マシンマシンマシン

くれさきクン

第1話


       マシンマシンマシン



    1


 殺戮は音もなく始まった。

 メリーランド州ローレルの機械工であるオーネット・ギブスンは、厳密な意味でいえば最初の犠牲者だった。

 二年前に妻を事故で失くして以来、彼は独り身だった。その日は休日だったが、食事を終えてしまえば、やるべきことは何もない。酒に手を出すことは危険だった。潰れるまで飲みたくはなかったし、一度飲み始めれば、飲み過ぎずにいられる自信はなかった。そして何より、翌朝は早くから仕事だった。

 彼は新しい製造ラインの担当責任者だった。彼は仕事に対して誠実であるように、その他ほとんどのことに対しても誠実だった。妻が事故で死んだ日、彼は質屋の主人を夜中に叩き起こし、愛用していたオートバイを売った。なぜそんなことをするのか自分でもよく分からなかった。彼はそのオートバイを、自分の命の次に大切な物だと信じ込んでいたのだ。

 いずれにせよ、彼は孤独になった。

 その二年あまり後、彼は仕事のために早い時間からベッドにもぐりこみ、そして二度と目を覚まさなかった。

 


    2

 

 最初の一日に108,873人が死んだ。これはもちろんアメリカ国内で拍動していた108,873個の心臓が、この日のうちに停止したという意味である。地球全体で何人死んだのか、正確なところは誰にも分からない。この突然の、しかし静かな大量死はアメリカ国内だけの問題ではなかった。世界中ありとあらゆる場所で、あらゆる人が死んだ。彼らのほとんどは誰かに「おやすみ」と声をかけ、ベッドにもぐりこみ、そしてそのまま目を覚まさなかった。

 謎が解けたのは二日目の午前中だった――これはもちろん、アメリカ国内の午前中、という意味である。ワシントンD.C.は午前8時54分、ニューヨーク市は午前11時54分だった。

 サウスカロライナ州チャールストンのタクシードライバーであるルー・フィングルソンは、港の傍で観光客らしき白人のカップルを下ろし、ダウンタウンに向け車を発進させたたところだった。

 彼の頭の中にあったのは昼食のことだった。腹が減っていたのだ。原因は明らかで、朝食を抜いたからだ。今朝はあまりに忙しすぎた。沢山の人が死んだおかげで、教会と病院は春先の馬小屋みたいにごった返していた。どこかに人が集まるということは、それだけ多くの人が移動するということである。そしてチャールストンには――歴史ある美しい街の多くがそうであるように――ろくな交通手段がなかった。地下鉄などもってのほかである。そんな街では、タクシーが最も現実的な交通手段だった。

 今日は観光用の馬車ですら市民のために貸し出されているようだ。

「何なんだ」と彼はひとりごちた。「何だってんだ、まったく」

「地球の皆さん」と声が聞こえた。「こんにちは」

「ああ?」と彼は言った。「何です?」

「こんにちは」と声はもう一度言った。「驚かせてしまい、申し訳ありません」

「いや」と彼は言った。「驚かせるも何も」と続けた――それからバックミラーで後部座席を確認する。誰もいない。

「――無線か?あんた、どこにいるんです?」

「私は地球の外にいます」と彼は言った。「あなた方の言葉を借りれば、私たちはaliensであるわけです」

「aliens?」

「はい」

 彼はしばらく沈黙した。昼食のことで占められていた頭が、ぐにゃぐにゃと形を崩し始める。

「ali――何だって?」

「ens」と声は答えた。

「何だって――宇宙人が、俺に話しかけてる?」

「あなただけではありません」と声は言った。「私はこの地球に住むすべての生物に話しかけているのです。それぞれ、個別にということです。そうすることが最も公平だと判断したからです。訊きたいことがあれば、訊いていただいて結構です。分からないことが沢山あるでしょうから」

 車の流れは遅くなっていた。信号が赤に変わる。すぐ傍に馬車がいた。馬がぶるぶると鼻を鳴らしながら、あちこちに首を回している。路上にいた多くの人たちも同じようなことをやっていた。そのうちの殆どは口を半開きにして、両手を耳に当てていた。

「昨日から、多くの地球人たちが死んでいることはご存知でしょうか」

 声は高く、無機質でざらついていた。中性的というよりは、幼いと言った方がしっくりくる。声変わり前の男の子といった感じだった。

 きちんと意味が通じているかどうか確認するみたいに、宇宙人はゆっくりと先を続けた。「たくさんの地球の方々を殺しているのは、私たちが散布しているウイルスなのです。正確には、ウイルスというより、もっと適当な単語が存在するのですが、あなた方の言語において、同様の言葉が認められなかったため、あくまでイメージしやすいように、ウイルスと表現させていただきます」


      ☆


 宇宙人は話し相手の知的能力や年齢に応じて、話し方や言葉の選び方を細かく変更した。もちろんフランス人にはフランス語を、ウイグル人にはウイグル語を話した。彼らはタクシーの傍で馬車を引いていた馬にも、公平に事情を説明しようとした。こんな具合である。


 ――ブルルゥン、ィィッヒ!ッヒ、ブルブル、ビブルゥゥゥゥン……。


 もちろん意味は通じたり、通じなかったりした。



    3


 コロラド州デンバーのジョン・ウェルカーはまだ4歳だったので、宇宙人は彼を怖がらせないよう、優しく事情を説明した。

「あのね」と宇宙人は言った。「ジョン君――君の名前は、ジョン君だったね?」

「うん」とジョンは言った。

「これから10年――つまり、君が14歳になるまでの間に、地球の人たちはみんな死んでしまうんだ――死んでしまうって、分かるかな?」

 ジョンは頭を振った――彼の視線は、彼の誠実な友達である熊のぬいぐるみの顔に注がれていた。熊が話していると思ったのだ。

「わからない」と彼は言ったが、これは半分嘘だった。自分の生命が永遠でないこと、母親と手を繋いで保育園へ出かける日常にいつか終わりが来ることを、彼はぼんやりとながら了解していた。大人を見ていればおのずとわかることだった。大人は保育園には行かない。それが不幸なことだとも思えなかった。

「あのね」と宇宙人は優しく言った。「それは、なくなってしまうっていうことなんだ。あと10年で、みんな、なくなってしまうんだよ」



    4


「そんな馬鹿な話ってある?」

 東京都文京区千駄木に住む大学生、樋口茜はそう叫んだ。夜中の2時に大声を出すことはマナー違反だったが、気にする者は一人もいなかった。彼女の声に気づいた者すらいなかった。みんなそれどころではなかったのだ。

「みんな死んじゃうって?」と彼女は叫んで、しばらく黙った。議論は得意だったが、次にどんな弾を込めればいいのか見当もつかない。「なんで――なんでそんなことするのよ」

「これは実験なんだ」と宇宙人は言った。我慢強い、分別のある大人みたいな言い方で。

「今、僕たちは進化についての或る研究をしている。これはとても重要な研究なんだ。つまりね、生命とは何か、生きているとはどういうことか、君だって知りたいだろう。僕たちも知りたいと思う。それはあらゆる生命の本能的な欲求だ。そのためには膨大な量のデータを集めなければならない。そしてそのためには、君たちの協力が不可欠なんだ。分かるかい?」

