第22話 台風と空き缶と
10月に入ったというのに、台風が近づいているとニュースが知らせていた。それもかなり大型で、強い勢力を持っているらしい。仁志たちは迷った末、ひょうたん食堂を早めに閉めることにした。売り上げを増やそうという時に休むのは厳しいが、開店していてもそもそも客が来そうにもない。利用者たちを早々に帰した後、仁志たちで手分けして予約が入っている弁当の配達だけを済ませた。市役所などは閉めるわけにもいかないので、弁当の配達は喜ばれた。
「風が結構、強なってきたな」
「早めに皆帰ってもらって正解だったわね」
配達から戻る頃には風雨がかなり強くなっていた。遠くで電線を強風が吹き抜けている、「もがりぶえ」が聴こえる程度だったのが、空気そのものが鞭のしなうような音を鳴らしている。それも相当に大きな音で、すぐ近くでしているように聞こえるため、少し恐ろしさを感じる。合わせて、ばたんばたんと何かが打ち付けられる音も聞こえる。看板や屋根瓦が飛んだりしないだろうか、と心配になった。
「ねえ、紀子ちゃん、帰れるのかしら」
思い出したように、みどりが言った。そういえば、紀子は堺から通勤してきている。朝から当然のように出勤していたので一緒に動いていたのだが、彼女だけはここから帰宅しなければならない。
「大丈夫ですよ。なんとかなります。そんなに遠くじゃないし」
紀子自身は平気な顔をしているが、この風雨の中、ひとりで帰すわけにもいかない。仁志は、もう少し早く気づいてくれよ、とみどりの呑気なタイミングに心の中で毒づいたが、手遅れである。
「阪和線、止まってますよ」
事務室のパソコンで検索した拓也が報告した。
「どっちにしても、今は動けないから、ここで待つしかないわね。せっかくだから、晩御飯食べて行ったらいいわ。いざとなったら社長が送ってくれるから。ねえ、お父さん」
何故かみどりは楽しそうである。
「阪和線はちょっと雨降っても遅れたりするからな。この台風やったらそら動かんわな。夜には行き過ぎるみたいやから、ここで待っといたらええ。大丈夫、ちゃんと時間外手当、出すから」
「そんなん、いいですよお」
紀子が笑って返した時、である。店舗の方で、ガタン、と音がした。
「なに、なんや。なんか飛んで来たんか」
小さく悲鳴を上げたみどりと紀子を後ろにして、拓也が様子を見に行く。
「あれえ、千代さんやないですか。どしたんですか」
一同が驚いて見に行くと、果たして千代が雨合羽を着込んだ上で、逆さに開いてしまった傘を持って立っていた。
「すごい嵐やから、ひょうたん食堂、大丈夫かなって思って」
「心配して来てくれたの? その傘壊れちゃったの」
「風がびゅうって吹いてきて、さかさまに開いちゃって。こんなのはいいんだけど、ひょうたん食堂は大丈夫? 私の家の前のタバコ屋さん、屋根が飛んじゃったのを見て、心配になったの」
こんな時に紀子が、自分ではなく、こちらの心配をしているということに、仁志はショックを受けた。守ってあげないといけない、と思っていた対象が、かえってこちらを守ってくれようとしていた。何か自分が、これまで大きな勘違いをしていたような、そんな気分に襲われた。
「とにかくここは大丈夫。お母さんも心配しておられるだろうから、すぐに帰ろう。私が送っていくわ、千代ちゃん」
みどりが言った。仁志は、
「車を出そうか」
と言ったが、
「千代ちゃんの家だったら、大丈夫。車に乗り降りしている間に着くから」
とあっさり返された。確かに、同じ町内なので、歩いて数分とかからない。それでも、みどり一人で行かせるのも、と思ったので自分も一緒に行こうかと言ったが、今度は拓也が、同行を買って出た。
「下手に動いて怪我でもされたら大変やから」
親としては頼もしいやら情けないやらで複雑だったが、せっかくやる気を出しているのに水を差すのもと思い、任せることにした。
夕食を食べ終わる頃には暴風の音は止んでいた。
「本当にご飯までごちそうになってしまって。どうもありがとうございます。じゃあ、風もましになってきたみたいなんで、そろそろ」
紀子がそう言って立ち上がろうとした瞬間だった。ふっと、電気が消えた。
「ええっ」
「きゃあっ」
「わあああ」
さすがに一斉に悲鳴を上げた。仁志とみどりにとっても停電は久し振りの体験である。
「か、懐中電灯。そうや、ろうそくないんか、ろうそく」
予測していなかった事態にうろたえていると、灯りがついた。
「懐中電灯なんかそう簡単に出てけえへんやろけど。これで大丈夫やろ」
拓也のスマホのようだ。
「そ、そんな機能もあるんか」
我ながら間抜けな反応とは思いながら、その灯りを頼りに部屋を見回す。かろうじて一つ、懐中電灯を見つけるが、長い間放置してあったので、当然のごとく、スイッチを入れてもピカリともしない。幸いなことに電池のありかだけはすぐに分かったので、なんとか入れ替えて、点灯する。念のために部屋のブレーカーを確かめたが、異常はない。やはり、停電しているようだ。
「阪和線だけじゃなくて、近鉄もみんな止まってるみたいやで」
拓也がスマホを見て、言った。台風は一応過ぎたようだが、交通の状況はさらに悪化しているようだ。
「やっぱりこれはお父さんが送るしかないわね」
みどりに促され、仁志は自家用車で紀子を送っていくことにした。
外に出ると、雨もほとんど上がっていて、生暖かい風がゆるく吹いている。ところどころ切れ間が見える空は、月明りに照らされている。台風一過の静けさというやつか、と思ったが、どうもそれだけではない。なんだろう、この静けさ。車を発進させてからすぐに、仁志はその原因に直面することになった。
