第二話 すべてを理解しているくん

 それから、職場では秘密にしたまま、翔吾との付き合いが始まった。


 初めてのデートは動物園だった。


 子供のようにはしゃぐ翔吾と、珍しい動物を見るのはそれなりに楽しめた。


「はい、いちかの分」


 そう言って翔吾がベンチに座っている私にソフトクリームを手渡してくる。

 『これからは名前で呼んでもいい?』と彼からメッセージが来たのは、告白されたその日のことだった。


 受け取ったソフトクリームの先端に噛みつくと、強烈な甘みが口の中に広がった。


「うん! 美味しいね」


 楽しそうな笑顔の翔吾に対し「うん、美味しい」と返す。


 しかし、彼の望むような表情ではなかったのか、翔吾は少し肩を落として前方に顔を向けた。

 まわりには家族連れが多く、子供たちの楽しそうな奇声がそこかしこから聞こえてくる。


「いちか、今日はありがとうね。久しぶりの動物園、楽しかったよ」


 翔吾が気を取り直したように言葉を掛けてくる。


「いちかも楽しかった?」


 じくり、と胸が痛む。

 白い和紙に墨汁を垂らしたように、心に翔吾の言葉が染み込んでくる。


 私はこの言葉を知っている。

 今まで百回以上は聞いた言葉だ。


 私と付き合った男はいつも同じセリフを言ってくる。


「楽しかった?」と。


 出来ることなら、デートの最中にずっと私に鏡を当てて欲しい。

 そうすれば私がどんな表情をしているか分かるから。

 私はそんなに楽しそうではないのだろうか。

 毎回毎回質問されるほど、仏頂面をしているのだろうか。


 でも、そんなことを聞き返せるほどの気持ちすら私は持ち合わせてはいない。

 だから毎回、小さな声で「楽しかったよ」と返すのだ。


 その後の男の表情もみんな同じ。

 少しだけ悲しそうな顔をして「なら良かった」と呟いては、空や海、あるいは足元の地面に目を向けて、もの思いにふけるのだ。


「うん、楽しかったよ」


 それでも私はそう答える。それ以外の言葉をどれだけ探しても、私のポケットには入っていないのだ。


「うん。なら良かった」


 彼も同じ。

 今までの男と同じセリフを、同じ温度で言い、そして寂しそうに遠くを見つめていた。




 夕方の帰り道、彼の運転する車がとある通りに入った。

 左右に並んだ建物はどれも、電飾が施されてピカピカと輝いている。

 彼の車がそのうちの一つに入って行く。外から見えないように配慮された建物一階の薄暗い駐車場だ。

 区分けされた広い駐車スペースに停車させると、彼が緊張した声で「いいかな?」と聞いてきた。


 ここまで来て「いいかな?」も何もないのではないかと私は思ったが、口に出さずにゆっくりと頷いた。



 部屋に入るなり彼が私を抱きしめてきた。


「いちか、大好きだよ」と言いながら。


 私も遠慮がちに彼の背中に手を回す。


 彼の抱擁が少し緩んだかと思うと、すぐさま彼が口づけをしてきた。

 こんな私でもキスはそんなに嫌いではない。

 誰かに愛されているという気にさせてくれるからだ。



 抱きしめられたまま部屋の奥まで連れて行かれる。

 いや、連れて行かれるというよりは相撲の押し出しのような形だ。

 そのままベッドに押し倒される。

 彼はひどく興奮しているようで、呼吸が荒く、顔は紅潮していた。


 もう一度荒々しく唇を吸われると、彼はそのまま私の首筋に顔をうずめた。


 「んっ」と私が小さく声を上げると、彼は顔を上げてとても嬉しそうな表情を浮かべた。


 知っている。――私はこの顔も知っている。


 私の喘ぎ声を聞いた男はいつもこの顔をする。


 普段、感情表現に乏しい私の新たな一面が見えたと喜ぶのだ。


 そうしてもっと私の声を聞きたいと、張り切って私の身体を弄ぶのだ。



 翔吾が鼻息荒く私の身体を舐め回す。

 ときおり反応を確認するかのように私の顔に目線を送ってくる。

 私は恥ずかしさも相まって、腕で自分の顔を隠す。

 思わず漏れ出す声以外は、極力歯を食いしばって我慢する。


「……もっと、声を出してもいいんだよ?」


 翔吾が耳元で囁いてくる。


 ――知っている。


 そうすることで男の人が興奮することも。


 でも、男性を悦ばせるためだけに声を出すようなサービス精神は持ち合わせていない。

 ただただされるがままに、私はこの身を捧げるのだ。


 こんな私を好きになってくれた、せめてものお礼の代わりとして。



 正直に言うと、セックス中の男の人はあまり好きではない。

 いや、はっきり言うと「怖い」のだ。

 デート中はあれだけ気を使って私の顔色を伺っていた人が、セックス中にはみな豹変するからだ。

