンの顔色が変わる。
「え、これって?腐ってるの?やだ、気持ち悪い!」
弦を爪弾くための繊細な指なのに、おぞましいものを触ってしまった。
しかもそれが突き刺さっているのは、よりにもよって、バカラのシャンパングラス。
ソンジェの誕生日にスジンがプレゼントした、ペアカラーの特注品だ。
なぜこのグラスに、こんな汚らしいものが。
スジンは慌てて指先を洗い、衝動的にシャンパングラスを掴むと中身を勢いよくシンクにぶち撒け、シャンパングラスをゴミ箱の中に落とした。
ゴミ箱はパキン、と軽い音を立てる。
スジンは息荒く、無言でシンクに横たわるネギを睨みつけた。
ハウスクリーニングを呼ばなければ。
今帰るべき?それとも、ここに残るべき?
スジンは逡巡する。
ソンジェは自分のもの。幼い頃からずっとそう。
お父さまとお母さまからはソンジェの心を掴みなさいと言われて育ってきたし、ソンジェのお父様は私はソンジェと結婚するのだとお約束してくださった。案ずることなど何もないはずだ。
それなのに、スジンの胸の中を波立たせるこの気持ちはなんだろう。ソンジェが数年間アメリカに行っていた時でさえ、こんな風には思わなかったのに。
そこまで考えて、もう一度シンクの中のベトつく植物をちらりと見遣ると、スジンの脳裏に、先ほどの情景がありありと蘇った。
あの、ソンジェの腕の中にいる、あの子の、姿。
今まで見たことのなかった、ソンジェの表情。
カウンターに置かれた異物を見た時に感じたようなこの違和感に、警鐘が鳴っている気がする。
でも、その違和感の正体が何なのか、スジンには分からなかった。
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