第7話

 目的地に着いて駅を出ると、雲には大きな切れ目ができていて、そこから光が見えた。それほど長く曇りの日が続いていたわけではないのに、なんだか、久しぶりに眩しい太陽光を見たような気がした。その明るさが目に染みて、僕は顔をしかめた。


 七年ぶりに訪れたその街の印象は、僕の記憶にあるものとは、がらっと変わっていた。すでに木の葉が散り始めるような季節になっていた今の風景と、かつて見た、緑色の鮮やかな真夏の風景とは、大きく、色彩の印象が違った。けれど、街並み自体がそれほど大きく変わっているわけではなかったので、しばらく歩いているうちに、僕は次第に、あの日の感触を思い出し始めた。ほとんど忘れかけていた、道中で川野と交わした何気ない会話とか、彼女の仕草とか、あの日の午後の暑さの感覚とか、そういうものが、いくつも脳裏に過っていった。


 僕は、『踏切のある街』のスケッチをした場所を目指して歩いていた。その場所は、僕が降りた駅のすぐ近くだったため、十分もしないうちにそこに辿り着いてしまった。あまりにもあっさりと、辿り着いてしまった。


 あの日、僕たちが座っていたベンチは、当時と同じ場所で、ほとんどそのままに残っていた。多少塗装の色が薄くなっているような気はしたが、それ以外に違いは感じなかった。


 そのベンチの前で僕は立ち止まり、あたりを眺めた。数十メートルほど離れたところにある踏切、通りに植えられている木立。


 それらを眺めていると、胸の底で、なにかが疼いた。この場所で、川野の隣に座ってスケッチをしていた時の感覚が蘇ってくるような気配がしたのだ。しかしそれはあまりにも曖昧な感覚で、放っておけばすぐに掻き消えてしまいそうだった。僕は目を閉じて、その感覚に、意識を集中しようとした。


 そのときだった。突然、踏切の警報音が響き始めた。


 内面の深いところに向かっていた僕の意識が引き上げられ、反射的に、僕は目を開けて踏切の方へ視線を向けていた。夕暮れの光を浴びて、何人かの人が、遮断機の前で立ち止まっている。そのなかには一人の若い女性がいて、ふと、彼女に視線が引きつけられた。


 長い髪を薄く茶色に染め、白のロングスカートをはき、セーターを着ている。見覚えはない。しかしなぜか、彼女が纏っている雰囲気に、妙に引かれるものがあった。


 まさか、と直感的に思った。


 だがすぐに、首を小さく横に振った。バカなことを考えるな、自分の幻想を投影しているだけだと僕は自分に言い聞かせて、その思いをかき消そうとした。


 けれど僕は依然として、その女性の姿から目を離すことが出来なかった。


 しばらくすると、電車が大きな音を立てながらやってきた。そして踏切を通り過ぎ、遠ざかっていった。電車の姿や音が小さくなると踏切の音がふつりと途切れ、遮断機が上がった。


 彼女は、周りにいた数人の人たちと共に歩きだし、その姿が、夕方の赤く薄暗い街の奥に消えていった。


 僕は、しばらく、彼女が消えていった景色を眺めていた。そしてふと、さざ波のように、小さく胸が騒ぎ始めているのを感じた。先ほど曖昧に感じていたものに似た感覚だった。それが、どんどんと、大きくなってきている。


 最初、僕はその感覚の正体が何なのかわからず困惑した。けれどすぐに、それが絵を描きたくなるときにいつも感じていた感覚だと自覚した。そしてそのときには、僕はもうすでに近くにあったベンチに座って、荷物に入れていた紙と鉛筆を取り出していた。


 ほとんど無意識の行動だったが、自分がなにをしようとしているのかがわかってからも、僕はそれを止めようとはしなかった。秋の、沈みかけた太陽の赤い陽射しと、すぐそばに立っていた街灯の光のなかで、その衝動のままに手を動かし、風景の輪郭を紙になぞっていった。


 線が増え、絵が描き進められていくにつれて、胸の痺れはますます増幅していった。それはどこか深いところから湧きあがってくるもので、弱くなりそうな気配は全くなかった。それは、時間を忘れるほどの集中力を、僕にもたらした。


