青の薬子
甲池 幸
第1話 青の薬子
「酸素は液体にすると水色なんだって」
楽しそうな顔で化学の教科書をめくる友人に視線を向けて、茜は小さくため息を吐いた。一日中退屈な授業が詰め込まれている学校生活の中で唯一のまとまった自由時間である昼休みに教科書を開くのはどうなのだろう。そういう非難も含めたため息を目の前の東雲は全く気にした様子もなく言葉を続ける。
「水色なんだよ、私たちが吸い込んで、消費している酸素が」
東雲が開いているのは状態変化にまつわるページだった。先ほどの授業で、中学の復習もかねて触れられた部分だ。茜たちの通う学校は進学校でもなければ就職に強い商業高校でもない。ごく普通の──ちょっぴり制服がダサい感じの──普通科高校だ。遠方からわざわざ通ってくる生徒も少ないから、教室の二割ほどは同じ中学の卒業生で、五割ほどは部活の知り合いがいる。茜と東雲は小学校からの友人だった。普段は貧血を疑われるほど白い頬をほんのり赤く染めて、東雲は再度主張する。
「すごいよね、無色透明で味すらわからないまま吸い込んでいるものが、液体にすると青いんだよ」
どうやら少し変わったこの友人は珍しく喜んでいるらしい。そう気づいた茜は小さく笑みをこぼして「そうだね」と頷く。東雲は笑うタイミングも泣き出すタイミングもよく分からないが、笑っている顔は年相応に見えて可愛らしい。「いつも笑っていたらいいのに」という本音は甘い卵焼きと一緒に飲み込む。東雲は同意を得られたことが嬉しかったのか、ようやく教科書を閉じて弁当を開いた。自分で作っているというその弁当には、今日も冷凍食品のおかずが目立つ。
「いただきます」
きちんと手を合わせてそう呟いた東雲はミニハンバーグを口に放り込んだ。口がもごもごと動いて、頬の赤みが徐々に引いていく。年相応に見えていた東雲の顔が、高校生から──人間から離れていくように感じる。
病的なほど白い肌。濡れているような艶のある黒い瞳。腰まである長い髪。夏の制服から伸びる細い腕。そのどこをとっても、東雲という人間は美しい。まるで、人形みたいに。
茜は頭に浮かんだ比喩を打ち消して、目の前の昼食に集中する。東雲はハンバーグを食べたのと同じ動作で卵焼きを咀嚼し、白米を飲み込む。茜は時折東雲に視線を向けながら、自分の弁当の中身をゆっくりと食べ進めた。
昼食を食べるだけには長めに設定されている昼休みの半分ほどを消費して弁当を空にした東雲はまた化学の教科書を開く。東雲よりも早くに食べ終わっていた茜は苦笑をこぼしてその指先を目で追った。東雲は細い指先で、ゆっくりと液体になった酸素の写真をなぞる。宝箱のなかにある大切なものの埃を払うような、優しくて柔らかな手つき。
「毒物みたいだよね」
うっとりとまるで好きな人にラブレターをもらった乙女のような顔で東雲はそう言った。机の端に置いていた茜の指先が小さく動く。東雲の視線はまだ液体の酸素に向いている。昏い瞳が、白くて細い指先が、液体酸素に縫い付けられていた。
「しののめ」
茜は泣きそうな気持で名前を呼ぶ。小さく震えた自分の声をどこか遠くに感じる。東雲が教科書から視線を上げて茜と目を合わせた。
「なあに」
首を傾げる東雲の顔には表情がない。表情だけじゃなく、その制服を剥ぎ取っても、肉を切り裂いても、感情が存在しないことを茜は理解していた。人との触れ合いで使う感情を、東雲はもう持っていない。彼女の制服の下にある多くの傷跡が、それを奪ったのだと、茜は良く知っている。鼻の奥がツン、と痛む。気を抜いたら涙がこぼれてしまいそうだった。茜は冷たい指先を動かして、液体酸素に触れている東雲の指を掴む。少しでも力を籠めたら折れてしまいそうな細い指だった。生きていることを疑ってしまうほど冷たい指先に自分の指先を重ねて、茜は声を絞りだす。
「しののめ」
東雲はもう一度首を傾げる。
「なあに」
茜は祈るような気持ちで、言葉を紡ぐ。
