第19話 アセスメント

 受付で事前に電話で予約していたことを告げると、以前事業を始める際にあいさつにやってきた時と同じ面談室に通された。前回は緊張していてあまり周りを見る余裕はなかったが、外来の待合に並んでいるベンチには夕方に近い時間というのに何人かが座っている。こんな時間に診察を待っているのだろうか。それ自体はそんなに珍しいことでもないだろうけれど、いつか千代が言っていた、「他に行くところがない」という言葉がふと頭をかすめる。この人たちはどんな日常を過ごしているのだろうか。当たり前のように出勤して、職場でほとんどの時間を過ごしてきた仁志にとって、それは想像の外にある毎日だった。

「どうも先日はお世話になりました」

 待つほどもなく面談室に現れた、田中鶴次郎の言う「病院のケースワーカー」というのは、求人の件で対応してくれた、女性の精神保健福祉士だった。

「お忙しいところ、すみません。今日は田中鶴次郎さんのことで、よろしくお願いします」

 みどりが丁寧に言った。詳しい内容は仁志が聞いても分からないことも多いだろうからと、2人でそろって出てきたのである。

「ええ、田中さんご本人からもお聞きしていますよ。あの人、何もおっしゃらないから分かりにくいでしょう」

「そうなんですよ。お名前とか生年月日とか、そんなことくらいは分かるんですけど、これまでどう過ごしてこられたのかとか、ご家族のことなんかは話してくれなくて」

「それも、私から伝えてほしい、とお聞きしてます。田中さん、ご家族はいらっしゃらないんですよ。田中さんは10年ほど前にこちらに入院してこられましてね。実はその間に、娘さんが亡くなってしまって。奥様も、その後を追うように亡くなったんです」

「事故か何かですか」

「娘さんは自殺でした。やはり心を病んでおられて。奥様はそれを気に病まれたんでしょう。道で倒れておられたところを救急搬送されたそうです。直接の死因は心不全でしたけど、全身が衰弱しておられて、ほとんど食べていらっしゃらなかったようだとお聞きしました」

「それは」

 仁志は、言葉を失った。自身の入院を含め、矢継ぎ早に起こったそんな出来事を、一帯どう受け止めたのだろうか。田中鶴次郎の表情に乏しい顔からは想像もできなかった。

「田中さんは入院されるまでお仕事なんかはどうされてたんですか」

 悲痛な表情で、みどりが続けた。

「食品加工の工場を経営されていたんですけれど、倒産してしまったようです。そのショックから田中さんご自身も心を病まれて、当院に入院してこられたんです」

「倒産のショックで……そうですか」

 みどりも、それ以上言葉を続けられなくなったようだった。倒産、発病、家族の死。2人には、漂う様に立っている田中鶴次郎の姿が、急に重みを増したように思えた。

「田中さんの病名は統合失調症です。幻聴や妄想といった陽性症状はなく、気力や感情の減退といった陰性症状が現在の主な症状です」

 気力や感情の減退。そこだけは、今仁志たちが見ている田中鶴次郎と一致していた。他にもいくつか尋ねようと思っていたことがあったはずだが、頭に入りそうにもない。

「他には、家族はいらっしゃらないんですね」

 せめて他の連絡先だけでも、と仁志が聞くと、

「実は妹さんが1人おられます。万一何かあった時には、私から妹さんに連絡を取ることはできます。ただ、ご本人には絶対に言わないでほしいとのことですので」

 という答えが返って来た。その疎遠な関係の底に何があったのか、というところまで、確認する気にはなれなかった。

 

 病院を辞した仁志は、みどりと並んで大和川の堤防を歩いていた。頭の上には、5月の空がのびのびと広がっている。いつもなら、その風景は気持ちものびやかにしてくれるのだが、今日に限ってはどことなく遠くて、奥行きを感じさせない平板なものに映っている。田中鶴次郎の過去のことを知ったことで、予想外に重いものを背負ってしまった気がしてそのまま帰宅する気にはなれず、少し遠回りをすることにしたのだった。

 しばらく、2人とも黙って歩いていた。景色が静かである分、時折かかとが砂を擦る音が妙に響き、耳障りにさえ思える。

「考えてみたら、田中さんだけじゃなくて、うちに来てくれている一人一人が、それぞれ色んなものを抱えてるのよね。当たり前のことだけど」

 みどりが、ぽつり、とつぶやいた。田中鶴次郎が背負っているものは、仁志が漠然と持っていた障害者の「気の毒な人」というイメージで片付けられる内容ではなかった。想像すると、胃のあたりがせり上がってくるような感じがする。みどりはそれを、ひょうたん食堂に集まっている一人一人にまで、広げてしまった。もしかすると、対象を広げることで少し薄まったり距離を持つことができたりする、と考えたのかもしれない。