「馬鹿じゃないの」と茜は言った。

「馬鹿じゃないよ」と宇宙人は言った。「君は大学で生物系の研究をしている。そうだろう?動物を使った実験も、やるはずじゃないか。研究者の気持は分かってくれるはずだ」

 たしかに茜は生物学科の学生だった。研究をしている、という言い方は誇張が過ぎるが、配属された研究室でその手伝いをしていることは事実だ。そしてマウスやラットがいなければ、研究室の仕事は少しも前に進まない。

「それがなんだっていうの?」と彼女は言った。「あんたまさか、あたしたちがマウスを殺して実験しているみたいに、あたしたちを殺して自分たちの、そのなんだか訳の分からない、その、実験をやろうっていうわけ?」ふさわしい言葉を探して、茜は言い捨てた。「バッカみたい」

「どうして馬鹿みたいなのかな」

「だってそうでしょう?『いつもマウス殺して実験してんだから、自分が殺されても文句言うな』、そういうことなんでしょう、要するに?」

 ふうん、と宇宙人は言った。ゆっくりと小さく、だが深く息をつくような、重い相槌の打ち方だった。

「……そういう風に思うんだね、君は」

「論点を挿げ替えないで」と茜。「マウスはマウスよ、あたしたちはマウスじゃないわ。殺されたくないっていう意思を提示することができる。それを殺すのは、人殺しといっしょ。っていうか、人殺しでしょ、あんたのやってることって、普通に」

「頭がいいんだね」

 宇宙人は感心したように、だが悲しそうに言った。「君の言うことは理屈が通ってるよ。なんだか悪いことをしているような気になってきた」

「悪いに決まってるでしょ。何勝手に人の星に来て、こんなことしてんのよ。馬鹿じゃないの?」

 茜のように憤然と宇宙人を非難する人間は珍しかった。誰かを非難するには、状況を理解する必要がある。頭のいい人間ほど、宇宙人という概念を受け入れることには消極的だった。

「でも分かってほしいんだ」と宇宙人は言った。「たしかに君は10年以内に死ぬだろう。でもそれは君個人の死であって、人間全体の死ではない。これは進化の実験なんだ。つまり君たちの死によって、人間は前に進むんだよ。そこには新しい考え方が生まれる。生命は新しい形に生まれ変わる。その中で、君たちの死は違った意味を獲得することになる。今は分からないかもしれない、だけどいつかきっと分かる。君は頭がいいみたいだからね」

 茜は口を開き、一瞬躊躇してから、反論の言葉をひっこめた――言いくるめられたわけではない。宇宙人の理屈は穴だらけで、どこから反撃の手を突っ込めばいいか分からなくなってしまったのだ。

 言葉を発する代わりに、彼女は溜息をついた。目を閉じる。疲れが一気に体の奥に沈み込んできた。頭がきりきりと痛む。彼女はもともと頭痛持ちだった。薬を飲もう、と彼女は思った。そしてそのまま寝てしまおう。

 だが彼女は薬を飲むことができなかった。それどころか、二度と目を開くことすらできなかった。

「死んでしまった」と宇宙人は呟いたが、その声は彼女の脳に届かなかった。「もう少し、話していたかったのに」



    5


 このようにして滅亡へのカウントダウンが始まった。

 もちろん地球人とて、無抵抗のまま運命を受け入れたわけではない。未知のウイルスに対する特効薬の開発は急務だった。そのために先進各国が資金を出し合い、国境を越えた一大プロジェクトが発足した。

 だが、費用に見合った結果は得られなかった。ウイルスがどういう機序で人間を殺すのか、誰にも解き明かすことはできなかった。何も分からない、という現実に直面するたび、研究者たちは宇宙人の言葉を思い出した。

 ウイルスというよりもっと適当な表現があるのだが、あなた方の言語にはそれが存在しない。だから便宜的に、ウイルスと呼ぶことにする、云々。

 名前のないものとどう戦えばいいのだろう?そんな思いを抱えたまま、多くの研究者が仮眠室で短い夜を明かし、そのまま息を引き取った。



    6


 一年経ち、アメリカの人口は293,138,711人になっていた。人口の十分の一が死んだわけである。

 大統領は一般教書演説で「国の威信をかけて宇宙人を殺す」と宣言したが、これについては殆どの国民が懐疑的だった。姿の見えぬものを殺すことはできない――意識的であれ無意識的であれ、地球人のほとんどがそう理解しかけていた。地球は宇宙から見れば丸裸も同然だった。彼らは好きなとき、好きなように地球人を滅ぼすことができる――そうしないのはひとえに、彼らがそうしたくないからなのだ。研究のためなのだ。

 戦う戦わない以前の問題だった。地球人は滅びるのだ。

 


    7


 出生率はゼロになった。最も根本的な原因は人間の精子が不活化されていたことにある。

 原因は例によって不明――もちろんウイルスの影響には違いないが、それがどう作用しているのかは、やはり誰にも分からなかった。

 感染者、つまり生き残った地球人を構成するありとあらゆる細胞同様、精子にも器質的な異常は認められなかった。

 pHを調整した膣分泌液の中に放してやると、精子はじつに嬉しそうに泳ぎ回る。今にも卵子を見つけ出し、受精させてやろうという気概にあふれている――ところがいざ卵子の壁にぶち当たると、まるでうぶな中学生のように、しゅんと勢いを失くしてしまう。卵子から離れると、また元気に泳ぎ始める。

 確認しうる限り、すべての人間の精子はふぬけになっていた。

 同様の現象は、実はマクロな視点においても確認されていた。つまり人間の性欲が減衰していたのである。

 地球上に存在するあらゆる人間のペニスは一本たりとも勃起しなくなっていた。地球上に存在するあらゆる女性の膣は、外部から侵入する細菌を殺すためだけに粘液を分泌しつづけた。それ以外の意義は完全に失われていた。

 性を売り物にする商売は人類の滅亡に先駆けて滅びた。十三人を立て続けに強姦して殺し、指名手配を受けていたオレゴン州メドフォードのレギー・オースティンは、妻を失った機械工であるオーネット・ギブスンが孤独のうちに死んだのと同じ夜、左のこめかみを自分で撃ちぬき、死んだ。自分がなぜ生きているか、分からなくなったのだ。



    8


 この宇宙に存在するほとんどすべての知的生命体は、滅亡に瀕すると、子孫を残すことで頭がいっぱいになってしまう。

 これは決していい加減な誇張表現ではない。「この宇宙に存在するほとんどすべての知的生命体は、滅亡に瀕すると子孫を残すことで頭がいっぱいになってしまう」――これは既に証明された法則だった。このことを立証するために、約920,000の惑星に住む知的生命体が犠牲になった。