 とても懐かしい感覚だった。


 僕の前を通り過ぎていく人たちが物珍しそうに、僕自身と、僕が描いている絵をちらちらと見ていった。けれど僕はそれにまったく構わずに、線を描き続けた。自分のなかから湧き上がってくる力に身を任せて、絵に集中していた。


 ひたすらに線を重ね、気がつけば、一時間近くが経っていた。スケッチブックに描かれた絵を見ながら、僕は大きく息を吐いた。その呼吸の深さで、今までどれだけ自分がその作業に没頭していたかを実感した。そして、自分にまだこれほど創作に集中する力があったということに、驚いていた。すでに消耗し、そのほとんどが失われたものだとばかり思っていたのに。


 その時だった。


「上手ですね」


 そんな言葉が、僕の頭の上から降ってきた。


 顔を上げると、踏切の向こう側へ消えていった女性がそこに立っていた。先ほど見かけたときには持っていなかった何かの包みを腕に抱えているが、間違いなく彼女だ。


 古い街灯の光に照らされている、僕と同年代くらいのその人は、なにか懐かしいものを見るような、優しい顔をしていた。


 髪型も違う。化粧もしている。表情も、身にまとっている雰囲気も、僕の記憶のなかにある彼女のものよりも、ずっと大人びている。しかし、彼女が発した声は、僕の記憶を刺激した。僕は、その女性が、川野に似ていると思ってしまった。


 僕は混乱した。自分が空想の世界に入り込んでしまったかのように思えた。過去と妄想に囚われて、とうとう頭がおかしくなってしまったのかもしれないとも思った。あるいは、また、妄想みたいな夢を見ているか。


 けれど、「夢なら夢でかまわないじゃないか」と思った。どうせ夢ならすぐに覚める。今までずっとそうだったように。


 僕は一度、冷たい空気を吸って、動揺した気持ちを落ち着かせようとした。空気が肺に入っていくひやりとした感覚が心地よかった。


 僕は、いくつもの感情が混ざり合った息をひとつだけ小さく吐いた。それから、彼女を見ながら言った。


「中学生の頃、同じクラスの女の子とこの街に来たことがあるんです。ちょうど、ここに座って、ここから見える風景を描いていました。その時のことを最近よく思い出していて――。それで、ふと思い立って久しぶりに来てみたら、なんだかまた、絵に描きたくなったんです」


 僕の言葉に、彼女は口を小さく開けて、驚いたような表情を浮かべた。彼女は何かを言おうとしているように見えた。けれど、また突然、甲高い踏切の音が響き始めた。


 彼女は、その大きな音にびくりと反応し、踏切の方へ顔を向けた。それから、再び僕の方に視線を向け、微笑みを浮かべて、少しだけ開いたままだった口を閉じた。


 僕も踏切を見た。夕方の薄暗さのなかで赤みを帯びた光を浴びる遮断機や警報機、足止めをくっている人々、赤や茶の深い色の木の葉と木立、その向こうに見える、夜の色に近い紺色の空……。十四歳の夏に見た景色の色彩とは違う。しかし、今僕の前の広がっている景色も、強く、僕の胸を痺れさせた。


 僕は、また手元に視線を落とした。描き上げたばかりの絵が、そこにある。そしてその時、


『君はきっと、またあのときみたいに絵を描きたいんだね』


 意識の底から、夢の世界からの響きのように、そんな言葉が、川野の声で響いてきた。


 踏切の音が響くなか、そうだよ、と僕は、小さな声で言った。


 たったそれだけのことなのに、それがずっと、ひどく難しかったんだ。


 単調なリズムの踏切の警報音が、甲高く響き続けている。彼女はまだ立ち去らず、踏切の方を見つめ続けている。


 そんな彼女の横顔を見ていると、十四歳の頃に言えなかった言葉たちが、いくつもいくつも、頭のなかに浮かんできた。


 もし、この人がかつてこの場所に僕を連れてきてくれたあの女の子だったとしたら、と僕は思った。


 今度こそ、あの時に言えなかった言葉も、その後で言いたかった言葉も、伝えよう。


 そう思いながら、僕は踏切の音が鳴り止むのを待った。

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踏切のある街 久遠侑 @y_kudo

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