いる。ずっといる……
世界は偶然ではなく、必然でできている――
そう、錯覚してしまった。
小さい頃から人には見えないものが見えた。
幽霊とかお化けとか。この世にいないはずのものが見えてしまう。
両親はそういうのを見えない普通の人だから、私のことを普通に気味悪がった。
注意されたり、窘められたり。ときには殴られたりした。
殴られたときはもちろん痛かったけど、普通じゃない私が悪いのだから、受け入れた。
けれど大人になって、親が老後を迎えても、世話をせずに見捨てようと思った。
あれは中学校三年生の夏休みのことだった。気味悪がられても受験はさせてくれるようで、塾に通わせてくれた。夏期講習を終えて友達と別れて、真っ直ぐ家に帰ろうとしていた。電柱と壁の間に挟まっているおじさんや公園の砂場で遊んでいる子供を見つめているおばあさんを無視して歩く。
横断歩道の前で信号が赤だったので、止まった。すっかり真っ暗になっていて近くには帰宅途中のサラリーマンや同じく夏期講習の高校生たちが並んでいた。
車はかなり多くてスピードを出していた。
私は目の前をぼうっと見ていた。周りはスマホを見ていたけど、鞄の奥に仕舞っていたので、取り出すのも面倒だったから。
だけど、面倒でもスマホを見ておけば良かった。
向かい側。女の人がどんっと押されて、道路に――
鈍い音。女の人が撥ね飛ばされて、五メートルくらい吹き飛んだ。
女の人がぴくぴく痙攣して、動かなくなった。
周囲の人々が悲鳴をあげる。車も次々と止まる。
男の人が数人、女性に近づく。
救急車を呼べという声が聞こえる。
私はたくさんの死人を見てきたけど、人が死んだ瞬間を見たのは初めてだった。
そしてもう一つ衝撃的なことがあった。
「…………」
いつの間にか、私の隣に、死んだはずの女の人がいた。生前と同じくリクルートスーツを着ていて、だけどいつも見ているのと同じ、半透明だった。
顎から下がなかった。多分撥ねられて地面に叩きつけられたときに無くなってしまったんだ。
その女の人が虚ろな目で私を見つめている。呆然、驚愕。そんな感じだった。
「…………」
女の人は私の肩を掴もうとして――すり抜けた。無視して私は別の道から帰ることにした。
「…………」
自然と早足になる。
関わりたく、なかったから。
結局、女の人は私の部屋まで着いてきた。
無惨な顔で私を見つめている。
どうしてほしいのか分からなかった。顎が無いから喋れないし、喋れたとしても私にできることなんて限られていた。
だからいつものように無視するしかなかった。
「…………」
だけど、怖い。次第に恨めしそうな顔になっている。徐々に近づいてきて私に見せつける。自分の顔を。
今までたくさんの幽霊を見てきた。それでもここまで怖くて酷い人は見たことがなかった。
「…………」
本当に何かを言いたそうだったから、私はこっくりさんよろしく五十音表をノートに書いて、女の人に見せた。すると女の人は指をなぞって言葉を紡ぐ。
『あなたははんにんをみたの』
首を横に振ると続けてこう書いた。
『こんやくしやにつたえて』
こんやくしや? ああ、婚約者か。私はその人の名前を訊ねた。
『えんどうしんや』
えんどうしんや。それが女の人の婚約者らしい。今度は女の人自身の名前を訊ねる。
『わからないわすれた』
死んだときのショックかもしれない。とりあえずえんどうしんやさんを探そう。
でもどうやって探したらいいんだろう? とりあえず電話帳で調べてみる。家にあった一年前の電話帳からえんどうしんやの名前を探す。
載ってなかった。市内の人間じゃないみたい。それとも別の名義かも。
うーん、どうしたらいいだろう? 悩んでいるとお母さんがお風呂入りなさいと言ってきた。とりあえず、今日は休むことにした。
結局、私が中学生のときは見つからなかった。その間、女の人はずっと私に付きまとっていた。
体育祭のときも文化祭のときも学校見学のときも受験のときも合格発表のときも。
ずっと。ずっとずっと。ずっとずっとずっといた。
顎がない顔。虚ろな目のまま、ずっと。
普通の人なら発狂してしまうかもしれないけど、私は平気だった。
だんだん、女の人が可哀想になってきたから。
一人で居る夜。私は女の人とずっと話していた。
主に婚約者との思い出だった。
女の人は婚約者のえんどうさんと結婚する予定だったらしい。
すでに互いの両親とも会っていたみたいだった。
まさに幸せの絶頂だったんだ。
なんだか酷く女の人が可哀想になってきた。
