第4話


 予定通りの時刻に、僕たちは目的地の駅にたどりついた。


 昼時に差し掛かっていて、太陽は高くのぼり、気温もかなり上がっていた。冷房の効いていた電車から出た瞬間、外の空気をひどく蒸し暑く感じた。


 このあとは、まず三人で一緒にお昼ご飯を食べて、それからバスで二人が泊まることになる親戚の人の家のまで由美ちゃんを送っていく。そのあとで、僕は川野に鎌倉の市内と、彼女が絵に描いた場所を案内してもらう、という予定になっていた。


 駅を出て、すぐ近くにあったファミレスに入った。僕たちはそれぞれ五百円くらいの料理と、大きなフライドポテトを一皿注文して、それを食べた。


 最初は僕の事を警戒していたようだった由美ちゃんも、この頃には少しずつ打ち解け初めてきてくれていて、僕に対しても、いろいろなことを話してくれた。


 食事を終えてから、僕たちはバスに乗った。二人掛けの席が二つ、前後に並んで空いていたので、川野と由美ちゃんが並んで座り、僕がその後ろの席に座った。僕は、時折バスの走行音やアナウンスの声に交って聞こえてくる二人の会話を聞きながら、はじめて来た街の風景を眺めていた。


 十分ほどすると、川野が僕の方を振り向いて「降りるよ」と言った。住宅街のなかにあるバス停だった。あたりには家々が密集して並んでいる。僕たちの地元にもよくあるような通りで――というか、日本の住宅地はたぶんどこもこんな感じなんだろう――、その感じはとてもよく似ていた。僕はその街の通りに、既視感と新鮮さが混じった、不思議な感覚を覚えていた。


 住宅街を歩いて数分、やがて二人の足が止まった。どうやら、親戚の人の家に着いたようだった。由美ちゃんは川野と二言三言、言葉を交わし、それから僕に視線を向けて、「じゃあね」と、彼女は小さく手を振った。


「うん。じゃあね」と、僕は手を小さく上げて返事を返した。それから、由美ちゃんは僕たちのすぐそばにあった一軒の庭先に、たたたっと走っていった。


 その姿を見ていた川野は視線を僕の方へ戻して言った。


「じゃあ、行こうか」


 うん、と僕は頷いた。


 そうして、僕たちは二人だけで歩き始めた。空には雲一つなく、ますます強くなってきたように感じる陽射しが、街に降り注いでいた。通り過ぎる家の庭に生えている木の緑や、プランターに咲いている花は、陽光を気持ちよさそうに浴びていた。取り立てて珍しい光景では全くないけれど、その時の僕には、それらの色の輝きが美しく見えた。知らない景色に包まれて、五感の感度が、普段よりも高くなってきているような感じもしていた。


「退屈じゃない?」


 ふと、歩きながら、彼女は僕に訊ねてきた。


「うん。全然。なんで?」


「このあたりは、わたしたちの地元と、そこまで違った街並みってわけでもないから」


「確かにそうだけど……。でも、頭がはっきりしてくるような感じがするよ」


 すると「なにそれ」と、彼女は言って小さく笑った。


「なんか新鮮で、気持ちいい感じ。この辺りに住む人たちにとっては、なんでもない景色なんだろうけど」


「そっか。ならよかった」


 彼女はなぜか満足そうに言って、小さく頷いた。それから、続けて尋ねてきた。


「岸本君は、昔から絵を描くのが好きだったの?」


 うん、と僕は言った。


「それで、習い事をさせたがってた親が見つけてきた絵画教室に小学生一年生の頃から通ってたんだ。もう辞めちゃったけど、そこで過ごしてる時間は結構好きだったな」


「普段も絵を描いたりしているの?」


「最近は、あんまり。でもたまに、とても描きたくなるときがあって、そういうときは、集中してずっと描いてる」


「描きたくなるとき?」


 僕は頷いた。


「なんていうか、胸の奥が痺れてくるようなときがあって。なんでそういう気持ちになるのかは自分でもよくわからないんだけど、たまに、何でもない景色が普段とは違って見えるときがあるんだ。そういうときにすごく絵が描きたくなる」


 ふうん、と彼女は、何かとても興味深そうに、ニコニコしながら相槌を打った。


 いつの間にかまたひどく個人的ことを話してしまっていたと、僕はふと思った。なんだか恥ずかしくなってきて、「なに?」と僕は、話題を逸らすように、多少冗談めいた口調で言った。


「なんでもないよ」と、彼女は悪戯っぽく言った。


 そんなふうにしているうちに、僕は少しずつ川野と二人で知らない街にいるという状況に慣れてきた。意識してしまって会話が不自然になってしまうことはなかったし、多少話が途切れても、その沈黙が気になることはなかった。


