第5話

 スケッチを描き終えて、「大体出来たよ」と僕が言うと、「ほんと?」と川野は嬉しそうに反応した。


「うん。こんな感じ」


 僕は、スケッチブックを川野に手渡した。彼女はそれを、にこにこしながらじっくりと眺めていた。


 彼女が絵を見ている間、僕は描いた場所の写真をスマートフォンで何枚か撮っておいた。充分に綺麗に映っているとは思ったけれど、その写真に見える景色は、どうしてか、肉眼で見ているものよりも、あるいは僕が鉛筆でスケッチしたものよりも、味気なく見えた。


 やがて、ありがとう、と言って川野が僕にスケッチブックを渡してきた。僕はそれを受け取り、リュックに仕舞って、椅子に座り直した。それから、僕は彼女にお礼を言った。とても楽しい一日だったから、その言葉はとても自然に出てきた。


「今日はありがとう。楽しかった」


「うん。なら、よかった」


 彼女は頷いて、穏やかな笑みを浮かべながら、そう答えた。


 もうそろそろ、五時になろうとしている。この日の予定は、もう終えた。今日はたくさん歩いて、足も疲れていた。きっと川野も疲れているだろう。けれど、僕はなかなか帰ることを切り出せなかった。会話は途切れ、沈黙が降りた。何も話さないままに、時間が流れていった。


 僕は、僕と川野の影を見ていた。そのまま地面に固着してしまいそうだと感じるほど濃い影だった。どれほどの時間、僕たちは黙っていたのだろう。いつの間にか、西日に赤色が混ざりはじめてきていた。


 ふいに、「ねえ」と、川野が言った。


 その声に僕は顔を上げて、彼女の方を見た。彼女も僕のほうを見ていたから、僕たちはとても近い距離で顔を見合わせることになってしまった。


「なに?」


 僕が尋ねると、彼女は「えっと」と口ごもった。そのときの彼女の表情には、どうしてか、強い緊張や不安が漂っていた。そんな彼女を見ていると、僕の方まで何か胸がどきどきしてきて、不安な気持ちになってしまった。


 その不思議な感情に戸惑っていると、唐突に、踏切の警報機の甲高い音が響き始めた。


 その音に、彼女は驚いたように踏切の方へ視線を向けた。そしてそのあとで苦笑して、小さく首を振った。それから弱く吹いていた風を吸い込むように深く息を吸い、言った。


「なんでもない、ごめんね」


 そのすぐあとで、大きな音を立てて、電車が踏切を通過していった。少しして音とともに電車が遠ざかっていくと、踏切の音も止み、再びあたりが静かになった。


 それからまた彼女は言葉を続けた。


「岸本君のさっきのスケッチなんだけど。これから絵を塗ったりして、ひとつの作品として仕上げたりするのかな」


 そう言ったときの彼女は、表情も、発している雰囲気も、いつのも彼女のものに戻っていた。


「うん。そのつもりだけど」と、僕は答えた。


「そう。それならいいの。きっと、すごくいい絵になるよ」


 そう川野は言った。どうしてかとても嬉しそうな表情をしていた。それから、彼女は自分のスマートフォンを見た。そして、それをすぐにまたポケットに仕舞いながら、


「もうそろそろ帰らないと。家に着くの、遅くなっちゃうよ」


 と、柔らかな笑みを浮かべながら言った。斜めに差していた西日で、彼女の黒い髪の輪郭は金色に光って見え、顔には深い陰影が出来ていた。


「そうだね」と、僕も頷いた。


 僕たちはベンチから立ち上がり、ゆっくりと、近くの駅に向かって歩いた。草木も、建物も、人も、すべてが赤みを帯びた夕陽を浴びて、優しい色合いに染まっていた。はじめて訪れた街なのに、その風景はなぜか懐かしいような感じがして、僕は家に帰っていくことを切なく感じた。


 最後に駅の改札口で川野と別れの挨拶を交わし、僕はひとり電車に乗って、自分が住む街まで帰った。電車に乗っている間に、空の濃い赤色は徐々にその明るさを失っていき、夜の暗さが、窓の外を覆い始めていった。


 僕は車両の隅の席に座り、弱くなっていく夕陽に染められた街並みを、窓越しに眺めていた。その間ずっと、この日川野と過ごした時間と見た景色が、例の胸の奥が痺れてくるような感覚とともに、頭に浮かび続けていた。