灯りが、ない。建物から漏れる灯はおろか、街灯さえ、沈黙している。ヘッドライトは点けているというのに、照らしている気がしない。空が明るいだけに、それと比較して地上の暗さがより暗く感じられる。全く灯りのない山道を走ったことがあるが、その時よりも暗く、見慣れた町の景色が全く異なって見えた。
それでも、住宅地の中を通っている間はまだよかったが、国道に出る交差点ではさらに異様な風景が広がっていた。
「なんや、これは。信号まで消えてるぞ」
交差点ごとに設置されているはずの信号が、どの色も示していない。それどころか、風にあおられたからか、信号機そのものがいくつか、あらぬ方向にゆがんでしまっている。日頃はレンズに灯る光を強調するためにあるフードの部分だけが、そっと届いた月の光を反射して鈍く光っている。少しためらった後、待っていても青信号がともることはないということに気が付いて、恐る恐る車を国道に乗り入れた。
日中ほどではないにせよ、それなりに交通量もあるので、交差点の都度いちいち停車し、様子を見ながら恐る恐る渡るしかない。どちらが先に通行するのか、何のルールもないので、他の車が通ろうとすると互いに相手の動きを読み合っておっかなびっくりで進む。しかもその最中に別の車両がやってきて、中には強引に通り過ぎることもあった。何度もぶつかりそうになり、通常ならわずか二十分程度の距離を、一時間近くかけてようやく到着した。
日頃、当たり前と思っていることが取り去られてしまうことが、こんなにも不安を感じさせるのか。意識もしていなかった信号が停止しただけで、これほど恐れなければならないのか。改めて、自身が弱い存在であるということを思い知らされることになった。
翌朝、嘘のように晴れ渡った大和川を、久しぶりに歩いてみた。相変わらず、空は広々としている。ここしばらく天気が荒れていた影響で水位は高めだが、もとより濁っているのでそこに違和感はない。ただ、流されてきたからか風に飛ばされてきたのか、河原にはいつもよりさらにごみの量が多かった。
ふと見ると、十数名がポリ袋を持って堤防の土手にとりついていた。一帯に散乱したごみを拾い集めているようだ。その中に、田中鶴次郎の姿を見つけた。ここで彼を見るのは三度目だが、何となくここが一番居場所としてしっくりくるように思えた。一緒にごみ拾いをしているようだった。
よくアルミ缶を集めて業者に売りに行こうとしている人を見かけるが、今目の前で彼らが集めているのはどう見ても単なるごみである。何らかの業務や利益のためにやっているわけではなく、ボランティアのようだ。誰かに頼まれたわけでもなく、少しでもきれいにしようと、買って出ているのだろう。そういえば、川原だけでなく町中でも、ああやってごみを拾っているボランティアの姿を子どものころからよく見かけていたことを、仁志は思い出した。
町並みが汚い。川原はごみだらけでうんざり。不満ばかりは一人前に鳴らしながら、自分では吸い殻一つ拾ったことはなかった、ということも思い出した。
最も小さい者にしたことはこのわたしにしたのだ。意味を理解できていないままで事業の理念に取り込んだ言葉だった。気づけばその「最も小さい者」だと思っていた障害を持つ利用者たちの感性に、随分色んな刺激を受けている自分を発見していた。「気の毒な人」と「そのお世話をする人」に分けて自分をお世話する側にしようとしていたのが、実は彼らは思う以上に生きている存在だったと今なら分かる。それが今、こうして川原の景色を見ながら感じる内容の変化にもつながっているのだろう、と分かる。自分だけでなく、活き活きと仕事をし出した妻や将来を考えて専門学校に行き直そうと決めた息子も含め、我が家全体が、変わってきているのだろう、とも思った。
最も小さい者というのは、実は自分自身だったのではないか。ふいに、そんな思いが沸き起こって来た。集まった利用者たちの生き方を見ていて、100円ショップで買い物をしていた親子を見て、川原でごみ拾いをするボランティアの姿を見ていて、思い知らされてしまった気がした。
倒産したことを伝えた時の、みどりの反応を思い出した。責めるでも嘆くでもなく、大変ね、無理しないで、と言われた。途方に暮れつつあった自分に、みどりが見せた態度。それこそ、最も小さな者としての自分を受け止めるという実践に他ならなかったのではないだろうか。そうだったからこそ、あの時の状態から、ここまで進んでくることができたのではないだろうか。
元はと言えば、失業した自分が、食べるために始めた事業だった。障害者はそのための「客」にすぎないはずだった。しかし、いつの間にか「仲間」や「家族」に近い存在になっていた。食い物にするのではなく、一緒に真面目に働いてみようと思った。帳尻を合わせるためだけに労働時間を減らすことはしないでいこう。自分たちも含めて、皆が食べていけるように、ひょうたん食堂を充実させなければならない。雇われ店長だった頃よりも、状況はシビアだけれど、不思議と不安はなかった。
まあ、なるようになるさ。そんなところにも皆の影響を受けていることを発見した仁志は、なんとなく晴れやかに腹を決め、足下に転がっていたペットボトルを一つ、拾い上げた。
最も小さき者 十森克彦 @o-kirom
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