第3話

 一学期最後の美術の授業があった日は、梅雨が明けたばかりで猛烈な暑さだった。開け放たれた窓から時折風が入ってきてはいたけれど、四十人ほどの生徒が作業をしている教室は蒸し暑く、僕たちは汗を流しながら作業をしていた。


「こんな感じかなぁ」


 川野の声が聞こえた。彼女は、自分が描いた絵を点検するように眺めていた。はじめて言葉を交わした時のものよりも、ずいぶんと生き生きとした印象の作品になっていた。少なくとも僕はそう感じた。彼女が描き写そうとしていた風景が持っている爽やかな印象が、その絵にもちゃんと宿っているように思った。


「いい絵だね」と僕は言った。


「ありがとう。いろいろ教えてくれたから助かったよ」と、彼女は言った。


 ううん、と僕は首を横に振った。僕はただ、自分の感想みたいなことを伝えただけで、その絵を描き上げたのは川野自身だ。


 川野の横で絵を描く時間はこれでもう終わりなんだな、と僕はふと思った。二学期の始めには席替えがある。美術の課題も変わるだろう。そのことに、僕は残念なような、寂しいような気持ちを、仄かに感じた。


 学期末は慌ただしく過ぎていき、夏休みが始まった。僕は週に何度か近所の塾の夏期講習に通うこと以外、その長い休みでやるべきことは特になかった。夏期講習の授業は大体が午前中までで、僕はその後の長い午後を、自分の部屋でただ本を読んで過ごしていた。


 毎日同じような日々が続き、二週間も経つ頃には、早くも僕は休みに飽き飽きとしていた。一日一日は長く感じたが、しかし何日かが過ぎたあとでまとめて振り返ってみれば、それらの時間は、ひどく短く感じた。退屈で、刺激に乏しい毎日だった。ただ淡々と、何も面白いことはないままに、夏休みの日々は過ぎていった。


 しかしお盆の終わり頃に、その後の僕の数年間に大きな影響を与えることになる出来事が起こった。


 はじまりは、地元の街で、ばったりと川野に会ったことだった。


 僕はふと気が向いて、昼下がりに書店に行ったところだった。そこは僕の地元では最も大きな書店だった。四階建ての建物で、小説も雑誌も専門書も、様々な種類の本が揃っている。僕はそこで三十分ほどかけて小説を二冊選び、レジに向かおうとしたところだった。


 彼女は僕とすれ違う方向から歩いてきた。その顔を見て、川野だ、と思ったときには、彼女も僕の方に視線を向けていた。


「岸本君」


 目が合うと、川野は僕に声をかけてきた。彼女は水色のTシャツに白色のスカートをはいていた。穏やかに晴れた空のような色合いの服装だった。


「久しぶり」と僕も会釈をして言った。


 彼女のそばには、十歳くらいの女の子がいた。髪型は川野よりも短いけれど、顔はよく似ていた。女の子は、なんだか興味深そうに僕の方を見ていた。


「妹?」


 尋ねると、「そうだよ」と川野は言った。


「由美っていうの。今三年生」


「こんにちは」と、その子は少し緊張したような声音で言った。その様子を見て、僕は小学三年生くらいの頃、中学生はとても大人に見えていたことを思い出した。怖がらせないように、丁寧な口調で、僕も挨拶を返した。


 川野は小説作品を手に持ち、妹はハードカバーの本を一冊持っていた。二人は、一緒に読書感想文の本を選びに来ていたところだったらしい。


「岸本君も読書感想文の本を買いにきたの?」


「いや。ちょうど読む本がなくなってたから」


「本も読むんだ」と、興味深そうに川野は言った。


「うん。暇なときには、わりと。文庫本なら安いし」


「ふうん」


「どうして?」


「ううん。何となくそんな気がしてたから。やっぱり、って思ってた」


 どこかいたずらっぽい調子で、彼女はそう答えた。


 僕たちは一緒にレジに向かって、それぞれに会計を済ませた。家の方角が同じだったので、書店から出たあとも、僕たちはなんとなく一緒に歩いた。僕と川野が隣に並び、川野の横を由美ちゃんが歩いた。