 やがて僕たちは鎌倉駅の前を通り、大きな赤い鳥居を抜けて小町通りを歩いて行った。そこは賑やかな商店街で、いろいろ店が並んでいた。僕たちは、川野が教えてくれた店で、いくつかの手頃な値段のお菓子を買って食べた。


 僕と川野は鎌倉市内を歩きながら、いろいろな話をした。


 学校のことやそれぞれの家のこと、僕たちが住んでいる街のこととか、そういうどうでもいいような話題ばかりだったけれど、楽しかった。


 地元からは、電車でたった二時間ほどの距離しか離れていないのに、それでも、いつもの日常から遠く離れているような感覚があった。そして、不思議なことに、知らない街で一緒にいる川野は、学校で隣り合って座っているときよりもずっと、身近に感じられた。


 数時間かけていくつかの寺院や公園を訪れたあと、僕たちは線路沿いの道を歩いた。まだまだ空は明るかったけれど、午後の四時を過ぎて、少しずつ陽が落ちてきていた。ほんのわずかにだけれど、一日の終わりの気配が西日に漂い始めていた。


 この日は、時間の進み方の感覚が普段とは違った。いつもよりもずっと濃密で、ぎゅっと凝縮されているような時間だった。一日をとても長く感じていた小さな子供のころの感覚に、それは似ていた。


 僕たちは、例の川野が絵に描いた場所を目指していた。今日の最後の目的地だ。そこへ行ったあとの予定はもうない。川野は親戚の家へ行き、僕は電車に乗って地元の街へ戻っていく。


 その道を歩いている間、僕たちの口数は減っていた。僕たちはただ歩調を合わせて、彼女が絵に描いた場所に向かっていた。アスファルトの舗道には、木々や電柱の影に混ざって、僕たちの二つの影も、道路に伸びていた。


 やがて、川野は立ち止まって言った。


「ここだよ」


 数十メートル先に踏切の見える、周囲に並ぶ木立の緑色がとても鮮やかな通りだった。僕も、その場所で立ち止まった。彼女が美術の時間に描いていた風景が目の前に広がっていた。


「どう?」と川野は首を傾げるようにして尋ねた。


「たしかに、描きたくなる景色かも」


 頷いて、僕はあたりを見渡した。小さな踏切、濃い緑色の葉を茂らせた木々と木漏れ日、輪郭の曖昧な影、黄色の目立つ遮断機と警報機……。


 そして、その風景を見ているうちに、胸の奥が痺れるような感覚が、少しずつ湧きあがってきた。絵を描きたくなるときにいつも感じる、例の感覚だ。


 近くに、ちょうど木陰に入っている青く塗装された小さなベンチがあった。僕はそこに腰かけて、背負っていたリュックからスケッチブックと鉛筆を取り出した。それから、その景色を描き始めた。


 川野も僕の横に座った。僕が絵を描いている間、彼女はペットボトルに入った飲みものを飲みながら、僕の手元を眺めていた。


 ひどく暑い日だったけれど、意外なほど木陰は涼しく感じ、吹き抜けていく風も気持ちが良かった。風が流れていくのを身体で感じながら、僕はその風景を木漏れ日が揺れている紙の上に描きとめていった。


 僕も川野も、しばらくは無言のままに時間を過ごしていた。けれどあるときふと、


「才能あるよ、岸本君」


 と川野が言った。顔を上げると、彼女は膝の上で飲み物を持ちながら、少し身を乗り出すようにして僕の手元に視線をやっていた。


「いや。大げさすぎ」


 僕は手をとめて、苦笑しながら答えた。


「あるって」


「僕よりも絵が上手い人はたくさんいるよ」


「そうかもしれないけど。でも、きっとあるよ」


 川野は楽しそうな微笑みを浮かべながらそう言って、姿勢を戻した。自分に絵の才能があるかどうか(言い換えれば、自分が特別な人間かどうか)なんていうことを考えるのは、当時、絵に対する思い入れがまだそれほど強くはなかった僕にとっても、少なくない重みを感じることだったけれど、川野のその気楽な――軽やかな言い方は、なぜかとても心地よかった。そうだったらいいな、と、素直で、こだわりがなくて、楽しげな感覚で、僕は思った。


 僕はまた作業に戻り、線を重ねていった。その後も彼女は僕の隣に座って飲み物を飲んだり、僕の手元を覗いたり、僕が描いている風景を眺めたりしていた。


 そのとき、僕ははじめて自分が絵を描ける人間でよかったと感じていた。少なくとも、その技術を多少なりとも持っていてよかったと思った。僕よりも上手い人がいるとか、才能のある人がいるとか、そんなことは全く関係がなかった。ただ自分のなかの深いところから湧いてくる充実感とともに、僕はその風景をなぞっていった。

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