踏切のある街

久遠侑

第1話

 その朝は、一つ気がかりな夢を見たこと以外は、何の変哲もない薄曇りの日の朝だった。


 目を覚ましたとき、時間感覚を喪失していた。灰色の遮光カーテンの向こうに漂っている光の気配は普段の朝のものよりもずいぶんと弱く、日が昇り切っていない早朝に目覚めてしまったのか、それとも曇りの日でそうなっているのか、判断できなかった。眠気でまだ頭がはっきりと働ない僕は、ただ薄目を開けて、その弱い光を湛えているカーテンを、しばらく眺めていた。


 ぼんやりとした意識の片隅には、目覚める直前まで見ていた夢の記憶が曖昧に漂っていた。けれど、もうすでに夢の全体像は思いだせない。いくつかの断片的なイメージだけはおぼろげに浮かんでくるものの、それらは鮮明にも、ひとつのまとまりになることもなかった。


 目覚めたあと、妙に胸に残る夢。そんな夢を見る日は、別に珍しくはない。けれど、どうしてか、この日の僕は、その感覚がいつもよりも強く気になって、しばらくの間、意識して夢の内容を思い起こそうとした。


 しかし、記憶は薄れていく一方で、結局どんな夢だったのかは思いだせなかった。僕は、胸のうちにわだかまっていた気持ちを吐き出すようにして、ひとつ大きくため息を吐き、身体を起こした。


 薄暗い部屋が、視界に広がる。静かな、灰色の朝。白い天井、明かりの消えたLEDのライト、いくつかの本とノートパソコンと筆記用具を乗せた木の机。


 ――今は何時なんだろう。


 僕は枕元にある充電ケーブルに繋いだスマートフォンを手に取った。画面には、八時二十分という時刻が表示されていた。予想していたよりも遅い時刻だったが、それでも、大学三年生になってから午前最初の授業がなくなった僕にとっては、普段よりも少し早い起床だった。


 眠気はまだしつこく頭に付きまとっていて、瞼が重い。布団から出るのがおっくうだった。ちょうどこの日は、午後まで予定がなかった。僕はもうひと眠りすることにして、スマートフォンを放り出し、布団をかぶり直した。瞼を閉じてしばらくすると意識が薄れはじめた。


 すると、先ほど思い出そうとしていた夢の映像が一瞬だけ焦点を結び、一人の少女の姿がはっきりと脳裏に浮かんだ。その瞬間、眠気がすっと引いていき、意識がはっきりと、現実の方へ戻ってきた。


 ――川野美佐希。


 僕は、再び目を開けた。


 ――そうだ。さっきまで僕は、川野と一緒にいる夢をみていたんだ。


 ☆ ☆ ☆


 僕と川野美佐希が知り合ったのは中学二年生の年だった。


 同じ公立の中学校に通っていた僕たちはその年にクラスメイトになり、一学期に、たまたま隣の席になった。それまでは話をしたこともないし、名前も知らなかった。川野は特に目立つところのない、普通の女の子だった。


 容姿がものすごく綺麗だというわけではなかったし、特別に成績が良いという話も聞いたことがなかった。ただ、少しだけ周りの女子よりも品の良い印象があった。髪は肩につくくらいまでの長さで、前髪を目の少し上あたりで緩く横に流していた。制服も着崩してはおらず、ノートや教科書も綺麗に使っていた。遅刻や居眠りをすることもなく、毎日、授業をきちんと受けていた。


 四月、五月の間は、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。行事なんかで席が近い生徒が集まって行動しなくてはならないときに、必要に応じて言葉を交わすことくらいはあったけれど、それ以上のやり取りはなかった。


 はじめて会話らしい会話をしたのは、六月上旬の美術の時間だった。


 その授業で取り組んでいたのは絵画だった。対象は自由で、静物でも、写真をもとにした風景画でも、アクリル絵の具を用いて描く作品なら何でもよかった。


 僕は、美術室の窓の外に見える風景を描いていた。ちょうど窓際の席に座っていたし、そこから見えるグラウンドと、その周りに生えている木々を描こうと思ったのだ。


 僕は小学生の頃に絵画教室に通っていて、絵が得意だった。幼稚園の頃によく絵を描いていたので、たぶん僕の長所を伸ばそうとしてのことだろう、小学一年生のときに親が見つけてきた教室に通い始めて、六年間、僕は週に一度のレッスンを受けていた。