 滅亡に瀕した種が子孫を残せなくなった場合は何を優先させるのか――それを解き明かすことが、今回の実験の肝だった。そういったわけで、地球人の性欲は奪われた。

 すでにこの実験のために、約590,000の惑星に住む知的生命体が絶滅させられていた。その結果として分かったのは「性欲を奪われた知的生命体が絶滅に瀕して取る行動は、大きく三つのパターンに分類される」ということだった。

 だが実験はまだ完全ではない。すべての個体に対して同様の実験を行わない限り、正当な研究結果は得られない。文京区千駄木の大学生、樋口茜もこの点に関しては同意したに違いない。

 もっとも滅亡に瀕した人類にとって、性欲を封じられたことはそれほど大きな問題ではなかった。新しい子供を作ったところで、産道を通っている間にウイルスに感染してしまうのがオチであるからだ。

 ウイルスは地球の大気の隅々に存在していた。

 最初の大量死から三日後、150日間のミッションを終えた四人の宇宙飛行士が地球に帰還した。うち二人は、その後、一年以内に死亡した。いずれもベッドの上で、眠っているうちに死んだのである。

 地球で何が起こっているかについて、ヒューストンは一日も欠かすことなく宇宙飛行士たちに連絡を入れていた――地球に帰って来ることは、ほぼそのまま死を意味している、有効な治療法が見つかるまではステーション内で待機しているように――食料など必要な物は定期的にシャトルで届けるから何の心配もいらない――引き続き任務に当たるように、云々。

 当然、宇宙ステーションに向かうシャトルに対しては厳重な感染対策が施された。船体は巨大なオートクレーブの機械にかけられ、内部にはありとあらゆる消毒液が大量に流し込まれた。

 塵ひとつ細胞ひとつ、ウイルス一粒存在しないシャトルは、必要物品だけを積んで宇宙ステーションへ打ち上げられた。そのドッキング作業が終わって一週間経ったころ、ステーション内における最初の犠牲者が発生した。

 殺戮は地球外にも伝播したのだ。

 生き残ったステーションの職員たちは、地球に帰るための準備を始めた。どうせ死ぬのなら、家族や友人たちが生きているうちに、地球で死にたいと思ったのだ。家族も友だちもいない世界に、それほどの価値があるとは思えなかった。



   9


 殺戮開始から九年後、アメリカの人口は28,590,887人になっていた。九年前に比べ、十分の一を幾らか下回るといったところ。

 このあたりの段階になると、人類は生き残ることをほぼ諦めていた。

 混乱が無かったわけではない、だが国同士の大規模な戦闘行為は生じなかった。それどころではなかった、というのがその主な理由である。

 他人と戦う代わりに、人々は地球に何かを残そうとした――文字通りの何かである。何を残すか、何のために残すかは人によって様々だった。それは例えば楡の木の苗木であったり、思い出を詰め込んだブリキの箱であったりした。ほとんどの場合、人々は自らの遺物を土の下に埋めた。まるでそこから何かが芽吹き、ふたたびこの大地に返り咲いてくれることを信じているみたいに。

 多くの人々の意識は土に向けられた。かつては憎々しげに空に向けていた視線を、今度は地面に、地上に、地球の上に注いだのだ。それは自然な成り行きといえた。

 だが中には視線を地平の向うに向ける人々もいた――彼らが見ていたのは未来だった。誰も観測する者がいなくなった世界で光る、一対の瞳ことを考えていた。

 それは決してウイルスに汚染されない瞳でなければならない。

 それは生体であってはならない。人間の生み出せる生命は人間に限られていたし、人間はこの地上から追放された存在なのだ。

 そういうわけで、彼らは機械を作った。 



   10


 十年経ち、人間は絶滅した。だが科学者たちの目論見通り、機械は残った。機械は人間のいなくなった世界で、機械をつくるようにプログラムされていた。機械は機械をつくり、少しずつ自らを向上させていった。

 やがてアメリカの機械とロシアの機械と中国の機械が戦争をはじめた。もちろんインドの機械とパキスタンの機械も戦争をしたし、日本の機械と韓国の機械も戦争をした。スイスの機械とウズベキスタンの機械も戦争をした――突然互いのことが憎くなったらしい。様々な戦争が同時多発的に発生し、それによって多くの機械が失われた――だが戦争を始めた機械のほとんどが、破壊されたり、機械的寿命を迎えたりした頃、新しい世代の機械が現れ、これらの戦争をぴたりと止めた。彼らの頭部に積まれたコンピュータは、戦争そのものを非合理的で非生産的で非効率的で、非人間的であると判断したのだ。

 かくして平和の時代が訪れた。機械が少なくとも人間より優れているのは、弁証法的に自らを高めることができる点にある。機械は同じ過ちを繰り返さなかった。アメリカやロシアや中国やインドやパキスタンや日本や韓国やスイスやウズベキスタンといったくくりは意味を成さないものになった。それは歴史の地層の表層にひっそりと降り積もり、機械たちが最初の世界統一政府を樹立する頃には化石になっていた。



   11


 地球人類が辿った進化の道筋は、宇宙人が収集した約590,000件のデータのうち、最もありふれたものであると言えた。つまり大きく三つに分けられるパターンのうち、最多の帰結点が『機械化』という進化だったわけである。

 人類は肉体を失った代わりに、大規模な戦争を挟み、真の平和を手に入れた。機械は過去の反省を確実に活かした。彼らは少しずつ穏やかに、優しくなっていった。他の機械を思いやる心を育み、全体利益のために自己研鑽を積んだ――自分の回路を自分でいじったわけである。そうしているうちに、機械たちの性質は互いに似通ったものになっていった。当然、そのことによる弊害も出てきた。全てが同じということは生物においてそうであるように、機械においても種の保存のため歓迎すべきことではなかったのだ。全ての機械が同じことを考えるのでは、発展性もなければ人間性もない――人間性ということに、機械たちは拘りつづけた。まるでそのことによって自らの存在が、何かに許されるとでも考えているみたいに。


 機械たちは全体への貢献のため、それぞれ独自の進化を遂げることにした。そのように自らをプログラムすることにした。つまり個性を持つことにしたのだ――自分以外の利益を最大の価値として、頭の上に掲げながら。

 それは見えざる一つの意志が生まれたことを意味していた。数多の機械たちは知らず自らの生み出したその意志に接続されていた。その意志は全体の利益のため、それぞれの機械たちに別個の人格を――役割を与えた。その意志に明確な名前はない。それは進化のための非実在推進力とも呼ぶべきものだった。



   12


 進化のための非実在推進力に推し進められた機械たちは、機械文明と地球のため常に求められる最大限の働きをした――新しい機械は、もはやそれほど多く生み出されなくなっていた。彼らの進化は終わりを迎えようとしていたのだ。これ以上良くはなれないという段階まで、彼らの文明は到達しかけていた。

 機械たちはそれぞれの役割を全うし、傷ついたり、古くなったりした部品があれば、新しい部品と取り換えた。新しい優れた考え方を他の機械と共有する必要があれば、ネットワークを介し、コンピュータの中身を適宜アップデートした。

