第3話 おまけ
「今夜、うちに来ないか」
遠からず言われるだろうとぼんやり思い浮かべていた台詞は、意外と早い時期に坂井の口から飛び出してきた。笛子は頷こうかどうしようか、ほんの少しだけ悩む。すぐに行くと言えば、尻軽な女だと思われるだろうか。行かないと言えば、興醒めして彼が離れていくだろうか。今日がいいのか、いつならいいのか。どんな風に振る舞えば、一番いい女に見えるのか。
恋をすれば、どんな人間も馬鹿のようになってしまうのだ。そう、馬鹿みたいだ。
「…うん。行く」
笛子の小さな声を聞いた坂井は、驚くほどの大きなため息をついて、レストランのテーブルに突っ伏した。
「わかるか?」
「何が?」
「今の、うちに来ないか、の一言が、どれくらいプレッシャーがあるかってことだよ」
坂井の情けない声が、笛子の笑いを誘う。
「さあ…まあ、そうよね、勇気いるかもね」
「万年筆をプレゼントするより一万倍は勇気いるからな、わかってよ」
お互いに子どもではない。家に来ないかとの誘いが、どのような意味を込めているかわかっている。笛子もまた、わかっていた。坂井の家に上り込むことが、何を意味するのかを。
触れ合うだけではない。キスするだけでもない。
(この男に、裸で抱かれるんだ。私は)
まるで水の中にぽかりと浮かんでいるような不思議な気持ちで、そのシーンを想像してみる。うまく思い浮かべることはできなかった。幾度となく触れ合い、抱きしめ合っているのに、いざとなると何も考えられない。何も考えられないのに、心は渇望している。笛子は気付かれないようにそっと熱い息を吐いた。目の前にいる男の肌に、指先で、唇で触れてみたかった。
「ここで、じゃあ帰ろうって言うとがっついてるみたいだし、ゆっくりしようって言うのもはっきり言って嫌だし、だからすぐに帰ろう」
言い訳にならない言い訳を呟きながら、テーブルの上の伝票をつかんで立ち上がる坂井がかわいく見えて、笛子は思わず笑い出した。
「なんだよ、ここで笑うなよ」
「だって、おかしい」
「俺は基本的にださいんだよ、格好よく決められないから許せ」
笛子も立ち上がり、ダウンコートを着る。暖房の効いた店内では暑過ぎる。
「そんなあなたが格好よく見えてくるのよね」
「そうかな」
「じゃあ、あなたは私のことブスに見える?」
「こんなにかわいい君のどこがブスなんだ」
「ほらね。お互いあばたもえくぼよ」
そう、本当に、馬鹿みたいだ。
笛子は歩きながら、坂井の大きな手に指を絡ませた。その手はひんやりとしていたけれど、しばらく繋いでいたら少しずつ温まっていった。
「手を繋いで歩く中年の男女ってどんな風に見えるのかしら」
「夫婦か不倫か、どちらかだな」
「私たちは、不倫か」
「すぐに不倫じゃなくなるからいいんだ」
指をほどいて、今度は坂井の腕に手を絡ませる。
「自信ありそうね」
「ないよ」
「それにしては断定的だわ」
「だって君はもう別居しそうなんだろ」
「そうね、だいたいあの人は家に帰って来ないから」
「ならもう独身同然だ。俺は遠慮しない」
「わがままね。少しは遠慮しなさいよ」
「やだね」
小さな言葉を積み重ねていることが前戯になっていることに、笛子は気付いていた。
人間って面倒ね。そんな風に感じる。特に女が面倒なのだ、きっと。男は女のご機嫌をとることに、さぞかし苦労してきた歴史があるのだろう。
ゆっくりとした速度で歩いていた足を突然止めると、坂井も驚いて立ち止まる。その頬を両手で包み、背伸びして、不意打ちのようにキスをした。
「どうしたの、急に」
「別に。好きよ」
「うん、俺も」
馬鹿みたいでいいのだ。二人がそれでよければ。坂井の唇をペロリと舐めて、笛子はすっと身体を離した。
