第6話

 ☆ ☆ ☆


 大学から自宅に戻ると、僕はノートパソコンを開き、メールの受信トレイを開いた。新着のメールに、人材紹介会社が主催する模擬面接セミナーの予定についてのメールが届いていた。


 特に関心のあったものではない。けれど、就職活動が本格的に始まりつつあるタイミングで、なんとなく周りの空気に流されて応募したものだった。


 僕はぼんやりと、予定されている日時と場所を確認して、そのままメールの最後の方に載っていた『これだけは覚えておきたい面接のコツ』と書かれているリンク先にアクセスした。


 そこには、面接のノウハウがまとめられた記事があり、面接官に好印象を与える笑顔の作り方や話し方、よく聞かれる質問とそれへの回答例などが、装飾的に添えられている爽やかなスーツ姿の女性の写真とともに記述されていた。


 上から順に目を通して行こうとしたものの、それらのポイントはあまりに細かく(おじぎの角度やらノックの回数やらネクタイの色やら声の張り方やら)、また全体的にも欺瞞的な態度を推奨しているように感じ、だんだんと苛立ちが募ってきて、最後にはバカバカしくなって読むのをやめた。


 僕はブラウザを閉じた。


 なんで、こんなものに応募してしまったのだろう。


 なんとなく自己嫌悪の感情が芽生えてきて、深いため息が出た。


 そしてふと、今みたいなあやふやな状態で生きていたら、この先もこんなことの連続になってしまうのではないか、と感じた。意味も価値も見出すことが出来なさそうな物事に神経を使い、今よりもさらに深く決定的に、何かを損なってしまうのではないか。そんな気がし、ひどく憂鬱な思いがした。


 そして、重苦しく自分の内側に向かっていく思考は、こういうときには常にそうであるように、『もしあの時、僕が川野に、自分の描いた絵を見せていたら』という思いに行き着く。


 頭では、もちろんわかっている。


 そんなことは、夢想的すぎる考えだ、と。現実は、ほとんどの場合おいてひどく味気のないものだ。一瞬にして人生を変えてくれるような出来事が用意されていることなんて滅多にない。


 自分が青春を失いつつあるということから来る感傷が、そんなことを考えさせているだけだ。


 僕は自分にそう言い聞かせた。気分を変えたかった。しかし、この喪失感と憂鬱は、なかなか去ってくれそうになかった。


 重いため息を吐いて、首を回した。すると、壁際に立てかけられている、大学生になってから一枚だけ描いた絵が視界に入った。


 ひどい退屈と停滞感に満ちた二十歳の夏休みに、雑誌か何かで見た若手の画家の作品に刺激されて描き始めた絵だった。絵から離れても、どこかに残り続けていた焦燥感と、ほのかな対抗心のようなものに駆られながら、その時の僕は、自分の感覚を試すように、思い浮かんだ色彩と形状を描いていった。


 久しぶりに絵筆を握ってみたものの、充実感も、あるいは、何かの回復の兆候のようなものも、見出すことができなかった。むしろ、自分が確かに消耗してしまっているということを、改めて思い知らされただけだった。残り少なくなっていた自分の創作のエネルギーを、どうにかして絞り出していく。そんなふうにして、僕はこの絵を描いた。描き上げたときに感じたのは、充実感ではなく、疲労感だった。


 それから今日までの大学生活で、僕は一度も絵を描かなかった。描こうともしなかった。ただ大学の講義を聞き、本を読み、いくつかのアルバイトをして過ごしてきた。


 それは楽だったし、それなりに楽しい瞬間もあるにはあった。けれど、満たされるような感覚も、何かに向かって進んでいるという感覚も味わうことはなかった。


 思い返せば、十代後半から今までの時間は、まったく無為に過ぎてしまったような気もする。


 そう考えると、さらに気分は落ち込んだ。僕は再び、大きく息を吸い込んだ。どれだけ空気を吸っても、どこか息苦しさが残るような気分だった。


 僕は部屋の明かりを消し、ベッドに横になった。寝るには早い時間だったが、何かをする気力が失われていた。窓の外の明るさが、微かにカーテンを透かしている。僕はそのわずかな光のなかで天井を見つめていた。


 ☆ ☆ ☆


 まどろんでいるうちにいつの間にか夢を見ていた。


 踏切が近くにある場所に僕はいて、ベンチに座わり、遮断機の上がっている踏切とその周りの風景を描いていた。そばには川野もいた。十四歳のころの彼女だった。白いTシャツを着て、茶色のショートパンツをはいている。肩まで届くくらいの長さの髪が風に揺れていて、何かに興味を示しているような微笑を浮かべていた。