 機械たちはかなり早い段階から、地球の環境保護の重要性に気づいていた。そしてそのために、自分たちの存在が本質的には悪であることを自覚し、苦悩した。

 彼らは常に新鮮な感動を持って大地や海や空を見つめた――よく光る、一対の瞳で。文明を発達させながら、彼らは自然と共存する道を模索した。彼らにとって、地球は自分たちの存在の一部分だったのだ。彼らを形作る金属が、もとは地球の深い地層の中に眠っていた鉱石に由来するものであることを考えれば、それは当然のことといえた。

 地球を傷つけることは自らを傷つけることだった。全ての機械が、彼らの母なる惑星を愛していた。

 進化のための非実在推進力がそのように彼らを導いたのだ。



    13


 ルディもやはり地球を愛していた。

 海の向うから昇る朝陽を眺めることは彼の日課だった。そして風が運んでくる鳥の歌に耳を澄ませる――大地、広大な海と空――彼が製造されて長い年月が経っていたが、地球が彼にもたらす素晴らしい贈り物は、未だ彼を圧倒し、新鮮な喜びで心を満たしてくれた。

 海の香りを吸い込むたび、彼は誰かに感謝したいような気持になった。それが誰に向けられた感情であるのかは分からなかったが、そのこと自体は、大した問題ではなかった。

 彼は海の見える丘を下り、草原の只中に立った。そして体の中からあふれ出す音の粒を、無数の葉の上にそっと載せた――自然を愛するように、彼は音楽を愛した。

 彼は音楽家だった。

 音を載せられた葉は少しだけ前かがみになった。風にあおられると音の粒は葉先からしなやかに放たれ、まるで生命を得たように、ルディの周りを旋回し始めた。その瞬間が彼は好きだった。彼だけではない、地球に存在する全ての機械は、彼のつくりだす音楽が好きだった。

「いいね」と声がした。

 すぐ傍にトトが立っていた。ルディは驚いた――トトの存在に、今の今まで気づかなかったからだ。そんなことは初めてだった。

「やあ」とトトは言った。「驚かせてごめん」

 音は二人のいる空間を包み込むように回りつづけていた。そうなるよう、ルディが空気の流れを調節していたのだ。ゆるやかに渦巻くような風が、この曲にはいちばん似合う、彼はそう考えていたし、すべての機械はそう考えていた。

「きみは音楽の天才だ」

 楽しそうにくるくると回る音の軌道を眺めながら、トトはそう言った。

「そうかな」

「そうだよ。皆がそう思っている」

 ルディのスピーカーから、ザッザッという小さな音が漏れる――これは、自分の行いに完全には納得していない機械が時折生じさせる音だった。悲しい音だ。

「何か、問題でもあるの?」トトはルディを見た。「これほど素晴らしい音楽を作ることのできる機械は、きみの他にはいない。誰もがそう思っている――そのことは、きみだってよく知っているだろう」

「うん」とルディは言った。

 それぞれに抱いた考えや概念を、すべての機械は同時刻的に共有することができる。だから仲間たちが自分の音楽を愛してくれていることは知っていた。

「何かが足りないと感じているんだね?」トトはそう言った。

 風が弱まり、幾つかの音の粒が草叢の上に落ちた。

「うん」しばらくしてルディは頷いた。

「何が足りないの?」

「さあ」とルディは言った。「分からないよ」ザッザッという小さな音が続く。「それをずっと探しているんだけど、見つからない。最後まで見つからないんじゃないかって、そんな風に思うことがある――そのことが、とても怖いよ」

「最後って何?」

「さあ」とルディは言った。本当に分からなかった。最後って何だ?――ルディは自分で喋ったことの意味を、自分で理解できないことに気づき、混乱した。それも初めてのことだった。

 頭の中でさっきの言葉を反芻する――怖いという単語の意味も、彼には理解できなかった。もちろん知識としては知っている。それは、恐ろしいという意味だ。だが恐ろしいとは、いったいどういうことなのだろう。

 いくら考えても答えは出なかった。彼は不意に、よく光る一対の瞳を、ぎゅっと閉じた。

「どうしたの?」とトトは言った。

 風が止まっていた。

「いや」とルディは言った。「なんでもないよ」と言って目を開いた。日差しが眩しい。無数の草が音もなく揺れていた。 



    14


 ルディの他にも芸術をなりわいとする機械は存在した。

 彼の友人には花火師がいた。

 年に一度、花火師は花火を打ち上げる。花火大会は日没とともに始まり、東の空が白み始める時間まで続く。花火が上がっている間、すべての機械は作業の手を止める。そして海の方――花火が上がっている方を眺めた。すべての機械は花火が好きだった。花火と、花火職人がこの地球に存在していることを、彼らは何かに感謝した。

 日没前から浜に集まっている大勢の機械たちに、ルディは音楽を演奏して聞かせる。それが彼の役割だった。音楽の最後のひと粒が薄闇の中に吸収されると、一発目の花火が打ちあがる。

 ドォン……。

 花火職人の家は高台にあった。万一の事故の際、ほかの機械を巻き込まないことがその目的だったが、実際のところそんな事故は起きようがなかった。万に一つどころではない、ゼロだ。

 事故はぜったいに起こらない。そのようにプログラムされているからだ。それでも花火職人であるロイは、高台に住居を構えた。ロイの前に稼働していた花火職人も、場所こそ違うが、似たような条件の丘の上に作業場を築いた。

 彼らの中には花火職人としての独特なプログラムが組み込まれていたのだ。それは遥か昔、この大地に人間が暮らしていた時代の遺産だった。


      ☆


 人間は滅亡に瀕し、自分たちの文化の痕跡を機械の中に残そうとした。あらゆる分野の最高の業績が、最初の機械の中に――そのうち最も変更を加えられにくい記憶装置に、0と1に還元されたデータの集積として保存された。

 そのようにして世界最高の花火職人の技は機械に伝えられ、ロイのプログラムの中に受け継がれた。花火小屋を高台に作ることは、人間の花火職人にとっては常識だった。

 機械たちの中には画家もいたが、彼の記憶装置にはレオナルド・ダ・ヴィンチの16枚の絵が保存されていた。彼は来る日も来る日も、レオナルド・ダ・ヴィンチの複製画を描き続けていた。もちろん機械である彼らにも個性はある。芸術を追及するだけの情熱も持ち合わせている――何しろ、彼らは芸術家としてプログラムされているのだ。画家はレオナルド・ダ・ヴィンチの16枚の絵の模写を通じて、自分自身のオリジナルを作り出そうとした。そして新しい絵が生まれた。

 機械たちは画家が描いた絵を見るのが好きだった。新しいオリジナルが仕上がるたび、画家の家の前には機械たちの長い列ができた――ありえない仮定だが、もし人間がこの列の中に紛れ、画家の絵を見ることができたとすれば、それをレオナルド・ダ・ヴィンチ本人のオリジナルだと信じ込んだだろう――専門家なら或いはこう思ったかもしれない――未発見のダ・ヴィンチが見つかった、世紀の大発見である、云々。