 自らの手で、身体で、どうにかして私に声を出させようと、乱暴に思えるほどの動きと言葉を私に向けてくる。


 私はそんな彼らの気持ちを分かっていながら、それでも演技など出来るはずもなく、ただ嵐が過ぎ去るのを待つかのように、目を閉じて流れに身を任せるだけだ。



「いちか、愛してるよ」


「……うん」


「……気持ちよかった?」


「……うん」



 荒く息を吐く彼の腕に抱かれながら、私は壊れたロボットのように同じ返事を繰り返すだけだった。




 ******



 翔吾と付き合いだして半年ほど経った頃、私は体調を崩して会社を休んでしまった。


 長く続く高熱と全身の倦怠感で、思考もはっきりしないまま布団にくるまっている。


『いちか大丈夫? いま会社出たから何か欲しいものあったら買っていくよ』


 彼からのメッセージもぼやけている。

 寝ぼけたような思考回路のままなんとか返信をしたあと、気を失うように眠りについた。




「いちか、大丈夫?」


 呼びかけられた声に目を覚ますと心配そうに私のおでこに手を当てている翔吾の顔があった。


「うん、ちょっと熱は引いたかも」


 かすれた声でそう答えると、翔吾は安堵の表情を浮かべた。


「これ。いちかが食べたいって言ってた桃。買って来たよ」


 翔吾の言葉に、私は少し首をかしげた。


「ほら、メッセージで」


 彼がスマホを向けてくるので見てみると『桃が食べたい』というメッセージがあった。


「……これ、私が?」


「覚えてないの? ……しんどかったんだね。いま剥いてあげるからちょっと待ってて」


 そう言うと翔吾がキッチンに向かい袋に入った桃を取り出し皿を準備しだした。


 ゆっくりと身体を起こす。パジャマもシーツもぐしょぐしょに濡れていた。

 肌に張り付いたパジャマを引っ張ると、火照った身体に通り抜ける空気が少し冷たく感じられた。


「はい、桃切ったよ」


 皿にいびつな形で乗せられた桃を受け取ると、添えられていたフォークでそのひとつを口に運んだ。


「……美味しい」


 いつものように起伏の乏しい口調でそう呟くと、翔吾が満面の笑みを浮かべた。


「良かった。いま玉子粥たまごがゆ作るから、ちょっと待っててね」


 そう言うと翔吾は再びキッチンに向かっていく。


 その後ろ姿に「ありがとう」と呟く。


 こんな時、摩耶まやなら、ゴムで出来た摩耶のほっぺなら、素敵な笑顔を作れたことだろう。

 私のプラスチックのほっぺは、こんな時ですら上手く動いてはくれない。


 てらてらと光る桃をフォークでもてあそびながら、私は少しだけ悲しくなってしまった。



 後から知ったことだが、桃はこの季節には時季外れで、小さなスーパーなんかでは売っていなかったみたいだ。

 翔吾は私の何気ないメッセージのせいで、必死になって取り扱いの少なかった桃を探してきてくれたのだろう。



 とても、優しい人だと思った。

 今まで付き合った誰よりも、私のことを愛してくれている。

 そんな実感が確かにあった。




 ――そんなある日のことだ。




 その日の翔吾は、どこか様子がおかしかった。


 いつもデートの時は子供みたいにはしゃぐ彼が、なぜかその日は朝から険しい顔をしていた。


 彼がそんな様子だから、会話も弾むことなく、大型ショッピングセンターの中を二人して無言で歩いていた。



 休憩のために入ったカフェで、珍しく私のほうから聞いてみる。


「翔吾、なにかあったの? 今日、なんだか上の空みたいだから」


 私の問いかけに、翔吾がはっとした表情をして「いや、大丈夫。……楽しいよ」と返してきた。

 しかしその顔はどこか作り物のようで、ひとつも楽しそうには思えなかった。


 その彼の顔を見た瞬間、私の心臓が一気に冷たくなる。


 ――あぁ、そうか。


 私はこの顔を知っている。これは鏡越しに見た私の顔だ。

 いつもの私の顔だ。


 ――「ねぇ、いちか、楽しい?」

 ――「うん、楽しいよ」


 付き合っている男性にいつも聞かれる質問。

 私はきっとこんな顔で、ひとつも楽しくなさそうな顔で、彼らに答えていたのだろう。


 胸に一滴ひとしずく落ちた酸性の何かが、痛みを伴ってゆっくりと全身に広がっていく。


 そうか、私はいつもこんな思いを、こんなにも切なく寂しい思いを、彼らに味わわせていたのか。


 胸に広がる劇薬の名前は、嫌悪感だ。

 自分に対する嫌悪感だ。


 私は私が嫌いだ。

 プラスチックで出来たこの顔が嫌いだ。

 長年に渡り変わらなかった、変えようともしなかった自分が嫌いだ。



 気付かぬうちに、私の目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 広がった酸性に侵された、酸性の涙だ。