「ねえ、何を描いてるの?」


 川野が、横から僕に訊ねてきた。


「絵を描くのは、もう辞めたんじゃなかったの?」


 焦燥を感じながらも絵に意識を集中していた僕はその言葉で我に返って、一度手をとめた。手元から顔を上げて、彼女の方を見た。川野は、不思議そうな顔をしていた。


 僕はすぐに答えを返すことが出来なかった。言葉が思い浮かばなかったのではなく、瞬時に様々な感情と言葉が湧きあがってきて、一体何から説明したらいいのかわからなくなってしまったのだった。


 僕は、自分の内側で混沌としながら漂っている言葉にし辛いものをなんとか言葉にしようと考えたあとで、言った。


「自分の目の前に広がっている世界が色あせていくように感じてしまうことが、最近増えてきたんだ」


 川野は少し首を傾げた。無言だったけれど、視線で続きを促していた。僕はまた言葉を探しながら話した。


「そういうとき、無性に自分の感覚を確認したくなるんだ。自分にはまだ美しいものを見つける力が残っているのかどうかとか、それを描けるかどうかとか……」


 彼女は、考え込んでいるような表情のまま、そうなんだ、とだけ、ぽつりと言った。納得したのかどうかはわからなかったけれど、それ以上、彼女は問いを発しなかった。


 僕は、再び絵に向かった。その踏切の近くの景色を、焦燥感とともに、スケッチブックに描き続けた。しかしどれだけ描いてもその焦燥感は募り続け、僕はやがて息継ぎをするように手を止めて、顔を上げた。


 そのとき、


「君はきっと……」


 と、川野が独り言のように言った。


 僕は反射的に注意を彼女に向けた。するとその直後に、踏切の警報音が響いてきた。その大きく甲高い音はあたりを覆い、僕たちのまわりの言葉や音をかき消していった。


 ――そうだ、と、その音を聞いたとき、唐突に僕は気がついた。その瞬間、狭いところに閉じ込められていた意識が急に広がって、俯瞰性を持ちはじめた。


 ――夢のなかで響き始めたこの踏切の音で、今朝、僕は目を覚ましたのだった。


 これは夢なのだと気がつくと、瞬く間に夢の情景は薄れて消えていった。そして、意識は夢の世界から現実に戻ってきた。僕は瞼を開け、身体を起こした。ひどく静かで暗い、時間の見当もつかない深い夜だった。


 目覚めた直後で、現実感がまだあまりない。夢の世界とこの現実の世界が、なんだかまだすぐ近くにあるような気がした。僕は見ていた夢の情景を思い起こした。


『君はきっと……』


 何かを言いかけた川野の声が頭をよぎる。あの先に彼女は何を言おうとしたのだろう、と僕は思った。


 しかし、考えるまでもないことだった。それは、僕が押し殺していた言葉だ。それがきっと、僕の見る夢のなかで、彼女の姿と声を借りて出てこようとしたのだ。


 きっともうずっと前から、僕の心の深いところに、その言葉はあった。でも僕は、いつもそれらを抑圧し、目を逸らそうとしていた。


 いつのまにか、僕はひどく深く、自分の内面に意識を集中してしまっていた。いろいろなことが頭に浮かんでは消えていった。


 どれくらい、時間が経っていたのだろう。ふと、僕は瞬間的にある計画を思いついた。それには、自分の内側の深いところから湧き上がってくるような衝動が伴っていた。


 僕のなかの理性的な部分では、その思いつきは、あまりにも無意味で馬鹿げたことだと思えた。しかし僕にはもう、自分がそれを実行しているイメージしか、持つことが出来なくなっていた。


 ☆ ☆ ☆


 次の日、昼過ぎの電車に乗って、僕は十四歳の夏に彼女と訪れた街を目指した。


 雲はまだ空に居残っていて、この日も朝から薄暗かった。空気も冷えていたので、僕はニットの上に、薄手のコートを羽織って出掛けた。


 平日の午後だったから乗客はそれほど多くなく、余裕を持って座席に座ることが出来た。窓の外に見える景色は灰色だ。曇り空も、立ち並ぶコンクリートの建物も、同じような灰色をしていた。


 電車に乗ったとき、ふと我に返るような思いで「僕は一体何をやっているのだろう」と思った。


 今やっていることは、人には説明しづらい、ひどく個人的で変な行動だ。


 電車に揺られながら、僕はしばらく、なぜ今自分がこんなことをしているのかについて考えてみた。しかし結局、それらはうまく言葉にはできなかった。合理的な説明の出来ることじゃない、ただの衝動だった。


 僕は、電車の窓の向こうの、灰色の目立つ、色彩の乏しい曇りの日の景色を見つめていた。上空は厚い雲に覆われていたけれど、遠くの空には明るさがあった。電車がいくつもの街を通り過ぎていくにつれて、次第に僕はその晴れた空の下に近づいていった。

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