 僕はそれから、川野と見た景色を絵に描くことに残りの夏休みの時間を費やした。

 夏期講習以外の時間、僕はずっと自室で絵を描いていた。その間、これまで経験したことがないくらいに深く、僕は絵を描く作業に意識を集中していた。


 八月の末近くになって絵が完成すると、僕はそれに『踏切のある街』というタイトルをつけた。そしてそれを、夏休みが終わるまでの数日間、部屋のなかに飾り、八月三十一日の夜に、押し入れのなかにそっと仕舞った。


 どうしてその絵を仕舞ったのかは、未だにうまく整理して考えることができない。ただ、そうするべきだという感じがしたのだ。もしかしたら、その夏休みの記憶とともに、僕はその絵を閉じこめておきたかったのかもしれない。


 とにかく、その絵を仕舞ったときに感じていたのは、その夏が終わってしまうことに対してのいくぶんの切なさと、それから、とても深い、達成感のような感覚だった。


 その絵が完成したとき、僕は何かを達成した、という感覚を覚えた。もちろん、中学生が描いた絵だから、技術的には拙い。ひとつの絵画作品としての完成度はお世辞にも高いとは言えない。けれど、その『踏切のある街』に、僕は自分のなかの何かを宿すことが出来たという感覚があった。


 あれから今に至るまで、絵を描くときにあの時ほど深い集中力と満足感を得たことはなかったし、あそこまで強く純粋に何かを描きたいという衝動を覚えたこともなかった。


 ☆ ☆ ☆


『踏切のある街』は、今までのところ、僕以外の誰にも見せたことがない。その風景のある場所まで僕を連れて行ってくれた川野にもだ。書いているときは、完成したら彼女に見せようと思っていた。けれど、その機会は訪れなかった。


 奇妙なことに、夏が終わって二学期が始まってからは、僕たちの関係自体が変わってしまっていたのだ。


 始業式の日に、久しぶりに顔を合したとき、もうすでに、僕たちの間には、妙なぎこちなさがあった。


 言葉を交わしても、不自然な間が出来たり、うまく話題が広がらなかったりした。沈黙の間、僕は気恥ずかしさや焦りのようなものを感じ続けていた。


 どうして会話の感覚がつかめないのだろう、と僕は奇妙に思った。お盆頃に会ったときだって、二、三週間ほどの間隔があってからの再会だったのに、あの時には、こんなふうに上手く言葉が出てこないなんていうことはなかった。


 時間が経っても、その緊張感がとれることはなかった。むしろ、日を経るごとに僕はひどく強く彼女を意識してしまって、さらに不自然な緊張感は増していった。彼女の方からも、僕と同じようなぎこちなさを感じた。


 どうしてなのか、そしてそれにどう対応すればいいのか、その時の僕にはわからなかった。以前のように川野と話したかったのに、どうしても、その気まずさや緊張は取れなかった。


 そうこうしているうちにすぐに一週間ほどが経ってしまい、学期の初め頃に行われていた席替えによって僕と川野の席は離れた。そして、まったく言葉を交わさない日々が、どんどんと過ぎていった。夏が遠ざかっていくにつれて、僕と川野が親しくしていた二ヵ月ほどの感覚は、急速に薄れてきてしまった。美術の時間中に彼女と並んで絵を描いていたこととか、鎌倉に連れて行ったもらった日のこととか、そういうつい最近確かにあったはずのことを、不思議なほど遠い過去のことのように感じるようになってしまっていた。


 けれど、冬の初め頃、一度だけ川野と二人で言葉を交わしたことがあった。提出物を出しに職員室まで行ったときに、廊下でばったりと川野と出くわしたのだった。


 あたりにひとけはほとんどなかった。遠くに数人の生徒が見えるだけで、とても静かで、久しぶりに僕たちは二人だけで向き合った。


 あ、と川野は僕に気づくと言った。僕も、二学期になってから感じ始めた緊張のようなものを覚えながらも、小さく会釈をした。


 沈黙のなか、遠くから部活をしている生徒たちの掛け声が聞こえてきていた。何か話さなきゃ、と思って言葉を探していると、ふいに川野が、


「あの絵、完成した?」と、僕に訊ねてきた。


 久しぶりの彼女との会話で、僕は咄嗟にうまく返事をすることが出来なかった。少し間が空いたあと、やっとのことで、「うん。出来たよ」とだけ、僕は答えた。


 しかし、それに言葉を続けることは出来なかった。


 僕はあのとき、『今度見せるよ』とでも、彼女に言うべきだったのだろうと思う。しかし、気恥ずかしさや、胸の底の方から湧き起こってくる正体のわからない不安のようなものが邪魔して、たったそれだけの言葉が、出て来なかった。