「居なくならないで」
東雲は言葉の意味が分からないような顔で、首を傾げていた。
****
茜が東雲と出会ったのは、夕暮れの公園だった。ケガをしている東雲に茜が駆け寄った時が最初の会話だったように思う。茜は隣の小学校の学区と通学している学校の学区の境目に住んでいて、東雲は隣の小学校に通っていた。小学校にうまく馴染めない者同士で話があったのか、いつも怪我をしている東雲を心配したのかはもう覚えていないが、何しろ二人は多くの時間をその公園で過ごした。ブランコをこいだり、砂山を作ったり、小学生が外にいるには少し遅すぎる時間まで。東雲は昔からあまり笑わない子供だったと、茜は記憶している。そんな東雲が「蝉は一週間しか生きられないんだって」と笑いながら教えてくれたのはいつの事だっただろう。
茜と東雲はいつものように学校から帰る途中で公園に寄り道していた。太陽が沈むにはまだ早い時間。背中を伝う汗と辺りに響く蝉の鳴き声が不快な夏の日。学校では取り合いになるブランコもこの公園では乗り放題で、茜と東雲はよくブランコに座った。茜は強く地面を蹴って、空に近づいたり、離れたりを繰り返す。東雲はブランコをこがずに、足元の蟻を眺めていた。茜はブランコを止めて、東雲の方に身を乗り出す。
「蟻さん眺めるの楽しい?」
「ねえ知ってる?」
こちらの質問には答えず、東雲は質問を返してくる。茜は自分のブランコにきちんと座りなおして東雲と目を合わせた。
「なにを?」
東雲は珍しく笑っている。光の加減なのか、いつもより輝いて見える瞳を細めて、ほんのり頬を赤く染めて。東雲は楽しそうな声で茜の質問に答える。
「蝉ってね、一週間しか生きられないんだって」
嬉しそうな顔のまま「学校の授業で習ったの」と東雲は続けた。何がそんなに愉快なのか、まったく理解できなかったけれど、茜は「そうなんだ」と相槌を返す。いつも無表情でいる友人が笑ってくれるのが嬉しくて、その笑顔に水を差したくなかったのだ。東雲が地面を強くける。長いスカートが揺れて、足にある痣が一瞬だけ茜の視界に映る。体中にある痣の理由をこの時の茜は知らなかった。どうして東雲が家に帰りたがらないのかも、どうしてそんなに傷だらけなのかも、不揃いな髪の毛の理由も、茜は何も知らなかった。
茜がその理由を知ったのは中学にあがる少し前のことだ。ローカルテレビのニュース番組で「夫が妻を刺し殺した」という悲惨な事件を報道していた。その容疑者が東雲という名字で。のちの報道で虐待されていた子供を守ろうとした母親が殺されたのだ、とアナウンサーが解説しているのを聞いて。東雲の怪我が増えなくなって。茜は泣きそうな思いで、東雲が抱えている現実を理解したのだ。
****
英語教師の話し声を聞き流しながら、高校生の茜は窓の外を眺める。例年よりも長引いている梅雨は天気予報を無視して気まぐれに雨を降らせていた。来年には取り壊しが決まっている古びた校舎の窓ガラスは薄汚れていて、雨に濡れる街並みがとても遠い場所にあるような錯覚を受ける。世界から隔離されているような教室は、どうしても息が苦しくなる。狭い場所に三十人も人が詰め込まれているからかもしれない。息苦しい理由なんて、そんなくだらないもので十分だ。
「毒物みたいだよね」とうっとりした顔で告げた東雲の顔が、茜の脳内に何度も浮かぶ。窓から視線を黒板に移し、いつの間にか増えていた英文をノートに写し取る。受け身の授業は良くないんだ、なんてワイドショーで騒いでいたこともあったが、田舎の普通科高校の授業は今でも受け身のままだ。教師の言葉を聞き流し、黒板の内容をノートに写し、時折問題集を開く。入学したての頃は真面目に受けていた授業も、二年目になると力の抜き方が分かってくるもので、今では教室の半分ほどの生徒が机の下で携帯をいじっている。茜の斜め前に座る東雲は背筋を伸ばして黒板を見つめていた。丸い後頭部がノートと黒板を往復する視線の動きに合わせて上下する。その動きを見る度に、茜は安心して涙が出そうになる。「あぁ、まだ生きるつもりでいる」と嬉しくなるのだ。
