水面
武市真広
水面
その日も憂鬱な一日だった。
家に帰ってきても心にかかった薄靄は晴れない。散らかった部屋を見ても片付けをする気力も湧かない。雑にシャワーを浴びてからベッドで眠りにつく。
こんな夢を見た。
私は桜並木の下を歩いている。右手には細い川が流れている。緩やかな流れの上に風に吹き飛ばされた花弁が落ちた。
歩く足取りも穏やかだ。流れる時間は、慌ただしい現実の中では決して味わえないような、ゆったりとしたものだった。
私の他に歩く者の姿はない。私は気分良く歌った。この歌はずっと昔に誰かが歌って聴かせてくれたものだった。でもそれが誰なのか思い出せない。私は歌い続けた。
目を覚ますと既に朝になっていた。携帯電話のアラームが鳴る少し前だった。いつもより少しばかり気分が良い。
嵐のように一日は過ぎていく。人々はどうしてそんな生活に耐えることができるのか。私には理解できない。嵐のように過ぎていく一日の中で私は何度も一喜一憂を繰り返す絵。激動する心にも疲れてしまった。
死という単語を思い浮かべた時、私はゾッとした。自殺こそ最も尊厳ある死であると言って、その言葉通りに自ら命を絶った友人のことを思い出した。彼は運命に翻弄されることを誰よりも嫌った。そして、導き出した結論が自殺だったのである。
彼の言うように、自殺することが私のこの運命に抗う唯一の手段だとするなら、私は自己を救済するために自殺するべきなのだろう。しかし、私にそんな勇気などなかった。ただ運命に対して何もできなかったのだ。そういう諦めがあるからこそ苦しいのである。
心の中にある鬱蒼としたものが、私をひどく追い詰める。仕事を終えて帰宅した私は、服も着替えないでベッドに倒れ込んだ。そして、もう二度と目が醒めなければいいのにと思った。
夢の中。
相変わらず私は歩いている。ゆっくりと歩いている。春の穏やかな光は私の心の中までも温かくした。
桜並木はどこまでも続いている。川もどこまでも続いている。どこまで続いているのだろうと私は疑問に思った。
「貴方はどこに行くの?」
そう声がした。目を向けると一人の女が川の上を仰向けになって流れていた。長い黒髪が水面に浮かんで流れに逆らっているように見えた。水に濡れた髪が艶やかに輝いていた。まるで絵画の中の女が出て来たような、そんな印象を持った。
彼女に見惚れて答えないでいると、
「貴方は……どこに行くの?」
とまた訊いた。
「この先をずっと真っ直ぐ」
私はただそう答えた。よく考えた上でそう答えた訳ではない。このまま道が続くとどうして言い切れるだろう。道はいつか終わるものだ。あとどれぐらいか知らないだけ。
「そういう君は?」
今度は私が訊いた。
「ただ流れるまま」
彼女は短くそう答えた。
それからしばらくは互いに何も言わなかった。時折彼女が私を追い越して流れていったので私が小走りで追いかけた。逆に今度は私が先に行ってしまって彼女を待つこともあった。
そうしている間も私たちは無言だった。陽気な日差し、時折吹く風、宙を舞う桜の花弁、川のせせらぎ、何もかもが生き生きとしていた。
目を覚ましてからも、夢の中の感覚を私ははっきりと覚えていた。
生活の中で他人を観察する余裕が生まれたのは、あの夢のおかげであろう。嵐も繰り返し経験すれば、身の置き方を心得て来るらしい。地下に潜って外の様子を伺うように、私は他人に目を向けた。
そして気づいた。彼らは決して嵐が平気だった訳ではないのだと。
他者もまた私と同様に苦悩している! それは痛みを分かち合うことへの安堵ではなく、痛みから何人も逃れ得ぬことへの絶望だった。苦しまぬ者などいないのだ。痛みに黙って耐えるか泣き叫ぶかの違いでしかない。耐えられなくなった時、彼らはただ倒れるだけだ。誰かが助けてくれるなら幸い、だが誰も手を差し伸べなければ死ぬしかない。
誰もがそうした状況にあって一日一日を何とか送っている。そうした在り方に疑問を覚える者もいるのだろうが、大抵私と同様に絶望してしまうのだろう。現実を受け入れるか、それを拒むか。
拒む? そんなことが可能なのか?
あの夢! あの夢に閉じこもれば、あるいは拒むことになるのだろうか。しかし、発狂しない限り、夢の中に閉じこもることはできないだろう。
桜並木もいつしか変わった。枯れ木の下、枯れ葉を踏みしめながら私は歩いていた。私は灰色のトレンチコートを着て両手をポケットの中に入れていた。ひどく寒い。空は曇り、太陽の姿は見えない。
寒さに震えながらそれでも歩き続ける。道はまだまだ続いている。どこまでも続いている。私は立ち止まった。立ち止まって初めて足が痛いことに気づいた。
そして考える。私はあとどれぐらい歩かねばならないのか。道はどこまでも続いている。すっかり歩き疲れてしまった。
川に目を落とすと女の姿はなかった。どこかにいる。きっとどこかに。私は必死になって探した。だがどこにもいない。最初から彼女はいなかったかのように、跡すら残さず消えてしまった……。
ああ、そうか。彼女はもう死んでしまったのだ。流れるままに流れて死んでしまったのだ。
私はまたあの歌を口ずさみながら歩き出した。歩いている内にあの女がどんな顔をしていたのかすっかり忘れてしまった。
終
水面 武市真広 @MiyazawaMahiro
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