交わりの皿

真花

交わりの皿

 寒風すさぶ商店街を奥へ奥へと進んだ左手に、通わずにはいられない店がある。

 木彫りの象、仏像、店構えからも分かるようにその店はタイ料理店なのだけど、足繁く通うのは店員さんが美人だとか激安だとか逆に高級だとか、そう言う一切の付加価値を伴わない、シンプルな理由で、だけどそのシンプルな理由こそが料理においては最高で最強、美味い。大抵の美味しい料理は、初めましてのときが一番美味しくて、二回目以降は横這いか下降する。これは学習のせいだと思っていた。特に尖った個性のある料理だとそう言うことが起き易いし、だから美食家の人は新しい味を求めるのだろうし、仕方のないことだとそれ以上の探求をやめていた。が、ここの料理は違う。これまで自分が培っていた「料理の味は落ちてゆくの法則」をモナカを折るが如く破壊した。何度でも美味しい。だから何度でも行く。

 今日もその店に向かう。

 タイ的オブジェに彩られた門扉を潜ると、いつもの女性店員さんと、中の見える厨房には男性のシェフ。このシェフが只者ではない訳だ。見たところ三十代前半くらい。どういう経緯で日本で店をやっているのかは不明だけど、彼がどんな人生を歩んで来たかなんて関係ない、よくすごい人のプライベートを覗くテレビ番組とか雑誌とかがあるけど、ああ言うものがどれだけ無意味かがよく分かる、客である私とシェフである彼はその間に立つ皿によってのみ繋がるのだ、だから、彼が昨夜人を殺していようと、失恋をしていようと、実はカクヨムで有名な書き手であろうと、全部がその皿の前ではゼロ、無価値なものに堕ちる。皿。皿だけが意味。

 私は店員さんに促されていつもの席に座る。さあ、ではその皿を何にするか。

 当たり外れのある店なら当たりを食べればよい、だけど、ここは当たりしかない。当然迷う。寒いからスープを頼もうか。定食っぽい単品料理にしようか。大盛り? それとも普通盛りにしてもう一品足そうか。

 メニューを最初から最後まで眺めて、また後ろから前に。六ページしかないのだけど、往復運動をまじまじと。ほぼ同時だけど私の方が先で、入ってきた他の客二人が注文を決めてしまいそう。でもここはそんなことで焦らない。焦らないで、今日の満足の色をちゃんと決めないといけない。

「ガパオライス大盛りと、グリーンカレー」

 その客がオーダーする声。徒競走はもう終わった。私はじっとメニューを見る。ガパオライスは外せない。今日はそう言う日だ。ここのガパオライスは次元が違うから、ちょっとストレスの多かった今日を確実に癒してくれる、絶対に外れない安心感。そうだ、今日の私は少し凹んでいるのだ。だったら、食べたことのないメニューで冒険をするよりも、確実に美味しいと分かっているものに限定すべきだ。もちろん、未食の品が美味しくないとは思っていない。信頼がある。だけど、それでも冒険に変わりはない。だったら。

 店員さんの方を向いて手を挙げる。

「はいー」

「カウ・パッ・ガパオと空芯菜、お願いします」

「はいー」

 ガパオライスのところにはカウ・パッ・ガパオと書いてある、きっとタイ語でガパオライスのことをそう言うのだ。私はタイのことは殆ど知らない。タイ語だって分からない。壁に貼ってある正装の写真がどれくらい偉い人なのか考えてみても何も出ない。だけど、メニューにそう書いてあるのだから、それが皿の本名なのだから、そう呼んでもいいじゃないか。カウ・パッ・ガパオ。空芯菜の方はもっと複雑だったから。

 料理店には匂いがある。この店にはタイ料理の匂いがふよふよと浮かんでいる。それは決してタイの匂いではない。独立した食文化が息づいている。私は料理が来るまでの間、その匂いによって期待感を膨らませる。いや、期待はそもそもある、それを育てるのだ。待っている間にスマホをいじらないのはこの店だけだ。この待ち時間には価値がある。

 さっきの二人組に料理が届く。ああ、あと少しだ。

 ここの料理にはスープを除いて一つの共通点がある。この店に来るまで全く意識したことのないそれは、

「お待たせしましたー、ガパオですー」

 目の前に置かれたのはガパオライス。ご飯が小山になっているのはタイ料理の定番なのだけど、問題は肉だ。先の共通点とは、炒めたものが立体になっていると言うこと。ただの立体ではない、炒めた肉が「ふんわり」と肉と肉との間に空気、空間を抱いているのだ。どうしてこういう現象が起きるのか分からないのだが、他の店と比較してみると差は歴然で、他店ではべちゃっと潰したような塊になっている。この立体が美味しさを産んでいるのか、美味しく作ると立体になってしまうのか因果関係は分からない。関係ないのかも知れない。でも私には意味のある空間のように思えるのだ。

 スプーンで肉とご飯を一緒に掬って、香りを感じながら一口目を喰らう。

 口の中は肉の味が七、ご飯の味が三、と言った塩梅で、ピリ辛と肉の旨味が踊る。この辛味を悪女のピリ辛とこれからは呼ぶことにする。二口目、三口目、間に水を飲んで、私の中が悪女に染まってゆく。次から次に食べてしまう、でも、半分になったところで調味料から赤いドレッシングをかける。タイ料理ではクルワンプルーンと言う四つの調味料が入ったものがテーブルにあるのだけど、この赤いドレッシングは一般的な四つには含まれない。もちろん店員さんの受け売りだ。で、赤い、辛味と酸っぱさの両方を持つドレッシング、天使の悪戯ドレッシングと呼ぼう、を悪女にかけると、絶妙にマッチするのだ。後半戦はその味と共に進む。ご飯を少し残して、肉の部分を食べ終える。

 ふう、と一息入れる。自分の感じを捉える。

 そっと眼を瞑る。

 皿は、命へ。

 そう、命に影響するのが、至高の皿なのだ。私の凹んでいたところは、ぺこっと元に戻ったような気がする。全部のストレスが消えた訳ではないけど、どれも希釈された。

「空芯菜ですー」

 届いたのは、これも立体の空芯菜の炒め物。野菜って炒めたらしなしなになって潰れるのに、彼の炒めた空芯菜は張りを保ったまま、やはり空気を抱いて、皿に乗ってやって来る。ニンニクと唐辛子が一緒になっていて、箸でつまんで口に運べばシャキシャキに濃厚なタレの味が絡まって、ご飯を挟みながらあっという間に完食してしまう。マリオネットな空芯菜だ。

 空芯菜がなくなった分、私のこころの隙間が埋まった。

 食事とは、空腹のマイナスから満腹のゼロにするだけの生物的本能の側面と、味に酔いしれるマイナスかゼロからプラスへの側面の二つの要素を持っている。もちろん本能の方も満たされたけど、そっちじゃない、プラスに向かう美食の喜び、これは人間的側面と言ってもいいのではないか。

 私は総身に歓喜を駆け巡らせている。間違いなく、人間としての喜びに満ち溢れている。

「美味しかった」

 空になった皿、彼と私の交わりの場所、そこに向かって呟く。ああ、顔がにやけてしまう。

 会計に立って、ごちそうさま、お金を払って、調理場の彼に、美味しかった、伝えて、帰る。

 外は寒いけど、私のこころは満たされているし、体もだから、負けない、今日の皿は幸せだった。


(了)

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