第2話 後編

 西高東低、冬の気圧配置が多くなってきた快晴の日曜日。笛子は坂井と共に、街へと繰り出した。

 笛子にとっての初めてのボトルインクは、初めて買った万年筆と同じメーカーが出している『秋桜』という色に決めた。好み通り、かわいらしいピンクだ。繁華街にある大きな文具専門店で、坂井に選んでもらって決めた。

「本当にかわいい色。気に入っちゃった、私」

いろいろな店を歩き回って疲れた二人は、老舗のティールームに入って一休みしていた。少しばかり値は張るが、おいしいケーキと紅茶で心が温かく満たされていく。

「いい色のインクだと思うよ。俺も持ってる」

「こんなかわいい色も持ってるのね」

「男の子だって、ピンクも好きなんだ」

 スーツ姿でない坂井を見るのは、とても久しぶりだった。彼のいる職場に入って10年、カジュアルな服装になるのは、たまに参加する職員旅行くらいしかチャンスはないし、その企画自体が今ではすたれてなくなりつつあった。

「坂井さん、その青いセーター、似合ってるね」

白いシャツに濃い空色の、着心地の良さそうなセーターを着た坂井は、自らの袖口を気にしながら口をとがらせる。

「当然だけど、ユニクロ」

「見ればわかるわよ、私もユニクロ好き」

「今日はユニクロじゃないじゃないか」

「大丈夫よ、見えないところがユニクロだから」

ティーカップを両手で包み、笛子は笑った。

「私、おしゃれもお化粧も興味ないの。女なのにね」

坂井はケーキの最後の一口を食べて、首を傾げる。

「そんなに重要なことでもないと思うけど。田代さんは元がきれいだし」

「えっ、きれいなんて初めて言われたわ」

「そんなことはないだろう」

「ないない」

「あるよ、忘れてるだけだよ」

しばらく考えてみたが、思い出せない。

「やっぱりない」

「なくてもいいよ、俺がきれいだと思ってれば」

さりげない坂井の言葉に、笛子は穏やかな、しかし照れくさい気持ちになった。

「おだてても何も出ないわよ」

「何も出さなくて結構。出てくるのはこちらから」

坂井は隣の椅子に置いている黒いリュックサックに手を突っ込んだ。文字通りがさごそと音がする。「よっ」と呟いて引っ張り出したのは、細長い箱だった。

「はい、誕生日プレゼント」

「え、誰の」

「君のだろうが。来週、誕生日」

「なんで私の誕生日なんか知ってるの」

「俺、一応、事務局長。履歴書のありかくらい知ってる」

「こ、個人情報を」

「誕生日を確認する程度の職権濫用はしてもいい」

目の前に差し出された箱を、笛子は恐る恐る受け取ってみる。ほんの少しの重量と、ほのかな温かみを感じた。

「開けてもいいのかな」

「うん、開けてみて」

笛子はそっと箱を開いた。そこには、透明感のあるピンクの美しい万年筆が輝いている。

「うわ、きれい…」

「きれいだろ、それ、『リラ』って名前の万年筆なんだよ」

「リラ…かわいい。なんてかわいいの。素敵だわ」