 僕がそれきり黙っていると、


「よかった」


 と、川野は言った。そう言ったときの彼女の顔には、安心したような、それから少し寂しそうな笑みが浮かんでいた。 


 そして、数秒ほどの沈黙のあとで、彼女は、「じゃあ、またね」と言い残して、踵を返してしまった。


 今思えば、僕はあのとき、彼女に『踏切のある街』を見せることを恐れていたのだと思う。


 その絵にはあまりにも大切な何かが宿ってしまっていて、作品に対する彼女の反応が怖かったのだ。もし彼女が、僕が期待しているような反応をしてくれなかったら、自分がその絵に込めた大切な何かが傷ついてしまうのではないかと思ったのだろうと思う。


 あの時は、自分が描いた絵にそんな気持ちを持つことが初めてだったから、今のようにその感情を分析することも、それをどう扱い、どう自分の中で整理するかなんてことを考えることも、全くできていなかった。ただ、得体の知れない不安感に戸惑っていただけだった。


 あの別れ際の川野の寂し気な笑みは、それからことあるごとに僕の脳裏によみがえり、僕はそのたびに、当時の自分の対応を後悔することになった。


 そして、その後悔の気持ちとともに、僕は本当には、川野にあの絵を見てもらいたかったんだと、強く思った。


 もしあそこで川野に絵を見せていたら、それから今までの僕の人生はまた別なものになったんじゃないか、とまで思うことがある。


『踏切のある街』を見て喜んでくれている彼女の姿が、胸の痛みとともに頭にちらつくことも、たまにあった。そんな気持ちや想像が、たぶん、今日の朝のような夢を未だに見る原因になっているのかもしれない。


 ☆ ☆ ☆


 川野と二人きりで言葉を交わしたのは、結局その中学二年生の秋が最後だった。三年のときには僕たちは別のクラスになり、学校内で見かけることすらもほとんどなくなった。


 卒業が近づいてきたときに噂で耳に入ってきた川野の進学先は、僕とは別の高校だった。


 そのことを知ったとき、僕は自分でも驚くほどに深い寂しさを感じた。このまま別れていいのだろうか、という気持ちが強く芽生えた。


 しかし、だからと言って、その時の僕にはどうすることもできなかった。今さら川野にまた近づいていくための上手い方法なんて何も思いつかなかったし、その度胸もなかった。そもそも、何をどうしたかったのかすら、わからなかった。だから結局、中学の卒業式の日が、僕が川野を目にした最後の日になった。


 僕が感じていた寂しさは深く、二週間ほどの春休みを経ても、消えることも弱まることもなかった。僕はその気持ちを抱えたまま高校に入学し、そして美術部に入って、本格的に絵を描き始めた。そのとき、もう絵を描くことは僕にとって特別な行為になっていたし、『踏切のある街』を描いたときのような充実感をまた味わいたいという、ほとんど渇望のような、強い気持ちもあった。


 放課後の時間のほとんどで、僕は絵を描いていた。他に、興味をそそられることもなかったし、恋愛をすることもなかった。毎日、僕はキャンバスに向かった。多くの作品を、その三年間で描き上げた。技術的な進歩もあり、何度か賞に入選することもあった。けれど、十四歳の夏に味わったものを超える手ごたえを感じたことは一度もなかった。


 高校卒業後の進路に、僕は芸術を専門とする大学・学部を選ばなかった。その理由は本当にいろいろとあるけれど、一言で言えば、絵を描くことに疲労し、消耗している自分に気がついたからだった。自分のなかにある創作のエネルギーの多くを使い果たしてしまっているような気がしたのだ。この先の大学生活で、あるいは人生で、これまでと同じように、同じような情熱で、絵を描き続けている自分を、うまく想像できなかった。要するに、描きたいという気持ちが自分のなかで弱まっているのを感じたのだ。


 高校に入学したころにあった強い気持ちは、進路選択を目の前にした時期には、もうかなり、弱くなってきてしまっていた。


 その感覚は、悲しいものだった。けれど、自分の気持ちと努力でどうにかできる類いのものでもなかった。だから、もし、また描きたいときが来れば描けばいいと、自分に言い聞かせて、僕はしばらくの間、絵筆を手放すことにした。


 そして、その時から今に至るまで、僕は例の一枚の抽象画以外には、絵を描いてはいない。

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