 安藤や山鹿篤や上野篤の顔が次々に思い浮かぶ。千代にしても、同じだった。それに加えて、丸岡のことまで、思い出された。もしかすれば、丸岡もやはり同じように心を病んでしまったのだろうか。就労支援事業所ビーンには最近通い始めたのだ、と言っていた。ひょうたん食堂の面々と同じように、丸岡もまた、仁志には想像のつかないようなところを通ったのだろうか。

 少なくとも、仁志には重苦しさからの解放にはつながらず、かえってそれらの顔に溺れそうな気がして息苦しさを覚えた仁志は、出口を自分自身に求めた。

「それはまあ、我々も同じやけどな」

 大変なのは彼らだけではない、と思おうとしたからだが、仁志はそう答えてから逆に、彼らも自分も、同様にそれぞれ一人の人間なのだということに気付いた。それは、ひょうたん食堂に限ったことではなく、これまで出会ってきたすべての人間について、同じことが言えるはずだった。

「この子の中に、私がいる」

 何故かビーンの森村の言葉が思い出された。彼らの中に自分がいるのかどうかは分からない。しかし、彼らが今、自分の中に入って来ていることは確かだった。


「あら、あそこに座ってるの、もしかして」

 みどりが川原の方を指さした。いくつか並んでいるベンチの1つに、ぽつんと座っている人影が見えた。距離があるのではっきりとは見えないが、雰囲気から、それが田中鶴次郎のものだろうということが分かった。このタイミングで、こんなところで会うか。偶然とは思えないようなめぐりあわせに、驚きとも畏れともつかないような緊張を感じた。

 同時に、仁志は妙な既視感のあるそのたたずまいに、いつか見た風景をふいに思い出した。同じようにこの川原で、スケートボードに座っている老人を見かけた。倒産し、それを家族にも話せないまま途方に暮れて歩いていた時だった。その老人の姿を見て何故だか力が抜け、家族に素直に話してしまうことを決心して、家に引き返したのだった。

 田中鶴次郎を初めて見た時、どこかで会ったことがあるような気はしていた。けれども、記憶の中にそれらしい人物はなかったので、気のせいだと思っていた。あの老人の顔も、はっきり見たわけではないし、どこかが似ているとか同じものを身に着けているとか、そういうことでもない。そもそも、詳細な記憶も、残ってはいない。しかし、何故だかは分からないが、それが、田中鶴次郎だったに違いない、と確信した。

「最も小さな者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのだ」

 いつか教会で聞いた、そしてひょうたん食堂のパンフレットにも載せている聖書の一節が浮かんた。もしかすると、この田中鶴次郎という人物は、その言葉が示している「最も小さな者」であり、同時に聖書で言う「わたし」――つまりキリスト自身――に他ならないのではないか。仁志の頭の中に、そんな考えが渦巻いて、暫時、呆然と立ち尽くしてしまった。


 そんな仁志の中で起こっていることは知らないみどりは、夫の様子を怪訝な顔で見たが、すぐに気を取り直し、仁志を引っ張ってとりあえず、田中鶴次郎と思われる人影のところに、近寄ってみることにした。イメージだけを頭の中でもてあそんでいるよりも、現実の人物と話す方が、冷静になれるだろう。

 近寄っていくと、果たして田中鶴次郎に他ならない老人が、塗装もすっかり剥げて、表面がささくれてしまっている木製のベンチに、ふわりと座っていた。

「田中さん、ですよね」

 ほぼ毎日顔を合わせている相手に向かって、間近で「ですよね」と問う方もどうかしているが、他に声のかけようがなかった。田中鶴次郎はやはりふわりと振り向いて、

「お疲れ様です、社長、奥様」

 と極めて自然に、応じた。川面の方を見ていたが、仁志達にはとっくに気付いていたということだろうか。

「あの、今病院に行って、田中さんのお話をお聞きしてきたところです。なんというかその、大変やったんですね」

 とりあえず、何か言わないといけない。そう思った仁志は、我ながら気の利かない言葉だとは思ったが、他のフレーズを思いつけなかった。

「お手間をとらせてしまって、申し訳ありません。書類の方、作れそうでしょうか」

「おかげさまで、よく分かりました。こちらこそ、嫌なことを思い出させてしまうことになって、申し訳なかったです」

 みどりがやはり申し訳なさそうに言うと、老人の方はさらに小さくなって、

「昨日、瀬川さんと話しておられるのを聞いてしまったんですが、今日は社長と奥様の結婚記念日なんですね。私なんかのために、そんな大切な日を使わせてしまって本当に申し訳なく思っています」

 と深々と頭を下げた。確かに、いわゆるジューンブライドにあこがれていたみどりの希望で、6月に結婚式を挙げた。当然のことながらそんなことを仕事に持ち込むつもりも毛頭なく、たまたま千代とみどりのおしゃべりの中で話題になっただけのことである。それを大切な日、と受け取って恐縮している鶴次郎の繊細さに、別の驚きを禁じ得なかった。

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