プラスチックの溶ける温度
飛鳥休暇
第一話 感情表現苦手ちゃん
「いちかのことが、分からなくなったんだ」
――あぁ、またこのセリフ。
目の前の彼はとても苦しそうな顔をして目線をテーブルに落としている。
「いちかは、本当は僕の事、好きじゃないんだろ?」
「そんなこと――」
ないよ、と続く言葉を私は飲み込んだ。
否定したところで、目の前で泣きそうになっている彼の気持ちが晴れることはないだろう。
いまここで否定することは、彼を救うためというよりは自分への免罪符が欲しいからに過ぎないのだ。
「……ごめんなさい」
私は小さくそう答えた。
あなたの事は好きでした。でも、あなたを苦しめていたことに対して、せめてそれだけは謝りたかった。
「……さよなら、いちか」
大きくため息を吐いてから、別れのセリフだけを残して彼は伝票を持って立ち去ってしまった。
残された私はカップのふちに残されたコーヒーの跡の円周を、ぐるぐるとゆっくり目線で追っていた。
これで三人目。
まったく同じセリフで恋人が去って行った。
『いちかのことが、分からなくなったんだ』
去って行った恋人たちは、みな同じような表情で、苦しそうな表情で、私に目線を合わさずにそう言ってくるのだ。
******
「また同じセリフぅ?」
友人の
顔は火照ったように赤みを帯びていて、すでに出来上がっていることが見て取れる。
「……うん」
私はテーブルの上の料理に目線を置いたまま、小さくうなずく。
「ったく。男は勝手だよねー。そんないちかを好きになって告白してきたんじゃないかって、ねぇ?」
摩耶が大げさな動きで私の顔を覗き込んで来る。
「……でも、悪いのは私だから」
「なんでよ。いちかは全然悪くないわよ。まったく、こんなに可愛いいちかちゃんを振るなんて、ほんとどうにかしてるわ」
そう言って摩耶は手を上げ店員におかわりを要求する。
「えーっと、これで? 高校、大学、んで社会人になってすぐ。計三回、同じセリフを言われたってことでしょ?」
「……うん」
「なんでだろーねぇ。なんでだろう」
摩耶がアゴに手を当て首をかしげている。
そんな仕草を、私は可愛いなと思って見ていた。
「原因は、分かってるの」
私がそう言うと、摩耶が顔を上げて私に目を向ける。
「私、感情表現が上手くないから、一緒にいてつまらないんだと思う」
私の言葉に、摩耶の片眉がぐいっと上がるのが見えた。
「いちかぁ、そんなことないって。私はいちかといると楽しいよ? ちゃんと話聞いてくれるし、落ち着くというか」
「私も摩耶みたいに出来たらいいなって思ったりする。大きく笑ったり、怒ったり、悲しんだり。摩耶のそういうとこ、すごく羨ましい」
「なに? いちか私のことちょっとバカにしてるぅ? うるさい女だって」
そう言って大きく笑う摩耶が、やはり私には眩しく映る。
「大体、男はね、みんないちかみたいな大人しい女の子が好きなんだよ。清楚系っていうか、
摩耶は運ばれてきた新しいワインを一口飲んでから、ほっぺをぷぅと膨らませる。
彼女のほっぺはきっと柔らかいゴムで出来ていて、私のほっぺはきっとプラスチックで出来ている。
「……うん。ありがとう」
そう言って私も、まだ一杯目のワインをほんの少しだけ口に含んだ。
******
「
課長がそう言って私のデスクに大量の書類を置いて立ち去っていく。
「はい」
もう届かない返事を小さくしてから私は書類を一枚ずつ確認する。
手間ではあるが誰かがしていると役に立つ集計業務。
私はそれを黙々とパソコンに入力していく。
「藤野さん、大丈夫? 手伝おうか?」
ふいに掛けられた声に振り向くと、最近入社してきた
私のちょうど真後ろの席の彼は、入社こそ私より後ではあったが転職組であったため年齢は彼の方が一つ上だった。
簿記の資格を買われて、私と同じ総務の部署に採用されたと聞いている。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
私が表情を変えずにそう言うと、彼は少し寂し気に「……そっか」と言って自分の作業に戻って行った。
例えばこんな時、摩耶だったら愛想良く笑顔で返せるのだろうか。それとも相手に気を使わせないようにわざと少量だけ渡すのだろうか。
立ち回りも人当たりも良くない私には、どれが正解なのかも分からない。
なのでいつも人形のように固まった表情で、言葉を返してしまうのだ。
そんなある日のこと。
