第2話
☆ ☆ ☆
僕はベッドから起き上がり、そのまま窓際まで歩いていき、カーテンを開けた。しかし陽射しは弱く、部屋はそれほど明るくはならなかった。はっきりしない天気だ。薄灰色の雲が上空に居座り、その隙間に小さく空の青が見える。
今朝見ていた夢の感覚は、しばらく残り続けていた。僕はそれが薄れてくるまで、ぼんやりとそんな空を眺めていた。それから、洗面所に行って髪を整えた。それから家のなかで使っているカーディガンを着て、コーヒーをいれて椅子に座って本を読み始めた。
僕が住んでいるのは学生向けのワンルームのマンションで、縦長の部屋に簡素なベッドと作業机と本棚が設置してある。
装飾品の類いはなく全体的に殺風景ではあるけど、壁際には一枚だけ、僕が大学二年生の頃に描いた抽象画が立てかけられている。高校を卒業するまで、僕はかなりの時間を絵を描くことに割いていた。しかし、大学に入ってから今までの間にきちんと仕上げた絵は、この一枚だけだった。
十一時を過ぎた頃に、ふいにスマートフォンの着信音が鳴った。僕は読んでいた本を置いて、机の上で細かな音を立てながら震えているスマートフォンを手に取った。松本という友人からの着信だった。
彼は、中学高校と、六年間僕と同じ学校に通っていた。大学は別々になったけれど、僕たちの地元である埼玉県所沢市に住んでいる松本と、都心の方にある大学の近くのアパートに住んでいる僕は、今でも二、三カ月に一度ほど、一緒に食事を取ったり、買い物にいったりするくらいの付き合いを続けていた。
通話アイコンをタッチし、「久しぶり」と、僕は言った。
「お前、今ヒマ?」と松本は挨拶抜きでいきなり問いかけてきた。
「本読んでた」
「じゃあヒマだな。俺、ちょっと用事があって今池袋まで来てるんだけど。昼メシでも一緒に食わね?」
いいよ、と僕は言って、時計を見た。
「十二時くらいでいい?」
「オッケー。東口で待ち合わせな。その辺で時間潰して待ってる」
わかったと僕は言って、通話を切った。スマートフォンを机に置くと、読んでいた本に栞を挟んで閉じ、それから家を出る支度をした。午後に大学の授業があったので、それを受けるためのノートや本などを荷物に詰め、黒のチノパンに青色のシャツを着て、その上に灰色のパーカーを羽織り、マンションを出た。
最寄り駅から電車に乗り、松本と待ち合わせの約束した池袋駅に到着した。改札を出るとすぐに松本を見つけた。彼は近くにあった柱に背中を持たせかけて待っていた。ジーンズにスポーツメーカーのブルゾンという格好で、ワイヤレスイヤホンを耳につけている。僕に気づくと、彼はイヤホンを外し、片手を上げて僕に挨拶を送ってきた。
駅前の人の流れのなかで、僕も小さく手を上げ返して、松本に近づいた。
「どこ行く?」
僕が訊ねると、「お任せ。何かいいとこない?」と松本が言った。
僕は少し考えて、大学の友人に教えてもらった店に行くことにした。池袋駅周辺はたまに訪れる場所だったから、多少の土地勘はあった。肌寒い曇り空の下を十五分ほど歩き、その店にたどりついた。駅前の喧騒からは少し離れたところにある、小さな店だ。
客層には男性が多く、店内には少し古びた雰囲気が漂っている。白と赤のチェック柄のテーブルクロスの掛けられた四人掛けの席が六つに、狭いカウンターに四つ椅子が並んでいる。
カウンターの上にぶ厚い液晶テレビが設置されていて、そこには何かの旅番組のようなものが映っていた。席は半分ほどが埋まっていた。二人連れのスーツ姿の人、一人で来ている中年男性、それから僕たちくらいの年代の若い男のグループがいくつか。
「古」
この店に入るのが初めてだった松本は、席に座ると周囲を見ながらそう呟いた。
「でも料理は美味しいよ。しかも安いし」
僕は言い、机に一つしかないメニュー表を、松本にも見えるように、横向きに開いた。松本はそれをじっと見て、「何がおすすめなの?」と訊ねてきた。
「カレーか唐揚げ定食」
「じゃ唐揚げにするわ」
ん、と僕は頷いた。ちょうど店の人がテーブルに水を置きに来た。そのタイミングで注文を告げたあと、僕たちは水を飲みながら話をした。
実のない話だ。最近聞いている音楽の話とか、見たネット動画の話とか、大学やバイト先であったおかしな話とか。きっと、今夜眠るときにはこの話の内容のほとんどは忘れ去っているだろう。
しばらくすると会話が途切れた。松本はスマートフォンをいじり始め、僕はあまり座り心地のよくない硬い木の椅子に深く座り直した。
そして、僕は何気なくテーブルのすぐ横にあった窓の外に視線をやった。近くを通っている線路と遮断機、灰色の空、雑居ビル、それから忙しそうに歩いている人々が見える。
するとふいに、今朝夢で見た一人の女の子のイメージがぼんやりと頭に浮かんできた。それに続いて、
『ここから見える景色を描いているんでしょ?』
そんな、かつて耳にしたことのある声が、頭のなかで響いた。夢で見ていた川野の姿が、次第にはっきりとしてきて、それから消えた。僕は小さく息を吸い、長い瞬きをするように、ゆっくりと目を閉じて、開いた。
再び窓の外に視線を移す。暗い曇りの日の、東京の街。アスファルトも空も同じような灰色をしていて、道を歩く人々のなかには傘を持っている人もいる。ふと、遠くの雲間からひとすじの光の束が射しこみ、それが踏切の向こう側にあるビルの一部に当たってガラスが光を鋭く反射している光景に注意をひかれた。
