【三】千年桜2

「時の流れとは早いものだな」

 太い木の幹に身を寄り添わせ、銀色の美しい長髪を風に流しながら、この桜の守人である静は佇んでいた。数百年に一度、記憶の解放と共にしか花を咲かせない千年桜は、蕾が色付き開花の時が近付いている。そんな桜を慈しむように身を寄せていた彼女は、自身を呼ぶ声に顔をあげた。

「おばあさま!」

「成則」

 白い水干を着た少年が白い袖を揺らしながら走ってくる。その愛らしい姿に、静は嬉しそうに目を細めた。姿こそ二十代前半ともいえる静だが、彼女は本来ゆうに百年以上は生きている。少年は彼女の愛する孫であった。そして彼女は、体に走った衝撃に孫が抱きついてきたのだと気付く。静はすっと手を伸ばし、自分の腰の辺りにある成則の頭を撫でてやった。

「よく来たね、成則」

 成則は静の手の温もりに、気持ち良さそうに顔をほころばせる。

「父様がいずれお前が守人になるのだから、開花の儀式をしっかり教わっておきなさいって」

「そうかい、勉強熱心なことはいいことだよ。けれど、今回はちょっと厄介なんだ」

「厄介って?」

「お前は、千年桜が永遠を生きることを捨てた時の旅人の記憶を糧として花を咲かせることを知っているだろう?」

 無邪気に聞き返す成則に苦笑を浮かべ、静は答えた。静の言葉に、勿論だと言わんばかりに成則が頷く。それを確認して静かは言葉を続けた。

「先日、一人の旅人が記憶を差し出してね」

 そこで言葉を一端区切り、静は悲しそうに桜の木を見つめた。旅人が記憶を差し出したということは、この世界に確かにいたという存在自体を抹消されることに等しいからだ。彼の旅人がどんな思いで記憶を差し出したかは知らないが、彼の愛した者達、また彼を愛した者達の記憶から彼の旅人の記憶が消えてしまったのだと思うと居た堪れなかった。

 だが静は、自分の衣の袖を引っ張る成則の存在に話が途中であったことを思い出す。そして、その思いに蓋をした。

「それがどうして厄介なの?」

「今回はその影響でいつも以上に彷徨い人の数が多いんだよ。それに加えて、桜の開花時期も早まってしまったからね」

「彷徨い人!」

 彷徨い人という単語に、成則の顔が瞬時にして強張る。死して尚、永遠を求め時を彷徨う者。茂則の脳裏を、父の言葉が甦ったのだ。彷徨い人は稀代の大陰陽師といわれる父をもってさえしても払うことが難しいと言わしめた強敵だった。

「大丈夫なの、おばあさま」

 成則は静の衣を掴む手に力を込め、尋ねた。その手はいつのまにか震えている。それが恐怖からくるものなのか、不安からくるものなのかわからなかったが、成則はなんだが嫌な寒気を感じた。しかし、重ねられた静の手の温もりに、奪われかけた体温が戻ってくる。

 すると、成則は「あっ」と思い出したかのように懐に手をやった。遠慮がちに成則が懐から取り出したのは、柄と鞘に漆塗りで細工の施された小刀だった。静の記憶が正しければ、その小刀は成則が母から譲り受けて大切にしている品のはずだった。

 静は成則の意図が分からず、首を傾げる。

「これ……お守りに……」

 そう言って差し出されてやっと成則の意図を察した静は、成則の優しさに笑顔を浮かべ、ありがとう、とそれを受け取った。



 茂則が不思議な男に出会ったのはその岐路でのことだった。

「ああ、しもた。何でこんな肝心な時に道に迷うてしもたんやろ!」

 朱雀大路から二条大路を通り西洞院大路に入ったところで、茂則の目に入ってきたのは、空色と呼ぶに相応しい青い色の宿衣を身に着けた男の姿であった。

 身なりこそどこかの貴族のようだが、成則は今までこれほど鮮やかな青い宿衣など目にしたことがない。その上、供も従えずに立ち往生している男は、女性のように長く伸ばした髪を、烏帽子もかぶらず、後ろ手に結い上げていた。何とも得体のしれない男だ。成則は早々に関わるべきではないと判断を下した。そして、踵を返そうとしたのだが、

「待ってぇな、そこの坊ちゃん」

 強い力で腕を引かれそれは遮られた。見れば、先ほどまで道の真ん中にいた男が、目前に立っている。

 茂則は慌てて、男の腕を振り払った。その茂則の様子に、申し訳なさそうに肩を落として、男が口を開いた。

「わいとしたこが道に迷うてしもうてな。悪いんやけど、土御門大路の安倍邸にはどう行けばいいんやろか?」

 だが、成則は男に返事を返すことが出来なかった。聞いたことない男の喋りに驚いたのではない。男が尋ねた邸宅こそが成則が帰ろうとしていた場所だったからだ。

「家に何の用?」

 思わず口からもれた呟きに、茂則は、しまった、と思った。しかし、もう遅い。そのまま茂則は男を家まで案内しなければならなくなったのである。

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