痕を踏む
〈九〉
自室に帰ってきてからでよかったなと、心の底から思った。絶対に優佳子の家では読みたくなかった。
「ずるだろこんなの」
あと出しじゃんけんの勝ち逃げみたいなもんだ。ふざけるのも大概にして欲しい。今ここにある感情をどうしたらいいのか分からないじゃあないか。
「お前は俺にどうしてほしかったんだよ」
そりゃあ今更こんな素敵手紙をもらったところで、美帆への気持ちが変わるかと聞かれたらそんなことはないけれど、もうちょっとうまいやり方を考えてやれたかもしれない。変な意地の張り方なんかしなかったかもしれない。
「自分で書いた手紙があるなら」
せめて教えてくれればちゃんと読んだのに。
こんな風に想ってくれてると知っていたなら、俺だってもっと、もっと。
「この——」
なんでこんな時に限っていないんだよ。今だろうが、こういう時にこそひょっこり出てくるべきだろうが、俺の幻覚なんかじゃなくて、本当にすぐそこにいてくれてたのなら、頼むから今出てきてくれよ。
なあ。せめて。
「返事くらいさせろよ……」
何もない壁に向かって呟いても虚しいだけだった。何もないこの空間がこんなに寂しい。この一ヶ月ほどで分かっていた。優佳子がいつでも出てきてくれる環境にどれ程自分が慣れ親しんでいたか。
大切なものは目に見えない、とはよく言ったものだけれど、本当に見えなくならないと気づかないのは本当に世界は意地悪だと思う。
どれくらいの時間ぼうっとしていただろうか。濡れて皺のできた手紙をどうしようかと考えて、とりあえずクリアファイルにでも入れようと考えた時だった。
「ちょっと、早く捨ててよね」
まったく可愛くない憎まれ口が聞こえた。はっと振り返ると、そこに制服姿の優佳子が口をとがらせながら立っていた。
「おまっ……なんで」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。口をぱくぱくとして何も言葉が出てこない俺をしばらく黙って見ていた優佳子はやがて「ぷっ」と吹き出した。
「蓮さ、めっちゃ涙のあとできててウケるんですけど」
ようやく落ち着いた俺に対してまず優佳子がしたことは、深々とした礼だった。
「ごめんなさい」
「……なにが」
思い当たることが一つもない。むしろ謝るべきは俺の方だと思う。
「そりゃああれよ、あれだけ唆しておいて直前になって『いや』とか言って困らせた事」
「ああ……」
確かに、優佳子視点からはそうなるのかと納得した。俺は一方的に彼女を無視して独りよがりな態度をとっていたつもりだったが、お互い様だったということか。
「こんな物分かりのよさそうなこと書いておいてさ、ずるいよね私」
自分の手紙を苦笑しながら眺める優佳子に俺も頭を下げる。
「俺の方こそ意地悪して悪かった。だから……お相子ってことにしないか」
「ん、わかった」
素直にうなずいてくれて助かった。ひとまず安心した俺に対して、だけれど優佳子は淡々という。
「そのことはもういいからさ。早くその手紙捨てて、お願いだから。恥ずかしくて死にそう」
言っていいのか少し微妙な気持ちながら俺は言う。
「もう死んでるやんけ」
「まっさか……ほんとだ」
爆笑する優佳子につられて俺も爆笑する。おかしくておかしくて、そして虚しい。いつの間にか二人そろって黙りこくっていた。
「なあ」
先に俺の方からその沈黙を破る。
「お前って幽霊なのか」
優佳子は首を傾げる。
「わかんない。けどまあ、そんなようなものなんじゃないの」
「適当だな」
「そりゃあ私にとっちゃもうどうでもいいことだもん」
「それもそうか」
「そうだよ」
まあでも、と優佳子は続ける。
「どっちにしろこんなに長い間蓮と話すことができてよかったなって私は思っているけれど、蓮はどうなの」
「そんなの俺だっていいと思ってるに決まってんだろ」
「そっか。ありがと」
小さくお礼を言って優佳子は大きく伸びをした。どんなに時間が経ってもあの頃と寸分たがわないその姿は、こんなに近くにいてもやっぱりもう届かない存在なのだと改めて俺に感じさせた。
「美帆さんとはどうなの、上手くいってる?」
唐突に話題が変わる。どういう風の吹き回しだと優佳子の表情を伺うと、彼女の顔は真剣そのものだった。
「まあ、いい感じ、だと思う」
にやっと優佳子は笑う。
「ごめんごめん、女の子と付き合うなんて初めての蓮にいい感じかなんてわかんないよね」
「はったおすぞ、そもそも俺が誰とも付き合わなかったのは……」
慌てて口を閉ざすももう遅い。
「付き合わなかったのは?」
優佳子は先ほどに輪をかけて真面目な表情で尋ねてくる。俺はため息をつく。よく考えれば今更隠すことでもなかった。
「優佳子のことが、好きだったからだよ」
思っていたよりその告白はするりと口から出てきた。人生で二回目ともなると案外容易い。
「好きだった、ね」
言葉尻を捕らえて、寂しそうに笑う。そんな表情はあまり見たくなかったけれど、目を逸らすわけにはいかなかった。
「……美帆さんのこと、私より好き?」
「そもそも比べるものじゃねえだろ」
俺の格好悪い悪あがきを、しかし優佳子は許してくれない。
「どっちが好きなの?」
「…………」
「ちゃんと答えて」
「……今は美帆の方が好きだよ」
すると何故か優佳子は安心したような顔をした。
「よかった」
「なんでだよ、お前だって俺のこと」
すっと立ち上がった優佳子はすっと差し出した人差し指で俺の口を塞いだ。感触はなかったけれど、動かせない。
「私にちゃんと言わせて」
深く深呼吸をする優佳子、しばらく目を閉じていた彼女はやがてゆっくりと言う。
「蓮のこと大好きだよ。でもね」
その頬に一筋の涙が走る。
「私はもういないの。ここにも、どこにも」
その涙は何で出来ているのだろうなどと、ふとそんなことを思った。
「蓮、言ってくれたよね。置いて行かないでって。なのに私のこと置いて行ってずるいって思っちゃった。でももう死んでるのにこんな往生際の悪いことしてる私の方がずっとずるいの、本当は」
だからね。
「もう終わりにしたくて、そんなときにようやく蓮に他に好きな人ができてくれて、私嬉しいの」
本心からそれは言っているのだろうか。止まらない彼女の涙は決して床を濡らすことはないけれど、俺の心に穴を穿つのには十分だった。
「だからお願い。美帆さんのこと大好きになって。絶対幸せにしてあげて」
「言われるまでもねえよ。当たり前だろそんなこと。」
何もない虚空を抱きしめる。感触は全くないけれど、どこかそこは温かく感じた。
「そう、だよね」
優佳子は最期に笑った。
「ありがとう。ずっと愛しているよ、蓮」
「だから返事くらいさせろって」
なぜかぐっしょりと濡れた服の胸元を握りしめて俺は呟く。もう優佳子はここにいないのに。ずっと優佳子はここにいないのに。
それは初恋の痕だった。
初恋 水沢おうせい @mizusawaosei
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