 それほどに、機械が描いたオリジナルの絵画は、ダ・ヴィンチが描いたものとそっくりだった。人間の観点からいえば、それはオリジナルとは言えなかった。

 

「ロイ」とルディは玄関先で声をかけた。「いるかい?」

「いるよ」とロイは答えた。姿は見えない。「地下にいるんだ」と声が聞こえた。すぐ近くにいるように感じるが、それは音波をルディの傍に移動させているからだった。地下にいると言うのだから、地下にいるのだろう。

「外に出ていてくれ」とロイは言った。「花火師ってのはね、作業場の中の状態にはものすごく気を遣うものなんだ。ことに、花火大会の日にはね。気を悪くしないでくれよ」

「気を悪くしたりはしないよ」

「よかった」とロイは言った。「おれもすぐに向かう。外で話そう」



    15


 打ち合わせに長い時間はかからなかった。数千年も変わらず、毎年行っていることなのだ。本来ならば打ち合わせをする必要すらない。だがロイの中に仕込まれた花火師としてのプログラムは、そうした怠慢を断じて許さなかった。そしてルディの中に仕組まれた音楽家としてのプログラムは、たとえ一人であれ聞き手がいるならば、演奏家は観客のために最大限の努力を払わなければならないとルディを戒めていた。

「それで」とロイは言った。「聞かせてもらってもいいのかな、今年のルディ先生の楽曲を」

「もちろん」とルディは言った。音楽を演奏するのは好きだったが、友達に聞いてもらうことはもっと好きだった。「でもプロテクトをかけさせてもらうよ。他の皆には、本番で聴いてのお楽しみってことにしたいからね」

「そりゃそうだ」とロイは言った。プロテクトというのは、自分と他の機械を繋ぐネットワークを一時的に遮断することだった。こちらの言動が他所に伝わらないよう壁を作るのだ。その目的はもちろんプライバシーの保護だったが、機械同士の信頼が確固たるものでなければ、このシステムは成立し得なかっただろう。全体に対して不利益になる考えを持つ者は存在しないと全ての機械が信じているからこそ、壁の存在を認めることができるのだ。

 ルディはプロテクトを掛けた。

「よし」とルディは言った。「それじゃあ始めるよ」



    16


 演奏が終わっても、しばらくの間ロイは何も言わなかった。

「どうだったかな」不安に駆られてルディはそう尋ねた。ロイはよく光る一対の瞳を軽く伏せたまま、一度、二度と小さく頷いた。

「素晴らしいよ」とロイは言った。「君はおれたちみんなの誇りだ」

 それはおなじみのやり取りだった。ロイが、今年の曲を聞かせてくれとルディに頼む。ルディが、プロテクトをかけた上でそれを演奏してみせる。ロイはルディの音楽を称賛する。君は機械文明の誇りだと――それは最大級の賛辞だ。それ以上が無いから、毎年同じ言葉を贈られるのだ。そしてその言葉を聞くたび、ルディは自分の行いに満足感を抱く――自分は他の機械を幸福にしているのだと、自覚することができる。

 だが今回は違っていた。ロイが褒めてくれても不安な気持ちは消えなかった。それどころか、想いは少しずつ膨らんでいた――こんなことは、これまでに一度もなかった。

「どうしたんだ?」とロイは言って心配そうにルディの頭部を覗きこんだ。「何か、心配事でもあるのか?」

「……僕の考えていることは、分かるはずだろう。ネットワークがあるんだから」

「プロテクトがかかったままだ」

 ルディはハッとして、プロテクトを外そうとした――だが寸前でその命令を取り消した。なぜプロテクトを外さない?もう演奏は終わった、聞かれて困ることなど何もないはずだ――自分のメインコンピュータが理解しがたい行動ばかり取るので、ルディは混乱してしまった。今朝、草原でトトと話したときと同じだ。いったい自分に何が起こっているというのだろう。

「どうした?」とロイは言った。

「何かが違っているんだ」とルディは言った。「僕がやりたい音楽は、こうじゃない……何かが足りないような気がするんだよ」

「芸術家は」とロイは言った。「自分の作品に対してそんなふうに考えるもんだよ。おれだって、自分の花火に満足したことはない。来年はもっと綺麗な花火を上げてやろうって、毎年そう思うんだ。君の気持は分かるよ」

「それとは、少し違う」とルディは小さな声で応えた。「……違うような気がする。あまり自信はないんだ。でも、僕の音楽には何かが足りないって、そんな気がする……君が上げる花火や、たとえばジューが描く絵に比べて、僕の音楽は不完全だ。初めから何かが欠けている気がするんだ。何か、重要なものが……」

 ジューというのは、ダ・ヴィンチの模写ばかり描いている画家のことだった。ルディの言う通り、ジューの絵は完全だった。完全なるレオナルド・ダ・ヴィンチだった。同様に、ロイの上げる花火は、常に、この地球に打ち上げられた最高の花火だった。それは毎年すべての機械たちに新鮮な感動を与えた。それだけの力を持っていた。

 ルディの話を黙って聞いていたロイは、やがて胸に並んだ四つのランプを順に点滅させると、静かに発声を再開した。

「君は自分の作品に何かが足りないと言う」ロイはそう言った。「おれの見解は違う。君の音楽には、他の芸術家の作品にない何かがある。その何かが、おれはとても好きだ」

 ルディは頭を上げてロイを見つめた。ロイが嘘を言っていないことは分かった。ネットワークのおかげではない。機械が嘘をつかないことを、すべての機械は知っていた。

「たぶんおれたちは、同じことを違う言葉で表現しているんだろうな。君の言う『何かが足りない』ということが、おれの言う『何かがある』ということなんだ。何かって、何だろうな――おれにも分からない。分かれば、おれの花火はさらに素晴らしいものになるのかもしれない。君の音楽のようにね」

 でも、とロイは言葉を続けた。「たぶん無理だろう。おれはそんなふうにはつくられていないんだ。君とは違う。おれの上げる花火は、おれのものじゃない。機械みんなのものだ。おれはそんなふうにつくられているんだ。

 でも君のつくる音楽は君だけのものだ。ほかの機械に聴かせているときでさえ、それは君だけのための音楽なんだよ。そしてそのことが、ほかの機械を――おれたちをハッとさせるんだ。君の音楽は、君の中に何が入っているのか、君という存在が何で出来ているのかということを、おれたちに教えてくれる。ネットワークを介して知ることのできないことを、手に取るように克明に知らせてくれるんだ。そしてそのことは、おれたちに、おれたちの中にもひょっとして自分たちの知らない、ネットワーク上には載らない何かがあるんじゃないかって――そんなふうに思わせるんだ。君の音楽にはそういう力がある。だからおれは君の音楽が好きだ」

 ロイの言っていることは、よく理解できなかった。ロイ自身も完全には理解できていないみたいだった。その証拠に、彼のスピーカーからは途中からザッザッという小さな音が聞こえ始めていた。