「い、いちか?」


 彼の心配そうな声が聞こえてくるが、私はぼやけた視界で握りしめた自分の手を見つめていた。



 私は知っている。

 今日の彼の雰囲気を知っている。

 この後の展開も知っている。

 この後に出るセリフも知っている。


 ――「いちかのことが、分からなくなったんだ」


 去って行った彼らと同じ言葉を、一字一句同じ言葉を、私はこの後聞くのだろう、彼の口から聞くのだろう。


 仕方ないと思っている。

 仕方ないと思わされている。

 鏡越しの自分を見せられて。

 そのつまらなさそうな顔を見せられて。

 誰が私を愛し続けてくれるだろうか。


 かりそめの愛を繋ぎとめておくための私の身体に飽きた時、彼らの心は離れてしまうのだ。

 きっと、同じようなタイミングで。


 今さらもう遅いだろうか。

 今まで付き合ってきた男の中で、あなただけは離れて欲しくないと。

 そう思っていたことを告げるには、今さらもう遅いだろうか。


 私にはそんな資格はきっとない。

 プラスチックの顔で知らず知らずのうちにあなたを傷つけた。

 そんな人間に、ゆるしをう資格などないのだ。


 気付けば大粒の涙を流していた。止めどなく出てくる後悔の結晶が、頬を伝って口元に落ちる。


「い、いちか? どうしたの?」


 せめて彼には、伝えようと思った。

 懺悔ざんげにもならない思いのたけを、少しだけでも伝えようと。


「……翔吾、今までごめんなさい」


「……え?」


「私、つまらない人間だから、どうすればいいか分からないから、いつも不愛想で、楽しくなさそうで、美味しくなさそうで。それできっとあなたを傷つけた」


 翔吾は戸惑いの表情を浮かべて、私の言葉を黙って聞いている。


「だから、あなたに振られても仕方がないの。……だけど。私はあなたが好きだった。いまはっきりと気付いたの。でも、もう遅いよね。今になって気付いても、もう遅い……」


「いちか、どういうこと?」


「……だから。翔吾、今日別れ話をしたかったんだよね? ごめんね、言いづらかったと思う。でも、私は大丈夫だから。もう覚悟は出来ているから」


「ちょ、ちょっと待って。いちか、なにか勘違いしてない?」


 彼があまりにも動揺しているので、私は顔を上げた。


「だから、今日、別れ話をしたかったんじゃ?」


「そんなわけないよ!」


 そう言った後、彼が「あー」と声を漏らして視線を空中で泳がせた。


「あー、そっか。……ごめん。おれが緊張してたせいで、いちかに変な想像させちゃったね」


 彼の言葉に、私はわずかに首をかしげる。


「……ほんとは、夜に予約してたレストランで言うつもりだったんだけど」


 そう言うと彼はカバンをまさぐり、何かを取り出した。

 その小ぶりの四角い箱を見た瞬間、私の心臓が強く跳ねた。


 翔吾がゆっくりと箱をひらく。


「……いちか。おれと、結婚してくれませんか?」


 彼の言葉が耳に届くと、酸性だった涙の痛みが和らぎ、かわりに温かく清らかな湧き水に変わった。

 今まで感じたことのないようなその温もりを、人は「幸せ」と呼ぶのだろうか。


「……はい。よろしく、お願いします」


 震える声で答えた私の手を、彼が優しく包み込む。


「いちかは、気付いてないかもしれないけど」


 彼はまるで独り言のように話し出す。


「いちかは自分が思ってるより表情豊かなんだよ? 確かに、初めはちょっと分かりづらかったけど」


 彼がふふふと笑みをこぼす。


「いちかがほんとに楽しいと思っているときは、ほっぺに小さなえくぼができるんだ。ほんとに小さなものだけどね。それに気付いた時は嬉しかったなぁ。逆に不機嫌なときはかすかに首筋に力が入るんだ。……あ、これは言わないほうが良かったかな?」


 歯を見せて笑う彼につられるように、私もかすかに笑みをこぼす。


「で、いまみたいにたまに見せてくれる笑顔がとても可愛い」


 彼の手が愛おしそうに私の手をさすってくる。


 彼はずっと見ていてくれたのだ。

 こんな私を。愛想の悪い私のことを。その小さな表情の変化を。


「……翔吾、ありがとう」


「お礼なんていらないよ。おれは、ただ君のことが大好きなだけなんだ。ただ、それだけ」


 ただそれだけのことが、私にとってどれだけ大きいことなのか。

 私は彼に伝えたくて、少しだけ柔らかくなったプラスチックの顔で、精一杯の笑顔を作った。




 ******



「いちか! いい天気だよ!」


 ベランダに出た彼が元気よく声を出し大きく伸びをした。


「うん」


「洗濯日和だね」


「うん」


 私は洗濯カゴを持って彼の待つベランダに向かう。


「さぁて、さっさと終わらせて、買い物行こうか」


「うん」


 彼がカゴに入った洗濯物を取り出し、ハンガーに通してから次々と物干しざおにかけていく。


「……ねぇ、いちか」 


「うん?」


「なんか、幸せだね」



「……うん」




 ――ねぇ、翔吾。


 いま、私の固いほっぺたに。


 あなたが見つけてくれたあの、


 小さなえくぼは浮かんでいますか。




【プラスチックの溶ける温度――完】

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プラスチックの溶ける温度 飛鳥休暇 @asuka-kyuka

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