透明なピンクに、笛子は瞬く間に夢中になった。自分が求めていた色が、そこにあった。これが私の好きな色。淡いピンク。

「とっても素敵な万年筆…これを誕生日プレゼントにくれるの」

「うん、あげる。使ってよ」

笛子はピンクの『リラ』をじっと見つめて、顔を上げた。

「受け取れない…ちゃんと買うわ、いかほどかしら」

「ええっ」

坂井はわざとらしく頭を抱えて、泣きそうな表情を作った。勢いで、メガネがずれている。

「受け取れよー! 俺の渾身のプレゼントなのに! 買うとか言うな」

「だって、こんな高級そうなもの」

「確かにバカ安じゃないけど、大人なら目ん玉が飛び出るほどの値段じゃないぞ」

「でも…」

「でももだってもなし。受け取ってお願い。俺、今これ出すのものすごく勇気が要ったんだからな」

手元で輝く『リラ』に、笛子は見入っていた。万年筆は黒々とした陰気くさいものだというイメージが、いつの間にか全くなくなっていることに気付いた。

「きれいね」

「だろ、きれいだろ。笛子さんに合うと思って一生懸命選んだんだよ」

『リラ』を見つめたまま、笛子は呟く。

「今、『笛子さん』って言った」

「言いました」

「いつも『田代さん』なのに」

「勇気を振り絞りました」

「どうして急に名前で呼ぶの」

「君が好きだから」

時間が、音楽が、人の声が、食器の触れ合う音が、すべてが、止まった。



 小さなテーブルの上に広げたものは、ピンクのキャップの万年筆。それに合うコンバーター。買ったばかりのインク『秋桜』。そして、ひときわ美しく輝く透明なピンクの万年筆『リラ』。リラのために用意したブルーブラックのインク。坂井に勧められて買った、万年筆と相性の良い紙を使ってあるというノート。

 笛子は文具店の親切な店員に教えられた通り、二本の万年筆にインクを入れていく。慣れない作業に最初は戸惑ったが、すぐに覚えることができた。指先にインクがたくさんついた。それもまた面白かった。

まっさらなノートにいきなり試し書きをするのは気が引けたが、せっかくインクが乗りやすいノートを買ったのだからと、思い切って万年筆を握り、ピンクのインクでぐるぐると書いてみる。

 丸や四角、直線、波線、自分の名前、自分の住所、あいうえお、こんにちは、職場の名前や住所、ABCDE、坂井、坂井、坂井、坂井崇、崇、崇…

 いつの間にか、坂井のフルネームを延々と書き連ねていたことに気付いて、笛子ははっとした。試し書きした最初のページを遠慮なく破って丸め、ごみ箱に投げる。少し考えてごみ箱から丸めた紙を取り、自分の通勤用バッグに押し込んだ。

 『君が好きだから』。彼は、はっきりと言った。恥ずかしげもなく、笛子の目をまっすぐに見つめながら。笛子は両手で顔を覆い、深くため息をつく。

(け、結婚、私、結婚してるけど。夫がいるけど)

(知ってる)

(だから、好きになられても困る)

(本当に? 本当に困るの?)

(…多分)

(君が最初に言ったんだよ、俺のことが好きだって)

