第20話 学び
「いらっしゃいませえ。ええっ、なんで来たんよ」
篤の大きな声が店舗に響いた。安藤が入院している間は、篤に厨房の仕事を教えている余裕がないので、フロア係をしていた。その篤が、来店したお客様を迎えるなり、素っ頓狂な声を上げた。接客態度もなにも、あったものではない。
「どうしたんや、山鹿君」
仁志は慌てて厨房を出た。
「なんで来た、は客に向かって失礼やろう」
案の定、客の一人が険しい顔をして篤をにらんでいる。中年の夫婦らしく、夫と思われる男性の方である。篤の方もまずいと思ったのか、肩をすくめ、頭を下げて
「はい、すいません」
と詫びている。
「大体お前は仕事をしている自覚がなってないやないか」
店員に対するクレームにしてはずいぶん言葉が荒いな、と思いながら仁志が慌てて割って入った。こういう時には、客より大きな声で勢いをつけて謝罪し、客にこちらを向いてもらわないといけない。
「申し訳ございません、うちの者が大変失礼をいたしました」
すると仁志の方を見たその中年夫婦が、急に態度を変え、丁寧な口調で答えた。
「あ、いや、店長さんですか。これはこれは、お世話になっております。こちらこそ大変失礼をいたしました。山鹿篤の、親でございます」
逆に深々と頭を下げられた。なるほど、そういうことか。様子を見に来た両親に、思わず素で対応してしまって叱られる。かつて雇われ店長だった時にも、何度か見かけた。
「ああ、山鹿君の、そうですか。それはどうも、よう来てくれはりました。どうぞどうぞ」
席に案内し、篤に接客するようにと指示した。ここは、息子の頑張っている様を見てもらうのが一番だろう。篤の方も、気を取り直して真剣な表情で応対している。父親は相変わらず険しい顔をしているが、篤に説教をしていた険しさとは違って、目線がきょろきょろとしている。息子に接客をされながら、これはこれで緊張しているのだろうと思えた。母親の方は、初めから変わらずに微笑みながらうれしそうにしている。そういえば、確か母の日には篤が馬券を買ってあげるのが毎年の習慣なのだ、と言っていた。
一通り食事が終わると、仁志は二人を、せっかくですからとミーティングルームに案内した。篤にも、コーヒーを運ばせたついでに、休憩をとって一緒に座るようにと言った。
「うちの篤は、ご迷惑をかけておりませんか」
「いえいえ、頑張ってますよ。元気ですしね。ムードメーカーていう感じですね。おうちで仕事の話なんかはされるんですか」
「にんじんの皮をむいたとか、大根を切ったとか、そんな話はしますね。するだけじゃなくて、練習をしたいと言って、家でも時々切ってますね」
「家でも、ですか」
仁志は人参の皮をむき過ぎた件を思い出しながら、篤の名誉のためにそれは内緒にしておいてやろう、と思った。
「おかげさまで、よく食べるようになったんですよ」
「うん、そうやな」
母親が嬉しそうに言い、父が小さく同意する。
「やっぱり、働いてお腹すくんですかね」
「それもあると思うんです。でも、好き嫌いをしなくなりました」
「ほお、好き嫌いを」
「小さい頃から偏食がひどくて、野菜とか煮物とか、あまり食べなかったんですけど、こちらでお世話になってから、そういうのも食べるようになったんですよ。やっぱり、厨房に入らせてもらって、作るところを見てるからですかねえ」
食育、という言葉を仁志は思い出した。母親ならではの目線だと言える。もちろん、成人している篤に当てはめることではないだろうけれど、自分で調理に携わることで、料理そのものについて関心が高まる。考えられる話だと思った。
「なるほどねえ。そしたら、うちに来てもらったことがいい方に働いたんでしょうねえ。いや、それはいいことをお聞きしました」
大体、調理の仕事を志すという時点で、食べることが好きな若者が多い。だから篤のような例はあまりないのだけれども、自分たちのこの事業所がそんな風に活きるなら、思いもよらない収穫だろう。