 蝉の鳴き声が響いていた。空気はひどく蒸し暑く、まっすぐに続いている道の遠くは陽炎でわずかに揺れて見えた。


「夏休み、何かした?」


 ふと、川野が僕に訊ねてきた。僕は首を横に振った。


「全然。夏期講習くらい。終わってほしくはないけど、退屈でだんだん休みに飽きてきた」


「わかるー」と、川野は苦笑しながら言った。


 僕たちは、宿題のことや、一学期の成績のことや、いい加減うんざりしてきた夏の暑さなんかについて話しながら、真夏の街中を歩いていた。


 ふと会話が途切れたときに辺りが陰った。空を見上げると、小さな雲がちょうど太陽にかかったようだった。陽光を受けている雲が銀色に輝いていた。けれどそれは数秒のことで、すぐに太陽にかかっていた雲は通り過ぎ、再び、肌がひりひりしてくるような強い陽射しが降り注ぎ始めた。


 すると、川野が「あ、そういえばね」と何かを思いついたかのように言った。僕は視線を空から彼女の横顔に向けた。


「今度の月曜日に、妹と、あの絵に描いた場所に行くの。親戚の家に、三日間泊まってくるんだ」


 そうなんだ、と僕は相槌を打った。


「いいな。僕はたぶん、この夏休みはどこにも行かないよ」


 すると川野は、僕の方へ顔を向けた。そしてこんなことを言った。


「もし予定が合うなら、一緒に行く? 朝一緒に行って、夕方までなら、案内してあげられるよ」


 なんでもないことのような口調だったけれど、僕の方は驚いてしまって、すぐに返事をすることが出来なかった。「え?」とだけ、聞き返すような、間抜けな声が漏れた。


「日帰りでも、結構楽しいと思うよ。夏は賑やかだし、名所もいっぱいあるし」


 にこにこしながら、彼女はそう続けた。


 戸惑いながら、僕は彼女から視線を逸らせた。女の子と出かけたことなどそれまで一度もない。だから、強烈に川野のことを意識してしまって、言葉がうまく出てこなかった。けれど、彼女と知らない街に行くというのは、とても楽しいことだろうと思った。


 だから僕は、たぶん多少は不自然に空いていたはずの間のあと、素直に首を縦に振っていた。


 ☆ ☆ ☆


 その日、僕たちは最寄りの駅前の改札口で待ち合わせをした。約束した時間は、午前十時。その十分前に到着した僕は、改札の前の壁際に立ち、駅のなかを行き交う人々を眺めながら川野を待っていた。


 川野は十時ちょうどに由美ちゃんと一緒に姿を現わした。白いTシャツと茶色のショートパンツという格好で、肩に麦わらのバッグをかけている。


「お待たせ」と、僕の前に来ると川野は言った。由美ちゃんも、ぺこりと小さく頭を下げて挨拶をしてくれた。僕も二人に挨拶を返し、それから一緒に改札口を抜けて、ホームに降りた。


 この日も良く晴れていて、ホームの屋根の隙間から、濃い青色をした夏の空が見えた。陽射しは強く、影が地面に焼けつくんじゃないかと思うくらいに強かった。


 到着した電車に乗ると、車内は肌寒いほど冷房が効いていた。乗客はまばらで、僕たちが乗った車両の隅の座席が広く空いていた。僕たちはそこに座った。僕は背負っていたリュックを、川野は麦わらのバッグを、膝の上に置いた。


「神奈川に行くのは初めて?」


 電車が走り出すと、川野が言った。僕は頷いた。


「せいぜい都内までしか、出掛けたことない。電車に乗るのも、久しぶりだよ」


「そうなんだ」と、川野は言って、駅のホームで買ったペットボトル入りのスポーツドリンクをバッグから出して、フタを捻った。プラスチックで固定されていた部分が外れる、ぱきっという小さな音が響いた。