坂井の部屋に上がると、笛子は少しばかり不安になってきた。初めて男性と二人きりになった少女のように、微かに震えている自分を感じる。
「寒いかな。エアコンすぐに効くから待ってて」
「大丈夫、ありがとう」
マフラーを取ってコートを脱ぐと、坂井の手が自然とそれらを取ってハンガーにかけてくれる。気の利く人ね。笛子は心の中で呟いた。もっと早くに彼の存在に気付いていれば、こんなにも遠回りしなくて済んだはずだった。他の女性に独占される時間もなくて済んだ。ありきたりでつまらない嫉妬心が浮かび上がり、笛子は坂井の広い背中に抱きつく。
「ん?…どうした?」
「…崇さん、私が好き?」
「うーん、答えるからちょっと離れて」
笛子が身体を離すと、坂井は振り返って笛子を強く抱きしめた。
「好きだよ。何度も言うけど、ずっと前から。結婚してる間も、離婚してからも、君を思わない日はなかった」
「気付かなくてごめん」
「いいよ、今こうしていられる」
「私なんかで、いいの?」
「笛子さんじゃなきゃ、嫌なんだよ」
笛子は怖くなった。自分の外見も内面も、何も自信の持てるものは持っていない。何もかも脱ぎ捨てて抱き合うことで、自分に魅力が増すとは思うことができなかった。
「私を…本当に抱くの?」
「抱くよ。喉から手が出るほど欲しい」
両手で顔を包まれ、口づけを受ける。抱いてしまったら、もう欲しいとは思ってもらえないかもしれない。
「今夜が嫌なら、俺は待つよ」
「嫌なわけじゃない」
「じゃあ、何が怖いの?…怖がってるように見えるよ。俺が怖い?」
笛子は首を横に振った。
「…馬鹿みたいだけど、捨てられるのが怖いの」
「なんで捨てるなんて発想が」
「こんなおばさんのどこがいいの?」
「じゃあ君はこんな腹の出たおっさんのどこがいいんだ」
「腹、出てないよ」
「出てるよ、もう中年だから、それなりに…と言うよりも」
坂井は笛子のブラウスのボタンに指をかけ、一つずつ外していく。
「そんなことが怖がる理由かよ」
「怒ったの?」
「当たり前だ。俺が何年思い続けてたか、何度も何度も話したはずだよ」
ボタンが全て外されて、少し寒気を感じる。嫌だとは言えなかった。
「俺は十代や二十代の若い君を知らない。若い君を好きになったわけじゃない」
「でも三十過ぎと四十過ぎでは衰えが違うのに」
「じゃあ誰も年寄りになるまで連れ添うなんてできないよな」
ブラウスを脱がされて下着が見られてしまう。笛子が恥ずかしいと思う前に、少し大きな声で言われた。
「こんなにきれいなのに、何を気にするの」
「きれいなんかじゃ…」
「きれいだよ」
「でも」
「きれいだ。すごく」
じっと目を見つめられる。坂井の眼鏡の奥の瞳に、笛子の顔が映っていた。
「俺が君に惚れてることにつべこべ文句言うな。あと、君が自分を卑下すればするほど、俺も死ぬほどみじめになる」
「そんなこと言ってないのに」
「残念ながら言ってるのと同じ」
坂井が眼鏡を外すと、なかなかお目にかかれない顔が現れる。ひどい近眼の男は、職場でもデートをしていても、眼鏡を外すことはほとんどなかった。
「ここから先、絶対目を閉じるな。明かりも消さない。大事なものが見えなくなるから」
笛子の顔に、あたたかい唇が降ってくる。いつもの癖で思わず目を閉じると、その唇が「目を開けて」と囁く。何度も同じように囁かれ、いつか笛子は目を閉じることができなくなった。
笛子はもう五年以上、夫と肌を合わせることがなかった。だからこそ、まるで初めての日のようにとても不安だった。上手に振る舞えるか、おかしくはないか、そして、痛みはないだろうか。柔らかな胸を通って身体を滑り降りてくる手に、微かに怯えた。