「休みの日はどうしてはりますか。夜なんかは、ちゃんと寝てはりますか」
張り切り過ぎて体調を崩してしまった安藤のことを片隅に思い浮かべて、仁志は尋ねてみた。皆が同じということではないけれども、張り切っている裏側で、疲れている姿があるかもしれない。
「そうですねえ。前はずっと家で引きこもってたんですけど、出かけることが多くなりましたね。あまり言わないんで、どこに行ってるかは知りませんけど。夜も早く寝てるようですね。以前は明け方までだらだら起きてることが多かったですけど」
早く寝ているということを聞いて仁志は、とりあえず安心した。今のところ、安藤のようなことはないらしい。
「休みの日はどうしてるんや」
ほとんど黙ったままでやり取りを聞いていた篤に向かって、尋ねてみた。
「競馬観に行くことが多いですね、やっぱり。それから映画館です。手帳持ってたら割引になるんで。観たい映画あったら、終わるまでに行っとかんと損やな、思て」
休日も、上手に過ごせていると思っていいんだろう。そういえば、自分も50を過ぎているので、夫婦で行けば割引で映画館に入ることができる。いつか行こうと思いながら出かけるのがなかなか億劫で、結局その特典も使わずに来ている。今度の週末には、自分たちもひとつ、映画でも観に行こうか、と思った。
蝉がにぎやかに合唱を始めた頃、安藤が退院してきた。
「すみません、長いこと休んで、ご迷惑おかけしました」
少しだけ、照れ臭そうに言う安藤に、
「大丈夫やで。皆でカバーしてたからな。ただ、山鹿君のお守だけは安藤さんやないとでけへんから、困ったけどな」
と二上明美が言った。
「お守て、ひどいやないですか。でもまあ、確かに安藤さんおらんと厨房の仕事覚えられへんから、戻ってきてくれてうれしいっすわ」
篤が心底嬉しそうに続ける。
「申し訳ない。でも、やっぱり長いこと休んでると、仕事したくて仕方なくなるな」
「それはそれで、病気やで」
「きっつい明美ちゃんの言葉聞くと、戻って来たって実感するなあ」
と安藤も嬉しそうである。
「蝉の一生は、成虫になってから1週間って言うけど、夏の間、鳴き続けてるじゃない。ということは、次々に入れ替わってるのかな。皆でカバーっていうとこで思い出したけど」
富田恵は、相変わらず独特の視点を持っている。なるほど、そういう意味では見事なチームプレーだと思うが、それと安藤の復帰とは何の関係があるのだろう、と仁志は思った。
「クリームパン食べたらイライラ治りましたって、言ってたな」
蝉の話を聞いた拓也は、いつものように事務室で記録をまとめながら、富田恵の不思議な発言を思い出してつぶやいた。大体一日か二日に一つくらいは、富田恵のそういう独特な発言が話題になる。
「長い病歴の中で、そうやって自分の症状とお付き合いする方法を見つけてきたのよね。自分の専門家だと思うわ、彼女」
紀子がそれを受けて言うと、拓也もわが意を得たりとばかりに飛びついた。
「自分の専門家っていいっすねえ。紀子さんの評価、ピッタリくるっていうか」
そういう二人のやりとりを、レジの現金を確認しながら仁志は微笑ましく見ていた。拓也が同年代の異性と話しているという姿はこれまであまり見た覚えがない。
「紀子さんの行ってはった専門学校って、2部やって言うてはりましたよね。俺も行ってみようかな。難しいですかね、やっぱり」
「大丈夫よ、拓也君やったらきっと。頑張ったら。私、教科書とかもまだ持ってるから、貸してあげるよ」
思わぬ方向に進展する話に加わるタイミングを得られず、仁志はレジの清算を終えると手元を片付け、ミーティングルームで書類をまとめているみどりに合流した。
「あらお父さん、珍しいわね。いつもは事務室でパソコンを触るのに、今日はこっちを手伝ってくれるの」
「いや、どうも二人の会話に入りにくくてな」
事務室の拓也達には聞こえないように、小声で言った。
