夜の明けぬうち

micco

夜の明けぬうち

 不思議なことが起きた。ゆらゆらと揺れながら眠りに落ちる私の体が、ふぅ、と持ち上がった。

 先程まで温かい浅瀬を揺蕩うような眠気に身を任せていたはずだった。しかしそれは、久しく感じたことのない浮遊感。『たかいたかい』で空に投げ飛ばされて、抱き留められないままになっている感覚。でも怖いとは感じなくて私はそのまま自分の寝てる姿を見下ろした。そして反対側の布団も。

 2つ並んだ同じ色の布団カバー、少しだけ出ている2つの黒い頭。どっちがどっちだか分からないくらい似ている寝姿に、何とも言えなくて口を噤んだ。

 あぁ、口を噤んだ、なんてそんな気分になっただけだ。見えるけれどしゃべれない、動けるけれど手はない。そんな形に私はなっていて、浅い眠りの中を揺れるように寝室の天井に揺らめいていた。

 コウの布団がもぞもぞ動いてスマホのアラームを止めた。私、耳も聞こえないのね。止めたままの姿勢で彼が何か言う。きっと「トウ、起きろ」だ。そしてコウはまた布団の中に潜り込んだ。動かなくなる。


 夫であるコウとは、もう何年も朝ご飯を一緒に食べたことなんかなかった。結婚して最初はどちらかが無理して一緒に食べていた。でもそんな風にして食べても、美味しい訳がなく続かなかった。気づけば日曜だけになり最近は週に1度も食べない。

 私は朝から仕事、コウは夕方から仕事。朝食どころか夕食だって一緒に食べない。ただ帰る家が同じだけ。夫婦と呼べない、ただの同居人になっていた。今週は会話もしていない、メールでお歳暮の候補を送り合っただけ。もう、一緒にいる意味がないんじゃないか。

 私はやるせない気持ちに任せ寝室から出た。出ようと思えば簡単だった。そう、透明だったから。カーテンの隙間、窓の硝子から外へ出た。


 厚く覆われた雲のせいで空はピンク色だ。こういう朝は雪が積もると相場が決まっている。隣の家の屋根にふかふかと載る雪はもう40㎝は越えたようだ。もつもつ、と音がしそうな程大きな塊が、少し目を離しただけで掃いたばかりの地面を覆ってしまう。近所の人達はもう何人か外に出てスコップを振るっていた。

 私は寒さを感じない。風も、雪の感触も、つんとした匂いも。ただ『私』という形があるだけだった。ううん、形もないのかも。自分のことが見えないから何とも言えない。透明で雪掃きなんてしようもないけれど、雪の積もり続けるこの町がとても嫌になって私は遠くに行こうと思った。

 ぐんぐん離れていく。いつも車で通る道を見下ろしながら、真っ直ぐ飛ぶ。何処へ、もちろん実家だ。もう2ヶ月も帰ってない。今すぐに返りたいという焦燥に駆られ風のように飛ぶ。


 雪の降りしきる薄曇りを抜け、アイスバーンの黒々とした道を見下ろし、薄ら雪の積もる畑の中を飛んだ。雪の少ない場所に出れば曇ったピンク色はだんだんと、まだ青にもならない自然な黒の世界に変わっていった。まだ夜だった。

 でも田圃を抜け大きな陸橋を越えて辿り着いた実家の茶の間は、白く切り取られたように四角く光っていてすぐに分かった。母が起きてるようだった。時を待たずにポゥと階段のオレンジの電気が点いた。あぁ父さんが降りて来る。仕事に出るのだろう。懐かしさに茶の間に直接入ろうと窓に。ピタリと硝子に張りつく。

 入れない。どうして。視界いっぱい青緑の網戸に体をくっつけても中には入れなかった。私は入りたいのに、と歯を食いしばる気分で実家の周辺を飛び回った。どこか、どこかに入る場所はないのか。そうして客間の奥の間、庭に面した障子の隅が少しだけ破けているのを見つけて、私はそこから中へ入った。どうやら中が見えないとすり抜けられないようだ、と合点がいった。

 空の衣紋掛け、床の間の掛け軸、阿弥陀様の木彫り像に紅花のドライフラワー、桐箪笥。懐かしい。埃臭い馴染みの匂いがしそうな空気に、あぁ帰って来た、と奥の間から仏間へと進む。欄間の透かし彫りから形を変えて抜け、仏間の畳と念仏用の座布団を視界に収めたとき、ギクリと動きを止めた。

 死んだ祖父がいた。


 祖父は私が大学の時に亡くなった。最後は喉に溜まった痰を吸い取りきれず、呼吸が止まってしまった。家族親類に囲まれた大往生だった。その祖父が目の前にいた。生きていたときのように仏間の座布団に座っている。私はその背に恐る恐る話し掛けた。じいちゃん、私の声は震えた。祖父は声が聞こえたのか、む、とこちらを見た。思い出のままに映る眼光の鋭さ。私が一番覚えている時の、75歳くらいの祖父。けれど足はなかった。

