エトワールの歌
@amano188
エトワールの歌
僕はその日も変わらず千駄ヶ谷の少し廃れた本屋で働いていた。一念発起して自分で開いた本屋だ。名前はヒカリ書店。廃れたとは言っても潰れてはいないのだから、そこそこに本は売れている。
僕は小さいころから内気で、外で遊ぶような人間ではなかった。そんな僕が心の拠り所にしていたのは小説の世界だった。この世界は僕を拒絶しないし、小説を読んでいる間は本当に自分がその世界にいるような気がする。
本棚に置いてある小説たちを眺めて、お気に入りの本を読みながら客を待つ。
平凡ではあるがそこら辺の会社員よりはよっぽど幸せな生活をしていると思っていた。
いつも通り本棚を整理しようと椅子から立ったがうまく力が入らない。目の前が霞んでいった。
どうやらあの後すぐにお客さんが来たようで、倒れている僕を見て救急車を呼んでくれた様だ。不幸中の幸いというやつだろうか。
「脳梗塞です。今すぐに死ぬという病気ではありませんが、後遺症は残る可能性が高いです。」
「し、死ぬ可能性はないんですか?」
「全く無いという訳では無いです。」
「そうですか…」
「とりあえず、今すぐに入院の手続きをお願いします。細かい書類などは……」
人は深く絶望するともっと叫んだり喚いたりするものだと思っていたが、案外そうでもないらしい。現に今、自分は物凄く絶望しているのに声の一つも出ない。出せないに近いような気もするが。
こうして僕の平穏な日常は終わりを告げ、そしていつ死ぬとも分からない入院生活が始まった。
しかし入院生活も思ったより悪くないものだった。
やることがない代わりにいくらでも本は読めるし、たまに来るのは看護婦の人だけだったから、死ぬのが怖いということ以外は悪くないものだなと思っていた。
ある日いつものように本を読んでいたら、隣のベッドがなんだかいつもより騒がしい。
今まで誰もそこに入っていなかったはずだから、新たな病人が隣に来たのかもしれない。
翌日、隣人と顔を合わせることになったのだが、それは少し意外な出会いだった。
「あれ?ヒカリの店長さんですよね?」
「え?ああ!いつもありがとうございます!」
彼女はいつも僕の本屋で本を買ってくれていた常連さんだった。
「こんなところでお会いするなんて、なんだか不思議ですね。」
彼女はそう言いながら僕に優しく微笑みかけた。
「ええ、そうですね。」
彼女はどうやら末期がんで入院することになったらしい。
改めて自己紹介をしたが、どうやら彼女は僕の事をかなり年齢を食っている人だと思っていたらしかった。彼女と僕はお互いに本が好きで、年齢も近かった。
彼女はノルウェイの森が好きでよく読むと言っていた。僕も数回読んだことがあって、その度に村上春樹の才能には感嘆せざるを得なかった。
それから数日が経って、僕らはすっかり友人のような関係になっていた。
「ヒカリさんは恋人とか奥さんとかはいらっしゃるんですか?」(なぜか彼女は僕をヒカリさんと呼ぶようになった。)
「いや、その手の事はめっきりでね。しかも母親が他界してからは父親とも疎遠でね。この通り見舞いにも誰も来ないんだ。」
「そうなんですね。でもお見舞いなら来てますよ。毎日。」
「え?」
「私。私が毎日ヒカリさんのお見舞いしてますから。だからそんな悲しそうな顔しないでください。」
「はは、そうかも知れないね。」
なんだか良いことを言おうとして失敗している感じがしたが、そこに言及するのは野暮だろう。
次の週の夜、彼女の誘いで僕たちは消灯時間の後、こっそり屋上へ行った。
「わぁ~星がたくさん見えますね!」
「そうだね。」
真っ黒な空にぽつぽつと星が光っていた。
「星って、歌ってるらしいですよ。小さな声だから私たちには聞こえないですけどね。」
深く息を吸った彼女は続けた。
「私、もうすぐ死ぬんだそうです。長くても三日とかなんですって。短いですよね。あー!せっかくずっと好きな人と一緒に居られたのになぁ!」
彼女は星に向かって叫んでいた。その声は星には届かないけれど、僕にはうるさすぎるくらいだった。
「本当に?」
「はい。全部本当です。私がもうすぐ死んじゃうっていうことも、ヒカリさんの事が好きっていうのも。でも最後にこうして伝えられてよかったです。もし私の気持ち伝えられてなかったら私、成仏できませんもん。ヒカリさんに憑いちゃうかも知れないし。」
笑っている彼女は後ろの星たちをただのつまらない背景にするくらい輝いて見えた。