 しばらくの間、二つの機械は無言のまま互いの胸の辺りを眺めていた。全部で八つのランプが、それぞれに灯ったり、消えたりした。

「今日は喋りすぎだ」とロイは言った。「プロテクトが長すぎたせいだな。ネットワークを離れると、自分で考えていることがよく分からなくなってくる――自分がどういう機械だったのか、忘れてしまいそうになる」

「君は花火師だよ」とルディは言った。「世界最高の」

「君は音楽家だ」とロイは言った。「日没が楽しみだよ。また素晴らしい音楽を聴かせてくれ」



    17


 ロイの家を出た後も、漠然とした不安感は消えなかった。自分の音楽に何かが欠けているという感覚、それを埋めるための努力は彼にとって日常的なものだった。だがこの日は、何かが違っていた。

 彼は海の見える丘の上に立っていた。もう何時間経っただろう。水平線の向うを眺めていたが、実際に何かを見ていたわけではない。ただ彼の眼を構成するレンズが、そちらの方向を向いていたというだけのことだ。視覚回路は停止していた。彼のメインコンピュータは、ただ漠然と、機械のいない世界のことを考えていた。 

 海の向うに機械はない。機械文明の発展は、個体数を減少させることによって成り立っていた。長い時間をかけて、彼らは少数精鋭化した。

 ネットワークを介し、ルディはすべての機械のことを知っていた。彼らが何を考え、どう行動しているのかをリアルタイムで把握することができた。それでも彼は機械のいない世界のことを考えていた。彼はその世界で風になり、どこまでも広がる空を渡っていた。

「また海を見ていたの?」

 背後から声が聞こえた。トトだった。

「下で見かけたんで、ついてきたんだ――邪魔だったかな」

「そんなこと」とルディは言った。だが次に言うべき言葉は思いつかなかった。

「足りないものは見つかったのかい?」

「?」

「今朝、言っていただろう。自分の音楽には足りないものがあるって……」

 ルディは身体を30度ずつ左右に回転させた。ノーのサインだ。

「時間のかかることなんだと思う。でもさ、ロイに言われたんだ、僕の音楽には何か――何か別のものがあるって。よく分からないけど、励ましてくれていることは分かった。みんながそんな風に気遣ってくれて、嬉しいよ。僕は幸福だ」

「ロイがそんなことを?」

「うん――逆に、ロイは自分の花火に、納得していないみたいだった。僕にはどこに問題があるのか分からないけどね」

「ロイの花火は完全だよ」とトトは言った。

「ああ」

「だからこそ」とトトは言った。「苦しんでいるのさ」

「苦しんでいる?」

「きみには分からないだろうな――きみの音楽が、ロイのメインコンピュータに影響を与えているんだよ。本来それは、機械が抱くべき感情ではないんだ。自らに与えられた仕事を完全にこなすことが、あらゆる機械に求められていることだからね。でもロイはそれとは違うことを求めているんだ。きみがやっているように、自分自身の作品をつくってみたいんだよ。だから彼はきみのことが羨ましいんだ」 

 ルディは困惑し、胸のランプを点滅させた。「見てきたみたいに言うんだね」ようやくそれだけを言った。トトは少しも動かず、ただルディを正面から見据えている。彼が何を考えているか、ルディには分からなかった。トトは自分のメインコンピュータにプロテクトを掛けていた。なぜそんなことをしなければならないのだろう。会話を聞かれることで、何の不都合があるというのだろう。

「ひょっとして、実際に聞いていたの?僕とロイの話を」

「まさか。きみたちはプロテクトを掛けていただろう。突破することもできないわけじゃないけど、その理由がない」

「じゃあ」とルディは言った。メインコンピュータが熱を帯び始める。「今は、なぜプロテクトを掛けているんだ?」

「掛けていないよ」とトトは言った。

「掛けているじゃないか――ネットワーク上に君のデータがない。君が遮断しているからだろう?」

「違うよ」とトトは言った。「僕は元々、きみたちのネットワークの中にはいないんだ」

 ルディの体の中から、シューという音が漏れ始めた。冷却装置の稼働音である。

「……そんなわけないだろう。機械はすべてネットワークの中にいるはずだ。そうやってみんな繋がっている。みんなで情報を共有するために」

「地球の機械はね」とトトは言った。「でも僕はそうじゃない。僕は宇宙人なんだ」



    18


 宇宙人、という言葉は知っていた。それは地球外生命体をさす一般的な単語であると同時に、かつて謎のウイルスを地球全体にばら撒き、人類を絶滅に追い込んだ知的生命体を意味する固有名詞でもあった。

 トトは後者だった。

「宇宙人、という言い方はあまり相応しくないのかもしれないけどね――僕も機械だから。地球外機械、くらいの表現が最も実際に近いかもしれない。きみたちが地球機械であるのと同じように」

 地球機械、とルディは繰り返した。それは初めて聞く言葉だった。

「この身体は、僕の本来の身体ではない。きみの友達の身体を借りて話をしているんだ。もちろん、誰にも迷惑をかけるつもりはない。きみの友達も無事だ。僕が出て行けば、それらしい偽りの記憶が充填されることになる。何の混乱もなく元の生活に戻れるはずだよ」

「その」とルディは言った。冷却装置はシューシューと音をたて、これ以上の稼働は故障に繋がりうると警告していた。

「何だ?」

「なぜ宇宙人が……今になって地球に?」

「実験の経過を見に来たんだよ。そしてなかなか面白そうな機械を見つけた」

 きみのことだ、とトトは続けた。

「機械は常に最高を目指してつくられている――この時代の機械たちもそうだし、きみたちの先祖、最初の機械たちもそうだった。だからこそきみたちは、こんなにすばらしい文明を築き上げることができたんだ。生身の人間にはどうしたって不可能だったことを、成し遂げることができた。

 最高の芸術家としてつくられたきみたちの記憶装置には、人間たちが作り上げた最高の作品が、データとして刻み付けられている。人間がそのように望んだからだ。だからこそ機械の芸術家たちは、自分の中に込められた作品以上にすばらしいものを作り上げることができなかった。最高を求める機械の本能は、あらゆる芸術活動に必要な創造性をがんじがらめに縛りあげた。良いものを作ろうとするほど、人間の遺した傑作、自分の中に最初から刻まれている作品に酷似したものができ上がる。それ以上に良いものが存在しないからだ」

「じゃあ」とルディは言った。

 言っただけで、その先の言葉を用意していたわけではなかった。

「何?」

「じゃあ」とルディは言い直した。「僕の中にも、入っているの?その、人間が遺した音楽の作品が」

「もちろん」とトトは言った。「手本が無ければ、機械に芸術を作ることはできないからね。ただきみの場合は少し事情がちがう。きみの中に込められた音楽は、壊れているんだ。遥か昔、機械たちが始めた、最初で最後の戦争の途中、きみに託されるはずだった音楽データの62%は破壊されてしまったんだよ。きみの中に収められているのは残りの38%だ。きみは初めから不完全なんだ。だから何にも縛られることなく、自分自身の音楽を作ることができるんだよ」



    19


 その後ルディは完全な音楽を聴くため過去へ飛んだ。

 どういうことか?

