きっとアジフライが食べたくなる短編

クサバノカゲ

アジフライ定食

 その日も僕は、空腹をぶらさげていつもの定食屋の暖簾をくぐった。

 さっそく、焼き魚の香ばしさと、まとわりつく油の匂いが共謀して、嗅覚をたぶらかしにかかってくる。

 いらっしゃいませ、お好きな席でどうぞとマスクの目元から微笑みかける女性店員に、軽く会釈をかえした僕は、消毒液で手を清めつつ、手近な二人掛けテーブルの椅子をひいた。よく磨かれた床がこすれてキィと鳴く。


「アジフライ定食で」

「はい、いつもありがとうございます」


 腰をおろす半ばでメニューも見ずに発した僕の注文を、お冷とおしぼりをテーブルに置いた彼女は、繰り返すこともなく厨房へもどっていく。はじめから知っていたかのように。


 それはそうだ。週いちで、なんなら月曜と金曜の二回でもこの店を訪れて、たいてい同じ席に腰かけ、同じ注文をする。それを、テイクアウト営業のみになった時期もふくめここ一年以上続けているのだから、いいかげん覚えられていなければおかしい、なんなら悲しい。


 そんなことをぼんやり考えながら、スマホをいじってみたりしつつ、のんびりと待つ。


 客は決して多くはないが、途切れることもなく、地元の人々に愛される食堂だ。かと言ってやたらと店員に話しかけ常連顔をアピールするようなおじさんも居ないし、とにかく「ちょうどいい」を体現するようなお店だった。

 そしてもちろん運ばれてくる料理はみな美味しい。コスト的にも、激安とまでは言わないけれど、どんなメニューを頼んでもお値段以上の満足感が保証される。


 で、なかでもとりわけ僕の舌を虜にしているのがそう、もう間もなく厨房からお盆に乗せられこの席へとやってくるだろう、アジフライ定食というわけさ。


「お待たせしました、アジフライ定食になります」

「ありがとう、いただきます」


 言いつつ、おもむろにマスクを外し胸ポケットにつっこむ。


 僕が配膳のときこの二語を口に出すようになったのは、以前この店で隣の机に居あわせたやたら背筋のまっすぐな老紳士が、やわらかい語調で同じように言っているのを聞いてからだ。素性はまったくわからないし、以降いちども遭遇していないが、漠然と、どうせならこういう大人になりたいと思えたから、真似をしている。

 最初はすこし照れるかも知れないが、存外に気分がよくなるので、良ければためしてみてほしい。


 さて、それはそうとアジフライだ。


 みずみずしい千切りキャベツに背を預けた、その限りなく逆ハート型に近い形状の二尾は、この世で最も食欲をそそる色彩であろうキツネ色の衣をまとって、皿上に存在感をはなっている。


 まず一尾目を箸で挟んでもちあげ、そのままかぶりついた。さくりと心地よい歯ざわりに続くのは、ふわふわで厚みのあるアジの身、さらに噛みすすめればじゅわりと旨味がにじみ出す。

 目を閉じてしばしその味と口福感に浸ってから、それをいったん皿に戻す。そして左手に待ち構えていた艷やかな白米をすくい上げ、口内に迎えいれる。

 山形県産つや姫の弾力と甘みが、アジフライの旨味と混じり合って、奏でるは極上のハーモニー……いいや、そんな気取った喩えなどむしろ野暮というものだろう。そのすべてを表すには、ワンフレーズで事足りるのだ。すなわち。


――うまい。旨い上手い美味い。


「……うめぇ……」


 ついつい声にまで出してしまったが、そんなことは気にも止めず僕はタルタルソースに箸をのばした。手を休める暇などない。舌が胃袋がさらなるうまいを求めて荒ぶる。

 卵の黄身の粒感がさらりのこり、マヨすぎずマヨなすぎない、非の打ちどこのないタルタルソースだ。それを先程の歯型のふちに乗せて、がぶりと行く。

 当然にうまい。包みこむまろやかさとマヨの微かな酸味が、うまさに別角度をあたえる。

 おつぎは和の風情を添える醤油か、郷愁を誘う中濃ソースか、いやもう一度なにもつけずに衣の本来の魅力を確かめるか。むろん、皿上にキュートに横たわる一切れのレモンにもいずれ、口内に爽やかな薫風を吹かせていただくことになるだろう。


 そうして、ほんの一瞬の後にはもう二尾のアジフライと白米はすべて僕の胃袋におさまっていた。一瞬というのは比喩ではない。体感ではほんとうにそのくらい、気が付けば食べ終えているのだ。


 そえられた季節の小皿とお味噌汁もしっかりといただいて、箸を揃えて置き手を合わせる。お盆の上におしぼりとお冷のコップも乗せつつ、マスクをかけなおして席を立った。

 見計らったように厨房から会計に出てきた店員さんが、すでに手元に並べてあったレシートを確認して値段を告げる。


 財布から千円札をトレイに乗せつつ、ふと考える。そういえば、店員さんのマスクの下の素顔をどれだけ見ていないのだろう、と。

 正直に言ってしまえば、僕はこの店に通い始めた当初、彼女の朗らかさと素朴に愛らしい顔立ちに、ほのかな好意を抱いていた。この店に通うようになったのも、八割はアジフライだけど、二割は彼女の存在があってのことだ。

 けれど、コロナ禍でマスク着用が当然になって、もう彼女の顔がどんなだったか思い出せなくなっている。いまも胸にくすぶるこの好意がどれほどのものなのか、よくわからなくなっている。

 とは言え、この店のアジフライのうまさには何のかげりもない。彼女の笑顔を目元だけにかいま見て、お釣りとレシートとつかの間の癒しをトレイ越しにうけとる、それだけで充分に幸せを味わえるのだ。


「ありがとうございます、またお越しくださいませ」

「ごちそうさまです。……また来ます」

「はい!」


 お釣りを直接うけとっていた頃は存在しなかった、彼女の細い薬指を飾るシンプルなリングにたったいま気が付いてしまったことも、何の影響もない。僕はこれからもこの店に通い続けるのだろう。


 二月の空の下はまだすこし寒いけど、胃袋にはアジフライのぬくもりが残っている。僕は満腹をかかえて、暖簾をくぐった。



(おわり)

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