翔吾と二人で倉庫整理をしていた時だ。
「そういえば、藤野さんって彼氏いるんだよね?」
作業棚から目を離さずに、翔吾がそう聞いてきた。
「いえ、最近別れました」
「え!?」
私が言い終わると同時に、彼が目を見開いてこちらに顔を向けてきた。
どうしてそんなに驚いているんだろうかと私は小首をかしげる。
「あ、いや、ごめん」
と作業に戻る翔吾だったが、どこか落ち着きがないように見える。
不思議に思いながらも私も作業に戻ると、
「じ、じゃあさ。今度ふたりでご飯でも行かない?」
とまたしても作業棚に目を向けつつ翔吾が誘ってきた。
「はい。別にいいですよ」
そう私が答えると、翔吾は抱えていたダンボールを床に落とし、辺りに書類が散らばった。
「あ! いや! ごめん! よっしゃ! あ、そうじゃなくて、ごめん!」
翔吾が慌てふためいて書類をかき集めるので、私もそれを手伝おうと腰をかがめる。
散らばった紙をひとつひとつ拾い集めてダンボールに戻していく。
「じゃあさ、今週の金曜日とか、どうかな?」
書類を拾いつつ、翔吾が私に聞いてくる。
「はい、大丈夫です」
そもそも摩耶と会う時以外は、会社終わりに予定が入ることはほとんどない。
「ほんと? じゃあさ、じゃあさ、何か食べたいものとかある? イタリアン? 鉄板焼き? 焼肉……は匂いが付いちゃうか」
嬉しそうに問いかけてくる翔吾に対して、私は「なんでもいいですよ」と返す。
愛想のない返ししか出来ない自分が嫌になるが、基本的に私は受け身なのだ。
いや、受け身というと聞こえはいいが、実際は自分の意見を持たないだけなのだと理解している。
だから毎回言われるのだ「キミのことが分からない」と。
その後も、嬉しそうに料理を挙げていく翔吾を横目に、私は淡々と作業を続けた。
******
「ここさ、食べログで評判が良かったから選んだんだけど、どれも美味しいね」
最初の料理が運ばれて来てからずっと、翔吾は一口食べるごとに「美味しい美味しい」と笑顔を向けてくる。
野菜にこだわった創作料理屋のこの店は、聞き馴染みのない色とりどりの野菜がどの皿にも乗っている。
「……あんまり、口に合わなかったかな?」
リアクションの薄い私を見て、翔吾は心配そうな顔で聞いてきた。
「いえ、美味しいですよ」
あぁ、まただ。と私は思った。
私の「美味しい」や「楽しい」はどうやら相手には伝わりづらいらしく、いつも同席者に気を使わせてしまう。
「……そう。なら、良かった」
そう言うと、翔吾は少し寂し気に目を伏せてしまう。
でも、私にはどうしようもない。
この状況を打破できるような愛想も話術も持ち合わせてはいない。
「……あのさ」
翔吾が口元をナプキンでふき取り、姿勢を正す。
「あのぉ、藤野さんさえ良ければ、おれと付き合ってくれないかな?」
私にまっすぐな視線を向けてくる。
「……でも、私、こんな感じで、つまらない女ですよ。一緒にいても楽しくないと思います」
「そんなことないよ!」
私の言葉に、翔吾が大きな声で否定してくる。
でも――。
いつもそうなのだ。
私と付き合いたいと言ってくる男性は、いつも初めは「そんなことない」と言うのだ。
そして付き合いだしてしばらくすると、あのセリフを口にする。
「でも……」
「おれなんか、藤野さんのタイプじゃないかな?」
翔吾が軽く唇を噛んでいる。
その顔がどこか子供っぽく見えて、私は素直に「可愛いな」と思った。
「そんなこと、ないですよ」
「……ほんと? じゃあ、……どうかな?」
私は少しだけ沈黙した後、ゆっくりと首を縦に動かした。
そもそも、私は好意を向けてくる男性には弱いのだ。
ただ流されやすいと言った方が正しいのかもしれない。
「え? ほんとに? いいの? ……やった!」
胸の前で小さく何度もガッツポーズをする彼を見て、私も微かに笑みを浮かべる。
「あっ! いま笑った? え、めっちゃ可愛い。藤野さん、やっぱり笑ったほうが可愛いよ」
そう言われると逆に笑えなくなる。
真顔に戻った私を見て、翔吾は「あ、いや、ごめん」と謝ってきた。
その翔吾の表情に、過去の彼氏たちの姿が重なる。
きっと彼もそうだ。
私のどこかに幻想を見て、そして現実を知って離れていくのだ。
世の女性にとっては嬉しいであろう告白された日に、私の心は深く、暗く、沈んでいく。
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