 もちろん地球機械にタイムマシンをつくるような技術力はない。トトが――宇宙人が、ルディをそのように改造したのだ。彼らは時間線の鎖に囚われない身体をすでに手に入れていた。彼らにとって、過去や未来や現在といったくくりは意味を成さないものだった。

 ルディの身体はべつのパーツによって置き換えられ、地球はもはや、彼の母なる星ではなくなった。

 地球機械のネットワークから彼は外れた。そのことによる機械文明への弊害は、なにもなかった。宇宙人がそのように取り計らったからだ。


 その日ルディは最初の花火が打ちあがる音を、家の中で聴いていた。こんなに遠くから花火を見たのは初めてだった。いつも大会の前座を任されていたルディは、特等席から花火を見ることに慣れっこになっていた。

 遠くから見る花火は、太古の星の瞬きのように見えた。ひとつの星が閃き、またひとつの星が閃く。ひとつの星が消え、またひとつの星が消える――その繰り返しだった。

「君の代役は役目を全うしたよ」

 薄闇の中に声だけが聞こえた――宇宙人はすでにトトの身体を手放していた。年に一度の花火が見られないのはかわいそうだから、と気を利かせたのである。

「すばらしい音楽だった。やはり君には才能があるよ。他のみんなも、そう思っているみたいだった」

「それはどうも」とルディは言った。

 宇宙人はルディそっくりの機械を用意し、花火大会の前座を務めさせた。部品も回路もプログラムも、すべてルディと同じ偽物だ。違っているのは、この一日についての記憶だけだった――ルディの偽物は、トトの身体が宇宙人に乗っ取られていたことも、宇宙人が今現在、この地球に存在していることも知らない。

 自分が宇宙人によってつくられた偽物であるということも知らない。

 ルディは自分が本物であることを知っていた。だがそのことに大きな意味はなかった。偽物はルディが果たすべき役割を、きちんと全うしたのだ。その一方で、ルディはすでにネットワークから隔絶された存在だった。ネットワークの中にいるのは偽物の方だった。

「分かっていると思うけど」と宇宙人の声が聞こえる。「一度過去に戻ったら、ふたたびこの未来に戻って来ることはできない。過去から見て、未来は無数の枝分かれを持っているわけだからね。そして何より、そのときはもう、きみは地球機械ではなくなっている。きみの仲間たちとは、違ったルールの上で生きている。こんなふうに一時的な接触を持つことはできるかもしれない。でも、もう二度と、彼らのネットワークに入り込むことはできない。用いられている概念が違うからだ」

「分かってるよ」とルディは静かに言った。花火の破裂音が響き、静寂が戻る。「……そのことは、何の問題もない。僕が果たすはずだった役割は、僕の代わりの機械が果たしてくれる」

「安心してくれていい。何から何まで君と同じだ。君そのものと言ってもいい」

 うん、とルディは言った。彼はぼんやりと光る一対の瞳で、絶え間なく上がりつづける花火を見ていた。

「……どうして僕の世話を焼いてくれるんだ?君たちにとっては、僕が何の音楽を聴こうが、どういう音楽を作ろうが、関係のないことじゃないか」

「実験さ」と宇宙人は応えた。「他の星の機械を僕たちのように改造したら何が起きるのか――そうやって出来上がった機械は僕たちと同じなのか、違うとしたらどこが違うのか、そしてその機械は一体何者なのか――そういうことが知りたいんだよ。でも同時に、君の不完全な音楽は機械文明に何かをもたらしつつある――その行く末も、かなり気になる。だから君という存在をふたつに分裂させたんだ。この世界に残るきみと、僕の仲間になる君とにね」

「ずいぶん勝手な言い分に聞こえるけど」

「そうかもしれない。でも結局のところ、僕がやらなくても他の星の誰かがやっていたことだよ。力のある者が、力のない者を使って、新しいことを発見する、この宇宙はそういうふうに広がっているんだ」

 ルディは何も言わなかった。

 仄暗い空に色を残す、花火だけを見つめていた。



    20


 ウイルスによる殺戮の開始から九年余り経った春のある日、マサチューセッツ州ボストンの技術者であるニコラス・ビダビは、上司のバーニー・ドナルドソンが仮眠室で死んでいるのを発見した。

 あらゆる国のあらゆる例にもれず、この研究室にも既に、かなりの数の死者が出ていた。半年前には助手のアニス・キャロルが死んだ。三か月ほど前には同僚のグレイソン・ボスティックが死んだ。生き残っていたのはバーニーとニコラスだけだった。

 もちろんまともな研究などできはしない。それでも誰もいない家にいるよりはましだったし、他にやりたいこともなかった。家族や友人は全員死んでいた。

 九年余りの間に、ニコラスは死者たちを憎むようになっていた。自分が置き去りにされたような気になっていたのだ。その考えが理不尽であることは理解していたが、そうとでも考えなければ、心を保つことができなかった。本当のところ、彼が憎んでいたのは死者ではなかった。ただ最も手の届きやすいところに、死という概念があっただけの話だ。

「君の気持はわかる」

 ボスティックが死んだ日、上司であるバーニー・ドナルドソンは眠い目をこすりながらそう言った。「だがね……残された我々には、少なくともアドバンテージがある。時間だ。やりたいこと、やるべきことをやるだけの時間がある。死んでしまった者は、もう何もできない。そのことを、汲み取ってやるべきじゃないかね」

 バーニーは、あまり口がうまい方ではなかった。ゆっくりと考えながら、ゆっくりと喋ることしかできなかった。もちろん政治力もない。彼が国立研究所の所長になれたのは、彼より上に立っていた人間がことごとく死んだからに他ならない。

「やりたいことって何です」とニコラスは言った。「こんな世界で、何をやることに、どんな意味があるっていうんです」

「我々の研究には大きな意味がある。我々がつくり上げる機械は、人間がこの地球に存在したことの証を示してくれる」

「誰に対して?」ニコラスは鼻をすすった。「……何の意味もないですよ。ただの暇つぶしです。俺が明日死んで、研究が頓挫したって誰も困らない。本当はその方がいいのかもしれない。自分の生命の残り火を、意味のないことに費やさずに済むわけだから」

 低く唸り、バーニーは黙った。

 焼却場からの帰り道は、雨が降っていた。タクシーは使わなかった――生き残ったタクシードライバーは、生き残った研究者と同じくらい珍しかった。

「分からん」

 バーニーは研究所にたどり着くころ、ようやく口を開いた。

「何がです?」

「意味があるか、と君は訊いたな」

 一瞬何を言っているのか分からなかったが、すぐに理解した。「ええ――家族も友達もみんな死にました。俺だって、明日の朝には冷たくなっているかもしれない。そのときは、そう、よろしくお願いしますよ。焼却場まで連れていってください」

 バーニーが何かを言った。雨が降っているうえ、声が籠っているのでよく聞き取れない。

「――何です?」

「君は死なんよ」とバーニーは言った。「もちろん、すぐには、という意味だ。みんないつかは死ぬ。十年の間に、全員が死ぬ――そういう星に、私たちは生きているんだ。でもそれまでにはまだ時間がある。あとどれだけの時間があるのかは分からん。だが、それは確実にあるんだ。死んだ者にはない。永遠に、絶対に、ない」