「上手だね」


 涼しさを感じさせるような、女の子にしては少し低くて、落ち着いた声音が、僕の耳に届いた。隣の席に座っている川野美佐希という女の子の声だということはわかっていたけれど、彼女とはそれまでにほとんど話をしたことがなかったから、最初は、僕に話しかけているのだとは思わなかったのだ。しかし、彼女は間違いなく僕に視線を向けていた。


「ここから見える景色を描いているんでしょ?」


 突然話しかけられたことに少し驚きながら、


「そうだけど」


 と、僕は短く答えた。


 すると、彼女は、窓の外、僕が描いている風景の方へと目をやった。


 ちょうど初夏の天気のいい日で、緑色の若葉が空から降り注ぐ強い陽射しを浴びていた。外は明るく、木の葉も雲も、まるでそれ自体光っているように見えた。


 そして、彼女は視線を僕に戻して、柔らかな笑みを浮かべながら言った。


「それまでは全然気がつかなかったけど、岸本君の絵を見てから、ここから見える景色ってこんなに綺麗だったんだって思ったよ」


 ほとんど関わりのなかった女の子に突然そんなことを言われて、僕はちょっと面食らってしまった。どう返していいのかわからず、でもとにかく、「ありがとう」とだけ、戸惑った調子を出さないようにして言った。


 会話は続きそうになかったのだけれど、川野は相変わらず、僕に向けて、にこにこと微笑みを浮かべている。妙な間が出来てしまい、それがなんだか気まずくて、僕は視線を泳がせた。そのとき、ふと、彼女が描いている絵が目に入った。川野の方は、写真を一枚持ってきており、それに写っている風景を描いているようだった。


「そこは、どこの景色なの?」と僕は、自分のことから話題を逸らそうとして訊ねてみた。


 彼女は、机の上に乗せてあった写真をぺらりと拾って、僕に見えるように置き直した。


「鎌倉。親戚の家があって、ほとんど毎年、夏休みに行ってるんだ」


「そうなんだ」


「うん。なんだかここ、綺麗な景色だと思ったから」


 僕は机の端に置かれているその写真を見た。


 それは線路沿いの景色だった。季節はきっと今のような初夏の頃だろう。光の明るさや、木々の緑の鮮やかさが、そう感じさせた。


 写真を見ながら、そうだね、と僕は頷いた。調子を合わせたわけではなくて、本当に綺麗な景色だと思ったのだ。


「でもなんか、うまく雰囲気が出ないんだよね。なかなか難しい」と、彼女は首を傾げて自分の絵を見ながら言った。


 僕は改めて彼女の絵を見た。隣に座っていたからずっと目には入っていたけれど、それまでは、あまり注意を向けていなかった。


 下書きは丁寧に描かれていた。遠近感覚も自然で、美術の授業で描く分には十分に上手だと思った。けれどやはり、写真から受ける瑞々しさの印象は欠けていた。


「木葉とか空のところには、もっと濃くて明るい色を重ねた方がいいかも」と、僕は言った。


「そう?」


「たぶん」


 無責任かも、とは思ったけれど、言ってしまった以上、僕は首を縦に振った。川野は少し考え込むように自分の絵と写真を見比べたあとで、


「じゃあ、そうしてみようかな」


 と、頷きながら言った。


 すると、通りかかってきた五十歳くらいの女性の美術教師が、僕たちの私語を注意してきた。僕たちの会話はそれで中断し、作業に戻った。


 その日から、僕たちはぽつりぽつりと会話を交わすようになった。美術の授業中に話すことが一番多かったけれど、それ以外のときでも、ふとしたときに話をするようになった。


 川野は聴いた音楽や、観た映画の話をよくした。流行りのものだけではなく、何十年も前の作品のこともよく知っていた。楽器の演奏や作曲も出来ないし、絵を描くことも得意ではないけれど、それらを鑑賞するのはとても好きなんだというようなことを彼女は僕に言った。

 

 それからひと月も経った頃には、僕たちは何年も前から友達だったかのように打ち解けていた。

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