頭の動きに合わせて黒髪が揺れる。邪魔になったのか、白い指が髪を耳にかける。シャーペンがノートの上を滑るのに合わせて腕が動く。東雲が、生きて、そこに居た。
退屈な授業をなんとかこなし、掃除を終えて、東雲と茜は帰路についていた。茜は東雲のペースで歩きながら途中のスーパーで買ったラムネ瓶を傾ける。カラン、とビー玉が音を立てて瓶の中を転がった。傾けすぎたせいでビー玉が甘いラムネをせき止める。中身が少なくなると瓶を傾けなくては飲めないのに、傾けすぎるとビー玉が飲み口にはまってしまう。構造的な問題だ、と茜はため息を吐き出した。隣を歩く東雲のラムネ瓶の中身はまだ半分ほど残っている。東雲は日の光に瓶をかざして、ビー玉をからからと転がし、また日の光にかざす。恐らく中身の甘い飲み物には興味がないのだ。
「ラムネはいいよね」
東雲が囁く。
「そうだね」
「人間の内側がビー玉だったら素敵なのに」
東雲はカラン、と瓶の中にあるビー玉を揺らした。人間の内側がビー玉なら、外側はラムネ瓶だろうか。血液は甘ったるい炭酸飲料。怪我をした時に流れ出すのが透明な液体なら、痛みも少しはましになるような気がする。茜は残り少ない中身を飲み切ってしまおうとラムネ瓶を傾けた。東雲のラムネはまだ半分ほど残っている。
「メスで切り裂いたら、キラキラのビー玉がたくさん入ってるの。透明で、青くて、丸いの」
東雲は熱に浮かされた子供のように興奮した声で続ける。
「とても素敵でしょう?」
茜は残りのラムネを飲むことを諦め、東雲の真似をして瓶を空にかざした。瓶越しに見る世界は歪んでいて、歪んだ世界を見つめる東雲が楽しそうなことが、ただ不安だった。東雲はようやくラムネを飲む気になったのか、瓶を傾ける。少しだけ口に含んで、甘ったるい液体を飲み込んだ東雲は無表情に戻った。
「冷たくない」
「暑いからね」
呟いた東雲に言葉を返して、遮断機の下りた踏切の前で立ち止まる。カンカンカンカン。甲高い注意を促す音が頭に響く。東雲は無表情で赤いランプを見つめる。不意に、東雲がラムネ瓶を振り上げた。
甘ったるい透明な液体が零れ落ちる。ビー玉が光を反射する。瓶が振り下ろされる。支えを失った瓶が空中に浮く。ガラスがコンクリートと衝突する。警報音が鳴り響く。
東雲は笑っている。電車が光を遮断しながら通り過ぎた。ラムネで表面が濡れたローファーでガラスを踏みつける横顔が、あんまり楽しそうで。茜は知らないうちに涙を流していた。茜は衝動的に東雲の指先を掴んで歩き出す。抵抗することなく東雲は茜の斜め後ろをついてくる。その顔に先程までの笑みはない。茜はぎゅっと強く東雲の指先を掴んだ。
遮断機が上がった踏切の手前に、砕けた青が散乱している。
****
青が見える。ゆらゆらと揺れる。体が、視界が、遠くに見える水面が。白いセーラー服が青く染まっている。あお、青、あお。口から吐き出した気泡が水面に近づいていく。息が苦しい。その苦しさが心地よかった。青に沈む。ラムネ瓶の中のビー玉にでもなったような気分だ。自分がとても綺麗なものになったようで、気分がいい。たった一人の友人の泣きそうな顔が浮かんだ。ごめんね、と呟いたはずの言葉は全部気泡に変わる。指先が水の中で揺れる。青に沈む。青の真ん中で、命を手放す。