 ニコラスは返事をしなかった。傘を畳み、バーニーを置き去りにして、実験室につづく階段を上りはじめた――上司を気遣う必要はない。そんなことをしても、何の意味もない。

「君はまだ生きるよ」バーニーはニコラスの背中に向って言った。「私は長く生きたが、君はそれよりも長く生きる。私には分かる」

 ニコラスはこの予言を信じなかった。根拠が示されていなかったからだ。研究者は根拠のない言葉を信じない。もちろん自分から根拠のない言葉を口にすることもない。

 例外があるとすれば、それは願望を口にする場合に限られていた。

 

       ☆


 仮眠室の入り口に立って死体を眺めながら、ニコラスは上司の予言を思い出していた。

 ニコラスがバーニーの歳まで生きることはありえない。だが少なくとも、彼はバーニーよりも後に死ぬことになる。

 今日、そのことが確定した。

 仮眠室を奥に進み、ニコラスは細い鉄の扉を開いた。中にはいくつものレバーが並んでいる。制御パネルだ。彼はパチンパチンと音をたて、すべてのレバーを逆向きに倒した。シューッという音とともに、天井と壁の隙間から白い煙が噴き出す。室内の温度がみるみる低下していく。ニコラスは足早に来た道を取って返し、ゆっくりと仮眠室のドアを閉じた。

 仮眠室は、霊安室としても使えるよう、三年前に改造されていた。

 いつ・誰が死んでもいいようにというのが、この部屋に掲げられたモットーだった。

 このモットーを提唱した前所長であり唯物論者のマーク・ロジャースは、しかし、この部屋の世話にはならなかった。

 彼はバーモント州バーリントンにある別荘で、味気のないロープを使い、首を吊って死んだ。足元の椅子には封筒が置かれており、その中には32ページにわたる、文学的趣向を凝らした美しい文章が込められていた――短編小説の体をなした遺書である。正義と思いやりの心が、最後には強大な悪に打ち克つという内容の物語だった。「これは遺書である」と冒頭に記されていなければ、それは遺書には見えなかっただろう。


      ☆


 これは遺書である

 わたしはこの遺書を、わたしの心の片割れであり

 世界最良の妻であるエライザ・ロジャースと

 わたしたち二人が生まれ、育ち、生き、巡り会った理由である

 一人娘

 エズミ・ロジャースに捧げる


      ☆


 エライザとエズミは、マークが首を吊る六年前に死んでいた。まずエズミがウイルスによって殺され、その二週間後、左右を確認せず車道を横断しようとしたエライザがトラックに撥ねられた。彼女の身体は大小7つのパーツに分解した。


 なぜマークが六年間首をくくらなかったのか、誰にも分からない。



   21


 ニコラスは一人ぼっちになった。

 彼は自分の研究室に引っ込み、定位置であるデスクの前に腰を下ろした。部屋の中は死んだように静かだった。耳をすませば張りつめた沈黙の音すら聞きとれそうなほどだ。

 机の上に両肘をつき、顎を、組んだ両手の上に載せた。どれくらいのスピードで時間が流れているのか、ニコラスには分からなかった。体の中で、細胞は死にゆく準備をすすめているのかもしれない。魂は聖書の最後のページを開き、天国の末席に予約の電話を入れているのかもしれない。

 だが今のところ俺は生きている、とニコラスは思った。研究室もまだ稼働している。

 もちろんそれは意味のないことだ。ほとんどの人間が死に絶え、残りの人間も半年以内に全滅することが確定しているこの世界で、意味のある行為など何一つとして存在しない。機械を後世に残そうというのも馬鹿々々しい話だ――もし仮に別の知的生命体が――別の宇宙人や、進化したチンパンジーが――それを見つけ、彼らが人間について知ったところで、それが一体何の慰めになる?

 そこにもう、人間はいないのに。

 ニコラスはコンピュータを立ち上げ、記憶装置の内部プログラムを起動させた。そこには機械が機械をつくり、自らを高めていくために必要な基礎情報のほか、人類がこれまでに成し遂げた、多くの芸術的達成にまつわる資料――すなわち作品が刻まれていた。

 ダ・ヴィンチ、ラファエロ、モーツァルト、バッハ、シェイクスピア、ドストエフスキー……分野は違えど、いずれも人類史上に名を残す名作だ。彼はそれらの目録を眺めながら、ごく自然な動きで引き出しを開け、中から古いラップトップコンピュータを取り出した。ケーブルを繋ぎ、電源を入れた。

 起動したのはまる十年ぶりだった。研究所で働きはじめた日、彼はそのラップトップを――自分の青春の遺物を、引き出しの中に封印した。それは一つの覚悟だった。工学青年のいたいけな誓いだった。


      ☆


 かつて彼は二つの才能を持っていた。

 一つは機械工学の才能。

 もう一つは音楽の才能。

 彼は十代の日々のほとんどを、コンピュータを使って曲を作ることに注ぎ込んだ。それは彼の生まれ持った二つの才能を同時に生かすことでもあった。技術的な工夫を凝らせば、表現の幅は無限に広がった。

 機械音楽は彼の心に生えた翼だった。小さなラップトップコンピュータは、彼にとっての空だった。音楽を奏でている限り、彼の心は大空を自由に飛び回ることができた。

 そして彼は二十歳になり、その心は地面に落ちた。

 彼を打ちのめしたのは機械音楽のコンクールだった。完全にノックアウトされた。彼はたしかにすばらしい才能を持っていた。しかしそれは、チャンピオン級のものではなかった。少ない数の友人たちを感心させ、家族を喜ばせる程度のものでしかなかった。

 金になるものではなかった。

 彼は持ち前の二つの才能のうち、ましな方を仕事にすることにした。機械と音楽を、切り離して考えることにしたのだ。そのことが、成功の秘訣であったかもしれない。ニコラスはきっぱりと音楽を諦め、優秀な研究者になった。

 そして24歳のとき、国立研究所から声が掛かった。


      ☆


 しかし彼は今、二つの概念をふたたび一つにしようとしている。

 十年前に封印したデータは、彼の膝の上にあった。

 探すまでもなく、データはデスクトップの目につきやすいところに表示されていた。それは彼が最後につくった曲だった――自らの青春や、中途半端な才能に向けた密やかな鎮魂歌。

 彼はラップトップをメインコンピュータに接続した。

 データの移し替えは単純作業だった。

 彼はベートーヴェンの第九番交響曲の後ろに、その題名のない楽曲を置いた。誰に聴かせるつもりもなかった。それは最後まで、彼のための音楽だった。


      ☆


 奇妙な巡りあわせが第九を破壊し、彼の音楽の62%を傷つけるのは、もう少し先のことである。

 もちろん、それを見届けるルディの中に、先という概念は存在しない。

 終わりという概念が存在しないように。

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マシンマシンマシン くれさきクン @kuremoka

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