 坂井には、聞こえていた。あの日、笛子が言った『私、あなたのこと好きよ』という言葉が。聞こえないと思っていたのに、甘かった。

「好きなのよ…あなたのこと。好きになっちゃったよ」

誰もいない家の中で、小さな小さな声で囁く。

「どうしよう、あなたのところへ行きたい」

誰も聞いていない。夫は出張で不在だ。もともと子どもはいない。夜遅くまで、笛子はいつも独りぼっちだった。

 ブルーブラックのインクを入れた『リラ』を右手に持ち、笛子は改めてノートに文字を書き始めた。

『坂井崇さま 先日はありがとう。リラ、素晴らしい書き心地です…』

渡さない手紙。その先が、書けない。美しいインクの濃淡が、笛子の気持ちを惑わせる。そっと『リラ』のキャップを閉めて、静かにテーブルの上に置く。

「坂井さん…どうすればいいの、どうしてほしいの」



 スマートフォンを取り出し、何度も何度も迷い、坂井にメッセージを送った。

『悩ましくて、頭が沸騰しそう』

そのメッセージを、坂井がすぐに読んだことがわかった。間もなく返信が来る。

『俺もだ。電話してもいいかな』

『だめ。余計におかしくなりそう』

『おかしくなればいい』

『無責任なこと言わないで。困ってるのに』

『困ってるなら、答えは出てるんじゃないの』

『そんなに簡単なことじゃない』

『好きな人は手に入れたい。難しいことなんかじゃない』

『本当に好きなの?』

不意にスマートフォンから電子音が鳴り響く。坂井からの電話だった。一瞬迷って、笛子はその電話を受けた。

「…もしもし」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

目頭を押さえて、笛子は囁くように答えた。

「笛子さん」

「…うん」

「からかってるのでもなく、遊びでもなく、昔から君が好きだよ」

坂井の低い声が、笛子の耳を心地よくくすぐった。

「昔?」

「うん、昔から」

「昔っていつ?」

「君が結婚する前からだ」

「知らなかったわよ、そんなの」

「言わなかったから」

「なんで言わなかったのよ」

「言おうとしたときには、君が他の人と結婚を決めてた」

笛子は混乱していた。自分が結婚したのは何年前だっけ。働かない頭で、一生懸命数えた。既に7年は経過している。

「君が結婚してしまったから、俺も諦めて結婚した」

そういえば、笛子の結婚の後、一年以内に坂井も結婚していたはずだ。

「そんなこと、知らなかった」

「だから今、初めて告白してる」

思いもよらない告白に、笛子は混乱しながらも、心が満ちていくのを感じていた。久しく感じることのなかった気持ちだった。好きだと言われる。愛されている。求められている。電話の向こうから彼の手が伸びてきて、笛子の心を強くつかむ。叫び出したいほどに、胸が苦しい。好き。あなたが好き。どうすればいいの。どうして、いつの間に、こんなに好きになってしまったの。何が悪いの。誰が悪いの。あなた以外、見えなくなってしまった。

「好きだよ、笛子さん…愛してる」

「嫌だ、やめて」

「やめない。君が好きだ」

神様、どうして。どうしてこの人と私を会わせたの。それも、今頃になって。毎日あんなに一緒にいるのに、すれ違っていた。もっと早く、彼がいることに気付いていれば。

「…あなたに、手紙を書こうと思ったの。リラで」

「書いてよ。読みたい」

「まだ、書けない。苦しすぎて」

「書けないなら、会って話したい。今からでもそちらへ行く」

「だめよ、夫が」

「今、いるの?」

「…いない。出張で」

 なんて都合のいい日なのかしら。笛子は悲しくなった。こうして自分は、道を外れていくのかもしれない。道を外れることが、こんなにもなんでもないことだなんて、知りたくなかった。それでも笛子は、コートをはおって玄関を飛び出すことしかできなかった。



 駅から離れた人気のない小さな公園で、笛子は坂井を待っていた。夜風がかなり寒い。ブランコに座り、ゆらゆらと揺れてみる。空を見上げると、月がまぶしいほどに輝いていた。

 黒い人影が公園に入ってくる。一目見て、それが坂井の影だとわかった。

「もう、人影だけでわかるのね、私…」

口の中で呟く。そんな自分自身が悲しいような情けないような気持ちで、複雑だった。

「笛子さん、お待たせ。寒かっただろ」

坂井が目の前に立ち、笛子が座っているブランコの鎖を握った。立ち上がって相対する。こんなに近くにいる。こんなにも、そばに。例えば仕事中でも、これくらい近づくことは誰でもある。けれども今は仕事中でも通勤時間でも、何より昼間でもなく、そしてここには二人以外誰もいない。

 大きな手が伸びてくる。力強く、抱きしめられた。目の前に彼の肩がある。広い胸の中にすっぽりとおさまり、自分が意外と小さかったのだと感じた。

「…もう…どうすればいいの」

囁くように呟いても、坂井は何も言わない。体温がじんわりと伝わってきて、冷えていた身体がゆっくり温まっていく。

「あなたが昔から私のこと好きだったなんて、知らなかった」

「…うん」

「私も、いつの間にか、好きになってた…」

笛子のストレートヘアにそっと指が絡みつく。ふわり、ふわりと髪を撫でられ、思わず目を閉じた。夫とは違う匂いを感じる。頭のてっぺんに、何かが触れる。離れてはまた触れる。何度もキスをされているのだと、笛子はぼんやりと思っていた。もっと香りの良いシャンプーを使っていればと、つまらないことを考える。

