第21話 評価

 研修の日程が終わって、駅に向かったが、すぐには帰る気にならず、せっかく出てきたのだから、と構内にある船場センタービルの中をうろうろしてみた。研修の内容はほとんど頭に残らなかった。丸岡とのやりとりで、長い間自分の中にあった罪責感から解放されたことと、同時に丸岡の至極もっともな指摘――何を苦しんでいるかは本人に確認しなければ分からない――で、自分が独り相撲を取っていたということに気付かされたことの両方が、なんとなくさっぱりとした苦笑いを仁志に残していた。

特に必要なものもなかったのだが、なんとなく近くの100円均一ショップに入ってうろうろと見て回っていたら、知的障害を持っているらしい青年と、恐らくその母親が二人で入って来た。これまでは全く関心も持っていなかったので気にも留めなかったし、第一それが知的障害であるということすら知りもしなかったが、障害福祉サービスに携わるようになってから、それなりに知識と関心が身についてきているようだった。

「何を買うのさ。ねえ、これは何なの」

 次々に質問を投げかける青年に対して、母親の方は自分の買い物に専念しながら、受け流しているように見えた。自分だったら少しイライラして、ちょっと黙ってなさい、くらい言ってしまうかもな、と思いながら何気なくその親子のやりとりを聴いていた。すると、青年の方が、

「ねえ、ジュース買おうよ」

 と言った。母親の方がごく普通の調子で、

「嫌だ」

 と答えた。

「いや?」

 青年が問い返す。仁志も同様に、彼女の答えにひっかかっていた。駄目、じゃないのか、普通は。

「だって買っても飲まないもの」

「ふうん」

 そのやりとりはそれで終わった。しかし仁志の心に妙に残った。許可したり禁じたりするのではなく、まるで友達同士のような親子だった。

「ふうん」

 仁志もこっそり、真似ていた。何故だか、気分がさわやかなものに、なっていた。


 帰路は、近鉄南大阪線の阿部野橋駅から、準急に乗る。松原へのアプローチはこの路線しかないので、使い慣れたものだが、駅舎はここ数年で随分変わった。メトロの改札口からそのまま地下の通路で改札口までつながっている。切符を買って自動改札を通ろうと思った時、後ろを歩いていたサラリーマンが、不意に仁志を追い抜いて、走り出した。見ると、行き先案内板の表示が点滅している。三番線、藤井寺行き準急。仁志が乗る電車だ。特に急いでいるわけでもないのだが、つられて走り出してしまった。階段を駆け上がる。もう少し。そう思った時に、最後の二段か三段が、つま先にひっかかった。あっと思う間もなく体が沈み、仁志の体はホームの上に盛大に転がった。年のせいか、運動不足の賜物か。足が思うように上がっていなかったのだろう。すぐに立ち上がると、目の前に電車の扉があった。「駆け込み乗車はお止めください」というアナウンスを聞きながら、とにかく車内に駆け込んだ。仁志の足がゴム製の床を踏むと同時に、音を立てて扉が閉められる。

 間に合ったと思う間もなく、周囲の視線が集まっていることに気付いた。年甲斐もなく、何をしてるんだ。今更ながら、恥ずかしさがこみあげてくる。何食わぬ顔でやり過ごそうとしても、息が上がってしまってどうしようもない。それに、急に走ったからだろうか、膝がズキズキと痛み出した。転倒した体の方は特に痛みはないが、河内松原駅に到着するまでの約10分の間、膝の痛みと周囲の冷たい視線に耐えながら、息を整えるので精一杯だった。


「いやもう、情けないやら痛いやら、でなあ。別に急がなあかん理由もいっこもあれへんのに」

 翌日の休憩時に、思わずそんな愚痴をもらした。すると、その場にいて聞いていた山鹿篤が、ちょっとだけ考えて、

「乗り遅れなくて良かったですね」

と言った。一緒にいた富田恵が続けて、

「それに、怪我をしなくて良かったね」

 とも言った。仁志は思わず二人の顔を見直した。ただ笑われるだけだと思って言った。実際、昨夜帰宅してから家族に話した時には、

「あほやなあ。何も急がんでもええのに。恰好悪い」

「怪我でもしたらどうするのよ。気をつけてよね、本当にもう」

 と予想通りの反応が返ってきたのだ。膝は翌日になってもまだ、痛んでいるし、自虐的にそう言って、笑い話にでもしなければおれないと思っていた。しかし、この二人はそれを笑うのではなく、「良かった探し」をしてくれたのだ。物の見方を変えるということだが、言うは易し、である。しかも、特に気負うでもなく、誇るでもなく、平然としている。なかなかやるじゃないか、と仁志は内心で思い、少し気持ちが晴れた気がした。


 そんな調子で、ひょうたん食堂が開業して、半年が過ぎようとしていた。コンサルタント契約を結んでいる出宮が、半期の決算の前に、経過を整理するためにやってきた。

「利用者さんの集まりは順調ですね。ただ、店舗の方が思ったより上がっていないので、賃金を支払うのが厳しそうですね」

 出宮が、帳簿を見ながら言った。

「ええ、おかげさんで。収入が上がり始めるまでギリギリでしたけど、なんとか借金なしで動き始められましたしね。まあ、店の方は仕方ありませんなあ。それでも役所さんや病院さんなんかに協力してもろて、結構頑張ってますねんで。持ち出しは出ますけど」