「待って、お願い、聞いて」
「どうしたの?」
「怖いの、もう長いことしてないの…痛いかもしれない」
坂井は二度ほど大きな瞬きをして、にこりと笑った。
「大丈夫。痛かったらすぐにやめるから」
「ごめんね…」
「いいから。怖がらないで、それよりももっと俺を好きになって」
胸に小さくキスをされて、笛子は少し安心する。
「もっと、って…もう、すごく好きなのに」
「足りないよ、もっとだよ」
「うん…」
「もっと、頭が変になるくらい好きになれば、きっと痛くない」
耳元で囁かれると、ふうっと身体の力が抜けていく。この人は、なんていい声なのだろう。少し低い、でも低すぎない、よく通る声。ほんの一言ですら聞き漏らさないように、笛子はいつもこの声を聴いていた。
「…好き」
「もっと」
「好きよ」
「足りないよ」
「大好き」
「もっともっと、洪水起こすほどに好きになって」
触れられる指から、大きな波が押し寄せてくる。文字通り、身体の奥から洪水が起きる。笛子は身をくねらせて、小さな声を上げた。
「きれいだ…笛子さん」
「見ないで、恥ずかしい」
「ようやく念願かなって見られたものを、見るなと言われてもね」
坂井はくすりと笑う。指先で拾い上げ、舌で舐め取り、視線で隅々まで撫で上げられる。笛子は『本当に好きな人と抱き合うこと』の不思議さを、感じずにはいられなかった。知らず知らずのうちに、夫とのことを思い出す。あの人はこんなに優しくなかった。こんなに丁寧でもなかった。それなのに、この人はどうして。
痛い、と感じたのは、一瞬のことだった。長く使っていなかった場所に無理をかけられ、思わず止めようとした。けれども、この人とひとつになりたい、という気持ちの方がはるかに勝っている。一度侵入してきたものを、決して手離したくなかった。
「ふ、笛子さん…」
「え?」
「そんなに締め付けられると俺は困る…」
「だって、出て行ってほしくなくて」
目の前の男が、ゆるく微笑んだように見えた。身体の奥深くに強い衝撃が走る。笛子は、初めて大きな声を上げた。上手に身を任せる方法がわからない。わからなくても、手探りで笛子は坂井を探し続けた。
最後まで、目は閉じなかった。ずっと見続けていたい人が、目の前にいたから。
いつの間にか、うとうとと眠っていた。ころりと寝返りを打つと、隣にいる坂井にぶつかる。
「あ、ごめん」
「少しでも眠った?」
「うん、少し」
坂井の胸の中におさまると、あたたかく、深い安心感を得ることができた。笛子はため息をついて、目を閉じる。坂井の指が、笛子の髪をそっと撫でてくれていた。
「痛…くなかったよね、笛子さん」
「…うん、痛くなかった」
閉じたまぶたを指先でそっとなぞられて、笛子のまつげが震えた。
「まだ、捨てられるの怖い?」
「今は…それほどでもないかな」
「そんなこと思わせないように、がんばります」
強く抱きしめられて、笛子も坂井を強く抱き返す。
「崇さん…好き、愛してる」
返事のかわりに、小さなキスが降ってきた。彼のこのキスが好きだと、笛子はそっと微笑んだ。
「俺はハゲじゃないけど頭は真っ白だし、腹は出てるだろ」
「そうね」
「立派な中年のおっさんだろうが。笛子さんの方がずっと若い」
「そうかな」
「だからお願い、捨てないで」
笛子は笑った。
「馬鹿ねえ、本当に」
私たちって。
笛子が夫と離婚し、そして坂井と結婚するまで、そう長くはかからなかった。とても深い恋をしてしまったから。
だから、馬鹿でいい。
万年筆が繋ぐ恋 鹿島 茜 @yuiiwashiro
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