 いくつもの街の景色、駅、踏切が窓の外に次々に流れていった。僕はそんな窓の外の景色を眺め、川野は時折手にしている飲み物を飲み、由美ちゃんは本を読んでいた。この間、書店で買っていた本だ。


 午前中の陽射しが、電車の窓から射し込んでいる。たまに、電柱や線路付近に立っている何かの柱の黒い影が、車内を瞬間的に走っていく。


「ずっと景色見てるね」と、やがて川野が言った。


「え。あ、うん」


 ふいに話しかけられて、変な反応になってしまった。僕は視線を窓の外から川野に向けた。


「面白い?」


 川野は、首を傾げるようにして言った。うーん、と僕は首を捻った。


「面白いっていうか……。いろんな街があるんだなって思ってた」


「なに、どういうこと?」


 彼女はなにか興味を覚えたみたいな感じで言った。


 そう言われると、うまく言葉が出て来なかった。僕は自分が思っていたことをどう説明したらいいだろうかと考えた。


 それまでの僕の十四年の人生は、僕が住んでいた街だけで完結していた。家と学校の周りの、半径三キロメートルくらいのなかで。それで不便を感じたことは、ほとんどなかった。


 食品や日用品などが全て揃っているショッピングセンターもあるし、洋服屋もあるし、書店も、映画館も、ファミレスもカフェも公園も、それからふと絵に描きたくなるような場所も、たくさんあった。


 そして、今流れるように通り過ぎていったいくつもの街のなかにも、同じようにそういう生活の場や風景があるんだと思うと、――それは当然のことではあるのだけれど、改めてそう考えて、窓の外に見えた通りの先に広がっているはずの街の景色を想像してみると――なんだか気が遠くなってくるような感じがしていたのだ。


 そんなようなことを多少くだけた感じにして言うと、はぁ、と彼女は呆れたような、感心したようなため息を吐いた。


「岸本君、いつもそんなことを考えてるの?」


「いつもってわけじゃないけど。でも、ふと頭に浮かんできたことについてずっと考えてるときは、たまにあるかも」


 なんだかズレた話をしてしまったかもしれないと思い、少し恥ずかしくなってきた。学校では、誰ともこんなに個人的で込み入った話はしない。僕は苦笑いをして、その場をごまかした。


「でも、別にそんなに深く考えてるわけじゃないよ。とりとめのないことばっかり」


 すると、「いいと思う」と彼女は真顔で言った。


「え?」と僕は聞き返した。


「自分の見方で何かを見られるのも、自分が何をどんな風に見ているのか伝えられるのも、いいことだと思う」


 彼女の素直な口調で発されたその言葉は、僕のなかに染みこんできた。川野は、やはりどこかクラスの他の人たちとは違うと思った。こういうことを話して、笑われたりはぐらかされたりせず、まっすぐに言葉を返してくれる人に、僕はそれまで一度も出会ったことがなかった。


 すると、本を読むのをやめて僕たちの話を聞いていたらしい由美ちゃんが川野に身体を寄せて、口を開いた。僕に聞こえないようにしたのか、小さな声だったけれど、僕のところにもその言葉は届いてきた。


「ねえ、お姉ちゃんたちは付き合ってるの?」


 川野は「は?」と間の抜けた反応をし、由美ちゃんの方に顔を向けた。それから少しだけ間が出来て、やがて、「そういうわけじゃないよ。同じクラスってだけ」と言った。


「ふうん」と、由美ちゃんは言った。


「ね?」と、川野は、聞こえてたでしょ? という感じで、確認するように僕に視線を送ってきた。


「うん」と、僕も頷いた。


 すると、由美ちゃんは、再び「ふうん」と言った。どこか納得いかないような、怪訝そうな目で僕たちの方を見ていたけれど、すぐにまた、持っていた本に視線を戻した。


 それからしばらくして池袋駅に着いた。とにかく人が多く、迷路のように入り組んだその駅を僕たちは三人で歩いて電車を乗り継ぎ、川野が絵に描いた街に向かっていった。

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