 桐花トウカがぁ、何し来た。

 声ではなかった。音でもないと思う。けれど確かに、しかも面倒くさそうに感じたのは何故だろう。そしてその懐かしい声を聞いた途端私は苛立たしさに眉を寄せた。何って、帰ってきただけだよ。知らず険を含む声。

 してだ、と緑に濁る目が数瞬の内、私を見つめた。

 と、祖父は予告なく浮いた。私がまるで見えないように過ぎ、仏間のふすまを開けて客間、廊下へと揺れながら進む。私と違って物に触れられるようだ。話の途中に背を向けた祖父に私はじいちゃん、と声を荒げた。何だか子どもに戻ってしまった心地に戸惑う。祖父はまたむ、と止まって振り返った。

 早よむずれ。おめ結婚むがさっだべな。

 私は驚きに目を見開いた。そうだった、祖父は私がコウと結婚する前に死んだ。コウは仏壇に何度か拝んだくらいか。結婚当時、死ぬ前に結婚式を見せたかった、と家族で話をしたのを思い出す。同時に祖父の生きている頃の姿が目蓋まぶたに甦った。

 私と祖父は言葉の使い方ひとつで喧嘩になる程、仲が悪かった。『全然』のあとは否定が来ないとおかしい、『全然大丈夫』は間違っている、そんなことない、新しい辞書には載ってる。いつもあげ足を取られ口答えしては、素直じゃないと叱られるのが常だった。

 もしかして祖父は私達のことを見ていたのだろうか。夫婦と呼べない関係になっていることを知っているのだろうか。もしそうならと、苦い情けなさと羞恥で祖父を睨んだ。

 祖父は私が見えていないのか静かに言葉を継いだ。旦那の飯作りままづめは。

 私は目を剥き、指摘された悔しさが込み上げ再び声を荒げた。旦那のご飯なんてじいちゃんに関係ないべや、気づいたらこうなってたんだがら! 祖父は目を据え、私の背後をゆっくり指差した。

 おめぇは幽霊でねぇほれ見でみろ。 

 私は祖父の指の先を、お化けでも見るような気分で後ろを振り返った。見れば何か透明なチューブのような筋が丁度欄間らんまの彫りの隙間から、てろんと垂れ下がっていた。それは私の背中辺りにくっついているようだった。暗くても目が見えるから気づかなかったけれど、欄間の奥から青い空気が漂って、閉めきった仏間に少しだけ朝を差し込ませていた。

 はい(*1)ずが切れっとおめぇもこっだ。いいがらけぇれ。言い捨てた祖父はぬるりと動き出した。そして廊下を渡り戸を開けて茶の間の前を通り、祖母の部屋の戸に手を掛けた。

 私は祖父に対する抑えきれない苛立ちを感じつつ後を追った。今話ができるのは祖父だけなのだ。先にある祖母の部屋の白い襖戸が浮き上がって見え、部屋に入ろうとする祖父の姿で全て合点がいった。

 

 まさか、祖母を?

 

 じいちゃん何すんの! と必死で祖父の腕を掴んだ。掴めた。ほんの5㎝だけ戸を開け、祖父は胡乱な顔で私を振り返った。まさかばあちゃんを迎えに来たの。祖父は分かりやすく青筋を立てた。

 馬鹿ばがたれがぁ、ちぇっと顔ば見に来ただげだべ!

 馬鹿たれ、と懐かしい叱り文句に思わず咄嗟に「ごしゃぐなず(*2)」と口答えした。けれどよく見れば祖父は、血圧が上がった時のように顔を赤く染め、恥ずかしさに耐えているように見えた。そう理解するまでには少し時間が掛かった。

 いつも厳しく小言も多い。けれど祖父はなんでも自分で直すし段取りを組んで終わらせてしまう凄い人だった。近所の人からも一目置かれている、と子供心に感じる程に、いつも正しい人だった。だから私は祖父が恥じらった場面に居合わせた覚えがない。

 祖父が死んだ後広い庭は荒れ、それでも父は動こうとせず結局母が休みの日に整えるようになった。雪囲いだってそうだ。祖父が死んだ後、庭師を呼ぶ贅沢はできなくなり誰がやるかで一悶着あった。結局、母がやった。けれど祖父ほど細やかに手入れ手出来はしない。父は管理できないなら庭なんか潰しちまえ! と酒を飲んで言い放った。

 私がぼんやりと思考の淵を漂う間、既に祖父は祖母の部屋に入ったようだった。茶の間では父が朝のニュースを見ているのか、ちかちかとテレビの画面が移り変わる光が障子に透けていた。私は透明だというのに、そこに人の気配を感じて今更──さっきはあれ程大声を出したのに──足を忍ばせて祖母の部屋を覗き込んだ。


 祖父は、祖母の寝姿を、ただ見ていた。枕に立つ、という風情で。

 私は言葉なく戸から先に進めず立ち止まった。祖母はすやすやと眠っていた。母によって調えられた暖かそうな真新しい羽毛布団にくるまって、記憶より小さくなった目を緩く瞑り、心地よさげに横たわっていた。声を掛けてはいけないような景色だった。少しずつ、少しずつ、障子紙が朝の青を白へ変えて部屋に映していった。祖母の顔もそれにつれよく見えるようになり、薄くなった眉や毎日気にしてるシミが目立った。それを祖父はただじっと見つめていた。そこに何となく祖父の気持ちが透けて見えた。