 仁志は上機嫌で答えたが、出宮の方は首をかしげたまま、あごをさすりながらなにやら考え込んでいる。すっきりしない。

「どうかしたんですか」

 渋い表情の出宮に、少々不安を感じて尋ねた。

「ええ、このままだと、就労支援事業会計、つまり食堂部分の会計が赤字になりますね。以前は決算を別にするというだけだったので、赤字のまま決算をして、最終で補てんという形がとれてたんですが、今はそれをしてしまうと経営改善計画の提出を求められることになるかもしれません。これが結構厄介でして」

「ていうことは、ええと」

 言われたことを頭の中で整理しながら、

「あと50食ぐらい売り上げを上げたらええ感じかな。……無理ですわ」

 と笑いながら答える。

「そうですね。もしくは支払う賃金を下げる。時給は下げられませんから、労働時間を減らす形にするか、ですね。いわゆる、ワークシェアリングと考えればいいんですよ」

 労働時間を減らす。前半後半のシフトを組んで、入れ替わりで働いてもらう。それは元より考えていたことだが、今のところ、そこまで仕事があるというわけではない。店の規模よりも倍近い人数を雇用している形だから、当然である。空いた時間は半ば休憩にしていた。朝食なり夕食なりの時間帯にも営業時間を伸ばすことで交替制にすることは可能だが、支援スタッフの方の労働時間も伸びるので、すぐにというわけにはいかない。

 研修の時とは別の意味で、利用者たちの顔がまた、浮かんだ。一人当たりの時間を減らすというのは、直接彼らの収入に影響する。最も小さい者達にしたことはわたしにしたのだ。何故か、その言葉が思い出された。

「賃金下げるって、それやったら何のための事業か分かりませんがな」

 仁志が言い返すが、出宮は表情を変えずに即答した。

「何のための事業って、そりゃビジネスに決まってるじゃないですか」

 そら、ビジネスやけど。それでええんやろうか。問答は続けられなかったが、仁志は心の中で何度も問うてみた。


「なんか、おかしないか。本末転倒やろ。そら、俺がなんとかせなあかんねんけど。そない簡単に黒字が出せるくらいやったら、誰も苦労せえへんやろ」

 生ビールのジョッキを片手に、吐き出した。つぶやき、ではなくて割と大きなぼやきになっている。谷沢は何故か、口元を少しだけほころばせながら、聞いている。

「確かにビジネスやで。慈善事業やってるわけやない。そやから言うて、あの子らの給料減らしてもうたら、ただ障害者食い物にしてるだけになってまうやろ」

 久しぶりに、一杯どうだ、と谷沢に誘われ、天王寺で居酒屋に入った。こうして飲むのは1年ぶりになる。ちょうど、出宮とのやりとりの直後だったので、ついその話になった。そんなにハイペースで飲んでいるつもりはないのだが、一時間も経たない間に結構酔いが回っている。

「それで、お前はどうするつもりやねん」

 谷沢が、相変わらず愉快そうに尋ねた。

「でけへん。時間は減らさへん。営業時間延ばして、売り上げを増やす。それしかないやろう」

 仁志は3杯目のジョッキを一気に干してから、言った。口にしたのは初めてだが、勝算はある。復帰してきた安藤にもう少しだけ頑張ってもらって、自分と分担する形で昼と夜をやる。皆は時差出勤にはなるが、給料は減らないようにできるのではないか、と思っている。

「それはそうと、前に呑んだ時、丸岡の話したやろ」

 谷沢に、話してやろうと思った。というより、話してやらないといけない。仁志は丸岡と再会したこと、丸岡が精神を病んで苦労していたこと、しかし、皆が丸岡の周りに群がって、色々と買わせていたことは丸岡にとっては苦ではなく、むしろありがたいと思っていたことをゆっくりと話した。

 谷沢は焼酎のお湯割りをなめながら、黙って聞いていた。聞き終えると、少しだけ天井の方を見て、ふっと笑った。

「なるほどな、本人に聞いてみんと分からん、か。その通りやな」

谷沢も納得したという風だったが、仁志のように、打ちのめされたというほどではなく、落ち着いた反応だった。その態度を見ると、仁志には谷沢がずいぶん大人なのだな、と感じられた。

「それはそうと、お前はなんでそうやって笑うてるねん。何かおかしいか」

 絡むつもりではないが、仁志なりに真剣に話しているのに、笑って聞かれると、気にはなる。

「いや、おかしいわけやないよ。お前、ちょっと変わったなと思ってな」

「変わってないよ。俺はまだしらふや」

「そういう意味とちゃうがな。その、なんとか食堂」

「ひょうたん食堂や」

「そう、そのひょうたん食堂始めて、変わったと思うな。なんていうか、ええ感じになったと思う。笑てるのは、それが嬉しいからや」

 30年来の友人だが、おっさんにそう言われて、少しはありがたく、それ以上に照れ臭くて、仁志は威勢よく生ビールの追加を注文した。

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