「どういうことなの」
「拓也がな、紀子ちゃんの行ってた専門学校に行ってみようかって言いだして」
「やる気が出てきたのね、いいことじゃない」
「それもそうやけど、一緒の学校っていうのがな。そのう、話題も共通のもんが増えるしやな。結構気が合うてるみたいやんか。二人、ええ感じになったりして、と思ったらおりづらくてな」
言いながら、別に一緒に行くというわけでもないのに、何を勘ぐっているんだろうかと思ったが、言い出してしまったものは仕方がない。気付くとみどりが、明らかにそれと分かる大きなため息をつきながら手を止めている。
「本当にくだらないこと考えてるのね。お父さんって、どうしてそんな発想しかできないの」
まずい。また、余計なことを言ってしまった。しかし仁志にはどうすることもできない。
「せっかく仁志がやる気になっているっていうのにね。二人にならって、お父さんもちょっと勉強したらどうなの」
ここで、そんな風に自分に返ってくるのか。仁志はいつものように小さくなりながら、片隅では、勉強か、確かにそれは必要かもしれないな、とも思った。
研修の案内が届いた。春からいくつか、そういう案内はメールや郵便でも送られて来ていたが、紀子や拓也が行けばいい、と思って仁志自身はあまり関心を持っていなかった。けれども、そのプログラムには、「当事者の声」という時間があり、講師の欄に就労継続支援事業所ビーンと、森村の名が書かれていた。事業所の利用者数名と一緒に参加するという。もしかすれば、丸岡も来るのかもしれない。珍しく研修案内をまじまじと眺めている様子に気付いたみどりが、お父さんもちょっと勉強してきたら、とまるで中学生に対する説教のようなことを言ったので無視するわけにもいかず、一度参加してみることにした。
大阪メトロの堺筋本町の駅を出てすぐのビルが会場だった。以前勤めていた会社の本社がすぐ近くだったので、通い慣れていたはずの界隈だったが、久しぶりだということもあってか、ずいぶん雰囲気が違って見えた。
長々とした堅苦しいあいさつに続いて、森村が登壇した。ビーン内容についての簡単な説明の後、森村が壇上に利用者を呼び出すと、果たして一緒に出てきた3名のうち、一人が丸岡だった。ただ、自分のことはほとんど話さず、ビーンで仕事をしてみての感想のような内容だけだった。
休憩の時間になって、仁志はあいさつをするために森村の方に歩いて行った。しかし、すでに何名かの受講生が名刺入れを持って並んでいる。引き返すわけにもいかないので順番を待つことにしたが、そもそもその隣に座っている丸岡に目がいってしまっている。案の定、当人と目が合った。会釈をされたので思い切って声をかけてみることにした。
「あの、先日見学に伺った者ですが、その節はどうも」
「ああ、どうも」
返ってきたのはふわっとした反応で、こちらに関心があるのかないのか、つかめなかった。丸岡は自分に気付いているのだろうか。話したくないと思っているのではないだろうか。気付いていなくても同じことで、わざわざ過去のことを持ち出すのは本人の傷に触れるかもしれない。
そんなことを考えて迷っていると、その迷いが伝わったのか、丸岡の方から再び声をかけてきた。
「ええと、どっかでお会いしましたっけ。なんとなく見覚えがあるような気もするんですけど」
「え……」
仁志は戸惑った。しかし、丸岡の方から切り出したのだ。気にしていたことを確認するチャンスだろう。
「私は、香山、と言います。丸岡さん、とおっしゃいましたよね」
「香山……さん。ああ、やっぱりそうや、覚えていますよ。高校で一緒やった香山君やねえ」
思った以上に、丸岡の記憶は確かの様だった。
「やっぱり、あの丸岡……くん」
話し始めてしまったからには、途中でやめることはできない。仁志は少しだけ覚悟をして、尋ねた。
「何十年ぶりやろう。丸岡くんは今、ビーンさんに通ってるんや」