 坂井の指先が、笛子の頬に触れ、そっと唇をなぞる。思わず顔を引きそうになったが、指はどこまでも追いかけてくる。逃げることなどできないのだと、笛子は悟った。

「笛子さん」

「なに…」

「…キスしてもいい?」

一瞬の間をおいて頷くと、坂井の唇が静かに笛子に触れた。とても、それはとてもあたたかい感触だった。

「…坂井さん」

「こういうときは黙ってろ」

少年と少女のような、優しいキスを繰り返す。どこかもどかしく感じながらも、今はこのままでいいと笛子は思った。いい大人のくせに、不器用なキス。お互いに格好つけながら、格好がつかない。7年待っていた男と、7年知らなかった女。

 ふと、透明なピンクの万年筆が頭をよぎる。あの万年筆の名前は『リラ』。母が歌っていた「リラの花」という歌を思い出した。「リラの花が咲いたけど、幸せはまだ来ないよ」という歌。確か、ロシアの歌。幸せは、来たのかしら。それとも。



 誕生日が来て、年を一つ重ねた。きっと白髪はこれからも増えるだろう。笛子は鏡を眺めて、ふいと目をそらす。

 リラの花の名前を持つ万年筆を使い始めて、笛子は気分が華やいでいくのを実感していた。仕事でもプライベートでも、積極的に『リラ』を使うようになった。万年筆の使い心地にもすっかり慣れて、ためらいなく手に取るようになっていった。

「その万年筆、どうしたの」

ある日、夫がたずねてきた。

「自分用の誕生日プレゼントよ。気に入ってるの」

「あ、ごめん。僕、何もプレゼントあげてないね」

「いいのよ別に。ほしいものなんて何もないもの」

「他の万年筆はどうかな」

「いらないの。これが気に入ってるから。女の子みたいでかわいい色でしょ」

妻の誕生日すら忘れる夫。冷え切った夫婦の間柄。それでも、そう簡単に解消できない仲。表面上だけ取り繕う結婚生活は、もうすぐ破綻する。坂井の登場を待たずとも、遠からず破綻していたであろう状況だった。

「あなた、今夜も遅いの」

「ああ、もしかしたら泊まりかもしれない」

「そう。なら私も友達のところにでも泊まりに行ってこようかしら」

「そうしたら。その方が一人でここにいるより安全だよ」

白々しい会話。けれども、それすらも今は楽しい。夫をさっさと家から送り出し、笛子も仕事に行く支度を始めた。支度と言っても、仕事用の服に着替えるだけだ。相変わらずろくな化粧もせずに。それが自分らしいと思っているから。

 駅で電車を待つ間に、坂井へメッセージを送る。

『おはよう、崇さん。今夜行ってもいい?』

返信は1分とかからない。

『おはよう、笛子さん。楽しみにしてるよ』

『夕食は私が何か作るね』

『料理なら俺でもできるから、気を使わないで』

『なら、今夜は作って』

『はい、作ります。お楽しみに』

 大きな風を起こして、急行がホームへ飛び込んでくる。思わず目を閉じて、顔を背ける。笛子の白髪交じりの髪がクシャリと乱れた。両手で素早く髪を直しながら、たくさんの通勤客と共に電車に乗り込んでいく。この髪を乱すのは、彼だけ。肩に触れるのも、頬に触れるのも、彼だけだ。けれども、風だけは止められない。笛子に触れていくのを、許すしかない。



 あなたが好き。理由なんか、どうでもいい。そんなもの、わからない。私の心に突然飛び込んできたあなたを、ためらいながらも受け入れてよかった。

 リラの花が咲いて、そして、幸せもやってきた。


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