もしも絵に描くとするなら、あそこがいい。
僕はその絵のイメージを思い浮かべた。イメージが鮮明になってくると、胸の奥が痺れてくるような感覚が訪れてきた。それは、かつて絵を描いていたときに感じていたものだった。ずいぶんと弱くはなっているけれど、僕はその感覚が今この瞬間にも生じたことに対して、小さな安堵感を覚えた。
「お前の方は最近何か面白いことあった?」
ふとそんな声がした。視線を正面に戻すと、松本はいじっていたスマートフォンから顔を上げていた。
内面に深く沈みかけていた意識が、ふっと浮上してくる。僕は小さく首を振って、自分の中に浮かんでいた絵のイメージを掻き消した。それから、松本の問いに何と答えようか返事を考えた。
そして、そのときにあることを思いついた。それで僕はひとつウソをついた。
「この前、所沢に戻ったときに川野を見かけたよ」
「は? 誰?」
「川野。川野美佐希。中二のとき、同じクラスだった」
「ああ、川野ね」
と、彼は言った。松本は、川野の近所に住んでいた。それから、少し考え込むような、不思議そうな感じで言った。
「へー。なんでこっちに来てたんだろう。用事でもあったのかな」
「――どういうこと?」
「いや、川野の家、俺らが大学に入るときに引っ越してったから」
松本はさらりといった。
「は?」
「いやだから、引っ越したんだって。うちにもあいつのお母さんが挨拶しにきてた」
「そうだったんだ」と、少し驚きながら言った。松本は水を飲みながら頷いた。
「……鎌倉のあたり、かな」
僕がそう言うと、
「どうだったかな。あ、でも、そういう言われると、鎌倉とかって言ってたような気もしてきたな」
独り言のように彼は言い、それから、こう続けた。
「うん。たぶんそうだ。鎌倉って言ってたわ。でもなんでお前、そんなことがわかったの?」
「いや、わかったわけじゃないよ。親戚がそのあたりに住んでるって聞いたことがあったから、なんとなく」
「ふうん。でもお前、あいつとそんなに仲良かったっけ?」
「一時期席が近かったから、その時に」
僕がそう答えると、「気になるのか?」と松本は少し面白がっているような口調で尋ねてきた。
「いや、別に」
と僕は苦笑しながら言って首を横に振り、この話題を続けるのを避けた。普通、それほど関わりがあったわけではない中学のときの同級生がどうしているかなんていうことを気にかけることはない。これ以上川野の話をして、松本に僕と彼女のことを何か詮索されたり追及されたりしたら面倒だと思った。
そのすぐあとで、店の人が注文した料理を運んできた。作り立ての料理の温かみのある匂いが漂ってきた。僕たちはそれを食べながら、また断続的に、どうでもいいような近況の話をして過ごした。
☆ ☆ ☆
その後、僕は松本と別れて、大学に向かう電車に乗った。空いていた座席に座って、スマートフォンを手に持ち、僕たちの世代の人間が一般的に使っているSNSアプリを開いた。
僕とつながっている可能性のある人物のリストのページをしばらく眺めた。いくつか懐かしい名前を見つけたけれど、そこに川野の名前はなかった。残念なような、安心したような、奇妙な感覚を覚えながら僕はそのSNSアプリを閉じた。
大学に着くと、いつもどおりに授業を受けた。必修科目ではない。ほとんど趣味で取っている文学と芸術史に関する講義だった。人気はないが僕は比較的好きな科目だった。しかし、この日はあまり集中することが出来なかった。受講生もまばらなその教室で、九十分間、ぼんやりと講義を聞いて、僕はキャンパスを出た。
スマートフォンの時刻表示を見たら、午後の五時を過ぎていた。いつもならまだ陽の明るさがかすかに残っているような時間帯だったが、今日は灰色の雲が空に立ち込めていて、もうほとんど夜のように街は暗くなっていた。
流れていく車のヘッドライトと、街灯の白い光が、路上を照らしている。どこからか救急車の音が聞こえ、大学の近くにある踏切の甲高い音が響き始めた。
暗い道を歩きながら、僕は今日の一日を思い返した。
朝、川野の夢に妙に引っかかった他、松本から連絡が来て一緒に昼食を食べたというややイレギュラーな出来事はあったけれど、大方の過ごし方においては、いつもと同じ一日だった。
松本と話していたときに感じた、『たぶんこの会話の内容は夜には忘れているだろう』という直感は正しく、すでに、彼と話していた話の内容はほとんど覚えていない。やはり、今夜寝るころにはすっかり忘れているだろう。
しかし、今朝川野の夢を見たあとに感じた妙な気持ちは、まだ僕の胸のどこかに引っかかっている。毎日毎日、すぐに忘れてしまうようなことばかりに囲まれて日々を過ごしているのに、彼女のことは、未だに時折、頭に過る。
『岸本君の絵を見てから、ここから見える景色ってこんなに綺麗だったんだって思ったよ』
あれから、もう七年が経つ。
十四歳から二十一歳の七年というのは長い時間だ。十四歳の頃のことが、僕にはもう遠い昔のことのように思える。けれどあの頃見聞きした彼女の姿や言葉は僕の感情を、未だに刺激する。あの夏のあの日の記憶は、特に。
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