「そうやねん。僕、病気になってね。入院してたから、長いこと」
「長い、こと?」
仁志は思わず聞き返した。長く入院といっても、あれから40年近くが経っているのだ。それだけだったわけもないだろうし、端折り過ぎではないか。
「退院した時期もあったし、仕事してみたこともあるねんけど、なかなか続けへんかってん。それで、デイケアとか作業所に行ってね。落ち着いてきたんで、また働きたいなと思って」
また、デイケアか。ひょうたん食堂を始めてから、幾度となく耳にした。どんなことをやっているのだろう。いつか、見学をしてみてもいいかもしれないな、と仁志は思った。でも、それなら入院というのは。
「入院っていつ頃に? もしかして」
聞きたくないと思っていても、聞かずにいられなかった。あの頃であってくれるな。もっと大人になってからに違いない。なかば祈るような思いで丸岡の顔を見た。
「高校生の頃やね。ほら僕、途中で高校行かへんようになったでしょう。あの時、入院しててん」
一番、聞きたくない答えだった。あの状況が原因で丸岡が心まで病んでしまったのだとしたら、見ぬふりをしていた自分たちにも、責任がある。周りは相変わらず、雑談や名刺交換などで賑わっているが、そんなざわめきが、耳に入ってこなくなった。逃げ出してしまいたい衝動に耐えながら、仁志は思わず、丸岡に頭を下げた。
「申し訳なかったと思ってるんや。あの時、僕らが止めていたら少し変わってたかも知れへんし」
店長をしていた時から、頭を下げることには慣れている。ただし、それはあくまでも仕事上のことで、申し訳なさというよりも、トラブルを解消するための手段という割り切ったところがある。けれども今は、何かを解決するということではない。謝罪を求めているのは丸岡ではなく、仁志自身の心である。
「……」
丸岡からの応答はない。それはそうだろうな。仁志は思った。いまさら頭を下げられたところで、水に流せるものではない。あの頃の自分たち一同を断罪する声が聞えてきそうな気がした。
しかし、それにしても反応がないので、仁志は恐る恐る顔を上げて、丸岡をのぞき見るようにした。見開かれた丸岡の細い目には、恨みや哀しみの表情は浮かんでいなかった。むしろ不思議そうな、戸惑うような様子で、仁志の方を見ている。その反応に仁志の方が驚いて、言葉を探しあぐねていると、丸岡はゆっくりと口を開いて、
「あのう、止めるって、何を」
と言った。
「いや、皆がきみにたかってるみたいになってしもてたやろ。それはまずいんとちゃうかって僕らも思ってたんやけど」
仁志がなんとか返すと、丸岡はああ、そういうことか、というように、大きく2度ほどうなずいてから続けた。
「香山君は、何か、勘違いしてるんとちゃうかな」
「勘……違い?」
「僕は中学生の頃から病気になってたんや。幻聴がひどくってね。でも、高校生になってみんなが周りにいてくれるのは楽しかったしありがたかった。みんなに囲まれている間は幻聴あんまり気になれへんかったから」
「そやけど、お金が」
「こんなこと言うの、いやらしいけど、僕の家、結構お金持ちでね。お小遣いはたくさんもらってたんで、大丈夫。それよりも周りにみんながいてくれたから、助かってたんや」
「ほんだら、入院したって言うのは」
「うん、一人で家におるとね、幻聴がどんどんひどくなって。でも今は大丈夫やねんで」
反対だった。仁志にはそれまで自分の中で苦い思い出になっていたことが、勘違いだったのだという事実が、うまく呑み込めなかった。
「それは、知らへんかったな」
独り言のように、仁志はつぶやいた。その様子を見て、丸岡が言った一言に、仁志は打ちのめされることになった。
「香山君、心配してくれてたんはうれしい。でもね、僕が何をしんどいと思ってたのかは、僕に聞いてほしかったな」
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