****
東雲は、茜の通っていたプールで中学校の制服を着て、死んだらしい。透明で青い水の真ん中で、透明で青い水をたくさん飲み込んで、それでもビー玉にはなり切れずに、死んでしまったらしい。高校の制服に身を包んで、ざわざわとした空気の中で茜は立ち尽くす。東雲のお通夜が行われていた。中学の同級生がちらほらと茜と同じ列に並んでいる。そのほとんどが義務感から参加しているのだろう。携帯を確認したり、予期せぬ再会を喜んで笑いあって話をしたり。誰一人、東雲の死を悲しんでいるようには見えない。前の人が一歩進む。それにあわせて、茜も足を踏み出した。そうして何歩か進み、建物の中に入る。椅子に座った親族に視線を向けても、涙を流している人は一人だけ。ハンカチで目元を抑えて、必死に嗚咽を飲み込んでいるのは両親を失った東雲の後見人として、一緒に暮らしていた叔母だった。時々、授業参観にも来ていたから茜も何度か話をしたことがある。茜は自分の頬をさすって、涙が流れていないことを確かめる。
東雲の些細な仕草や言葉であんなに泣きそうになっていたのに、いざ死んでしまったら、涙が一滴も出てこない。ただ、飲み込み切れないほどの質量をもった現実が、そこにあった。また列が進んで、東雲の遺体が近くなる。
棺に入っている東雲は、いつも通りの無表情を浮かべていた。
人形のようだと思っていた東雲は、茜のたった一人の友人は、本当に人形になってしまったのだ。液体酸素が青いことを知っても。ラムネ瓶を割っても。内臓がビー玉に変わるところを想像しても。この東雲は、頬を染めない。口角が上がらない。濡れたように艶のある瞳はもう、なにも写さない。
「しののめ」
呟いた声は確かに震えていた。胸の中に悲しいという感情が確かに存在するのに、やはり涙が流れることはない。
「しののめ」
茜はもう一度呟いた。「なあに」と間延びした声が返ってくることはない。悲しくて、辛くて、心臓が痛くて。それでも涙を流せないまま、茜は東雲の棺から離れる。建物の中から出ると、談笑している同級生が目に入った。この後食事にでも行こうか、なんて相談をしている彼らを見ても、なんの感情も浮かんでこない。テレビの向こうで人が死んでも笑っていられるような感覚なのだろう、と茜はぼんやりと思う。
東雲の死を悲しんでいるのは「この世で立った二人なのだ」と思うととても寂しいような気がした。
もう東雲はいないのに、帰り道で遠回りをしてラムネを買った。半分ほど飲んで、空にかざす。梅雨が明けたばかりの夜空は綺麗に晴れていて、満ちかけている月の光が眩しい。瓶を通して歪な世界を見つめる。そうしていたら、東雲が見えるような気がした。熱に浮かされたような上ずった声が聞こえる気がした。でも、東雲は現れない。二人で通った踏切の前で立ち尽くす。誰かが片付けたらしく、いつの間にか飛び散ったガラスはなくなっている。
カンカンカンカン。遮断機が下りて、警報音が鳴り響く。
ラムネ瓶を振り上げる。こぼれた液体が制服を濡らす。赤い光が点滅している。瓶を振り下ろす。支えを失った瓶が地面と衝突する。青が、砕け散る。警報音が響いている。
茜の瞳から涙が零れた。
滲んだ視界の先でコンクリートにガラス片が散らばっている。とめどなく流れてくる涙が、制服を濡らす。電車が通り過ぎ、遮断機が上がった。反対側からやってきた高校生が驚いたような顔で茜を二度見して、踏切を渡っていく。ガラス片の前で、遺体なんかよりずっと東雲に近い散らばった青の前で、茜は泣いた。足から力が抜けてしゃがみ込む。転がったビー玉に手を伸ばして、握りしめる。冷たくて、濡れているビー玉は、東雲の指先に似ていた。
「しののめ」
吐き出した言葉は熱くて、震えている。涙を受け止めるガラス片は、街灯の光を反射していた。握りしめたビー玉が次第に熱を持つ。簡単に温度が移ってしまうガラス玉は、やっぱり東雲の指先とは程遠かった。「しののめ」と茜はもう一度呟く。
魔法も救いもない世界では、人の内臓はビー玉にならないし、死んだ人の声が聞こえることもない。ガラス片に伸ばした指先から赤い血が流れだすのを見て、茜の目から大粒の涙が零れ落ちた。
青の薬子 甲池 幸 @k__n_ike
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