 じいちゃんとばあちゃんも夫婦だったんだ。私は何故か涙が出そうになった。その光景はじわり透明な私に、血潮が巡るような温かさをもたらした。私が言葉なく見守る間に、祖父はそっと祖母の部屋の戸を閉めた。気づけば祖父の体は朝の光に晒されて透けていた。

 

 驚いて、じいちゃん透けてると呟けば、んだべおれ幽霊だがら、と事もなげに返す。そして祖父は私を真正面から見据えた。俺ぁむずるおめぇもわらわら行、死ぬぞ。

 仏間に戻るのだろうか背を見せて離れていく祖父に、私は青ざめた。戻るってどうすればいいのだろう。祖父はもう向こう側が見える程に透明になっている。私も消えてしまうのかと祖父を呼べば、旦那ば大事にすろ、と返ってきた。

 またその話か、と苛立つと同時、私はあの冷え切った部屋を思い出して震えた。苦しい夫婦生活を続けるのなら、あの日常に戻るのならこのまま幽霊になってもいいとさえ思った。母にも誰にも言えないで毎日胸の詰まる朝を繰り返すなら。気づけば祖父に怒鳴っていた。

 うるさい! コウは私の世話なんか要らないんだ。じいちゃんはコウのことひとつも知らないくせに。私はもう、もう帰らなくったっていいは!

 ぐ、と祖父の目がせり出した。心底怒った時の顔。私は負けまいと同じようにぐ、と目に力を込める。透明でなければ、早々と負けて泣いていただろう。すると突然、私の背中のチューブが引っ張られるように揺れた。

 そらむがえだ。がおっから(*3)水ば飲めな。祖父が全て悟ったように静かに私を見ていた。少しずつ大きくなる背中の振動に、私は不安で仕方なくなった。じいちゃん、私どうなるの。驚きと戸惑いで先程までの怒りは霧消し、助けを求めて祖父に手を伸ばした。

 おめぇは体さ戻るだけだ。俺も行くいぐ。今日は好きなところどご行けるいぐい日だっけがらな。運良くおめぇにも会えで良かったいがった

 そう話す間にも私は体が後ろに下がっていく。足を擦りながら廊下、客間、そして仏間へと引き摺られる。祖父はそれについて来て仏壇の前で私に手を振った。私は引っ張られてとうとう欄間に宙づりになっていた。じいちゃん、と最後、子どものように手を伸ばした。祖父は手を下げ歯切れが悪そうに呟いた。コウさ、いっつも墓掃除助かるわりなって言っとげ。お前あんまりむんつけんな(*4)

 え、と返した途端、私はまるで掃除機のコードが巻き取られるように飛んだ。陸橋を越え、田圃を飛び、雪の隙間を縫って僅かなカーテンの隙間から勢いよく体に収まった。


 目を覚ますと、息の仕方を忘れてしまっていた。勢いよく体に収納された感覚が、衝撃が体中に残っていた。目の前がぼんやりと揺れて動悸が止まない。視界には驚いた顔のコウが眉を寄せていた。私は魚のように口を開け閉めして何とか呼吸を思い出した。血に酸素が巡る感覚に何度も喘いだ。

「トウ。具合、悪いの?」「み、みず……水、ちょう、だ……」祖父の言う通り、干からびそうな程乾いていた。

 コウが更に眉をしかめて立ち上がった。すぐにマグを持った彼が背を支えて水を飲ませてくれる。そのまま飲み干し、また布団に戻されて人心地ついた。まだ頭がぼんやりしている。「大丈夫」と問われてただ「じいちゃんに会った」と答えた。浮遊感が体に残っており、支えてもらわなければ座っていられない気がした。

「全然起きないから雪掃きしといた。車の暖気も。俺、寝る」

 意外な言葉に目を瞬いた。彼はすぐさま布団に潜り込み始める。私は起き上がろうとしてふらつき、再び布団からはみ出る頭をぼんやりと眺めた。ただの夢だったのだろうか。肩を支えた手の感触が酷く懐かしい。雪掃きをしてくれたなんて信じられない。

 祖父の緑内障で濁った目を思い出す。『コウさ、いっつも墓掃除わりなって言っとげ。』本当だろうか。祖父と祖母の姿が思い出された。『むんつけんな。』私達はまだ、死んでも会いに行きたいと思う夫婦になれるのだろうか。

 肩をさすりながら感傷に浸っていると「遅刻するよ」と布団の中からくぐもった声がした。私は慌ててスマホを手に取った。時間を見て立ち上がろうとしたけれど何か掠めた気がしてもう1度画面を見た。

 今日は、祖父の誕生日だった。


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 *1はいず……それ

 *2ごしゃぐなず……怒らないで

 *3がおっから……疲れる・具合が悪くなる

 *4むんつけんな……いじけるな

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