高校に入学した。第一志望に見事合格した私は女の人と一緒に校門をくぐり、自分のクラスに向かった。みんな緊張してて同じ中学校の友達ばかり話していた。私も友達と話していた。
入学式を終えてまたクラスに戻る。緊張してて校長先生の話や他の先生の自己紹介は聞いていなかった。
みんながざわついている中、教室の前の扉ががらりと開いた。
すらりと背の高い、三十代半ばの男の人が教卓の前に立つ。
「えー、皆さんの担任となる遠藤です。どうぞよろしく」
このとき、私は遠藤先生の話を聞けなかった。
女の人が涙を流していたから。
「うん? えっと、どうかしたかな?」
遠藤先生が動揺している私に声をかけてきた。思わずトイレに行きたいと言ってしまった。笑いに包まれる教室。
「仕方ないな。すぐに戻ってくるように」
私は顔を真っ赤にしながら、後ろの扉からトイレに向かった。
トイレの個室。女の人に何があったのか訊ねた。
この頃から既に、五十音表を持ち歩いていたので、意思の疎通はできた。
女の人は震える指で文字をなぞった。
『あのひとがわたしのこんやくしや』
本当に偶然だったんだろうか。たまたま入学した高校に女の人の婚約者がいるなんて。
できすぎているようで、気味が悪かった。
放課後。私は一人で廊下を歩いている遠藤先生に話しかけた。
「うん? 君は――」
私は交通事故に遭った婚約者の話を切り出した。途端に青ざめる先生。
「どうしてそれを?」
私は見ていることを話した。具体的には言えないので曖昧な言葉になってしまった。
「……ちょっとこの後、いいかな?」
私が頷くと先生は「生徒指導室で話そう」と言って誘導してきた。後に着いて行く。
生徒指導室と書かれた部屋の前に立つ。扉を開けると真っ暗だった。
「電気を点けるから待ってくれ」
そう言われて待っていた。
そこからの記憶はなかった。
気がつくと知らない部屋の床に寝転んでいた。
起き上がろうとするけど、起きられない。
頭が痛い。よく見ると後ろ手で縛られていた。足首も縛られている。
「手荒な真似はしたくなかったよ」
声のするほうに目を向けると、遠藤先生が怖い顔で見つめていた。
「目撃者は居ないと思ったんだけどな」
目撃者? どういうこと?
「とぼけるな。俺が夏美を殺したところを見てたんだろう」
訳が分からなかった。
「半年前、上手くやったつもりだったが。しかし偶然もあるものだな。受け持った生徒が目撃してたなんて」
女の人を殺したのは、先生だったんだ……
このままだと私も殺されてしまう。
「殺す前に聞かないといけないことがある。何人に話した?」
どう答えるべきか分からなかった。何を言っても先生は私を殺す気なんだ。
そのとき、女の人の顔が見えた。
だから正直に答えた。
「……幽霊だと? そんなものいるわけがない」
私は以前聞いていた思い出話を早口で話した。友人の紹介で出会ったこと。趣味のアウトドアで遊んだこと。喧嘩の内容や仲直りの方法。好きな料理のこと。とにかく話した。
すると先生の顔が青ざめていく。
「ば、馬鹿な。じゃあ、今夏美はどこにいるんだ?」
私は正直に答えた。
先生の後ろに居ると。
先生は悲鳴をあげて、自分の家から逃げる。
最後に女の人は私に目配せした。
『わたしはあのひとについていく』
そう言っているようだった。
私はなんとか逃げ出すことができた。芋虫のように身体をくねらせて、開けっ放しのドアから大声で助けを呼んだ。近所に住んでいるおばちゃんが縄をほどいてくれた。
先生は捕まったらしい。私を誘拐した罪と婚約者を殺した罪で。警察が先生を見つけたときには錯乱状態だったようだ。
こうして、私はなんとか命だけは助かった。後で両親に怒られたけど、クラスメイトたちは同情してくれた。
それから十年が経った。
遠藤先生が私を訪ねてきた。
「あのときは申し訳なかった」
てっきり仕返しとか復讐に来ると思ったけど、そんなことはなかった。刑務所で反省したらしい。勤めている市役所近くのカフェで頭を下げられて、同僚が見ていないかドキドキしていた。
「一つだけ聞きたいことがあるんだ」
先生は不安そうな、怖がっているような、おどおどした態度をして、強張った顔で訊ねた。
「夏美は今も俺に憑いているのか?」
いる。ずっといる……
狂気短編集 橋本洋一 @hashimotoyoichi
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