彼女の言葉を聞いて、僕は人生で初めて叫んだ。脳梗塞と告げられ、深く絶望した時だって叫ばなかったのに。
「僕は、僕は君無しでどうやって生きていけばいいんだ。僕も君が好きだ。ずっと好きだった。初めて僕の本屋に来てくれた時からずっと。僕は死ぬのが怖い。だけど君がいてくれたから、ずっと隣に君がいてくれたから恐怖をごまかすことができていた。僕らの人生はいつ終わるか分からない。三年後かもしれないし、今この瞬間かもしれない。だけど、だからこそ、僕は君と共にありたい。君は僕の生きる光なんだ。」
「なんだか可笑しいですね。ヒカリさんが私の事を光だーとか言ってるの。大丈夫です。言われなくても分かってました。だからずっと隣にいます。生きていられる限りずっと。言ってくれてありがとうございます。とっても嬉しいです。そろそろ戻りましょうか。冷えてきました。」
彼女は柵にかけていた手を下ろしてこちらへ歩いてきた。
僕の横を通ろうとした彼女の手を取り、唇に唇を重ねた。
彼女は驚いていたがそんなの関係無かった。
僕らはそのまま闇夜に溶けた。今まで動いていた脳も活動を止め、彼女の舌や吐息を感じることに全てを費やしていた。星たちの歌声がよく聴こえる気がした。
「生きている限り愛してくれるかい?」
「死んだって愛してますよ。」
目が覚めて時計を見たら既に正午を回っていた。病院食が置いてある。
昨日の出来事は夢だったんじゃないかと思うほど、日常がそこにはあった。はずだった。
隣にいる彼女の顔が見たくなり、ゆっくりとカーテンを開いたが、そこには誰も居なかった。
荷物などはまだ置いてある。まぁいつもの検査にでも行っているのだろう。そう思って少し寂しさを感じながらカーテンを閉じた。
しかし夕食を食べる時間になっても彼女は戻ってこない。さすがにいてもたってもいられなくなり、食器を片付けに来た看護師に彼女は何処にいるのかと訊いた。
看護師は一瞬固まり、そして口を開いた。
「今日の早朝に容態が急変したんです。今は集中治療室で治療しています。」
「会いに行くことはできませんか。彼女にはかなりお世話になっていて。」
「すみません。今はご家族のみの面会になっていて。また回復すればこの病室に戻ってくるので、回復を祈りましょう。」
僕は寂しさや不安などの気持ちで夜もうまく寝付くことができなかった。
彼女はつい昨日言っていたじゃないか。生きている限り僕のそばに居るって。なのにもう僕の傍から居なくなってしまうのか。僕は彼女に会いたい気持ちを抑えることができず、ベッドを出て集中治療室へ向かった。
ガラス越しに見える彼女の白い身体には沢山の管が挿されていて、彼女の容態が良くないことは一目瞭然だった。しかし薄いライトに照らされる彼女の白い身体はどうしようもなく奇麗に見えてしまった。
「君はずっと僕の事を愛してると言ってくれた。そんなこと誰にも言われたことがなかった。本当にうれしかった。またいつか君と本について話したい。だから元気な顔で戻ってきてくれよ。」
流れる涙を拭う力もなかった。ガラス越しの君には届いただろうか。
翌日、僕は動けないほどの容態になってしまっていた。それでもガラス越しでもいいから彼女のもとに行きたい。彼女に会いたい。
夕方、僕の体調は幾分良い状態に戻り、なんとか動けるようになった。彼女への気持ちが抑えきれず彼女のもとへ向かった。
しかし部屋は空だった。急いで受付に向かって僕を部屋に戻そうと説得する看護師に向かって叫んだ。叫んでしまった。
「彼女は何処にいるんだ!彼女に会いたいんだ!会わせてくれよ!!」
看護師の僕を掴む力が一瞬弱まった。そしてまた強く握られたと思ったが、それは僕を部屋に戻そうとする力ではなかった。
「白島さんは、先ほど亡くなりました。」
力が一気に抜けた。本屋で倒れたあの時みたいだった。
「本当はこういうのは他の患者さんに言ってはダメなんです。でも、白島さんから手紙を預かってたから。少し待っていてください。今取ってきます。」
屋上へ行って喪失感と共に手紙を開けた。
『ヒカリさん、今悲しんでくれていますか?この手紙を書いているのは10月24日です。明日ヒカリさんを屋上にでも呼んで告白しようかなって思ってます。なんだか高校生みたいですね。多分ですけど、ヒカリさんも私の事、好きだと思います。なんかそんな感じがします。でも私の事なんか忘れて、誰かもっと良い人見つけてくださいね。ヒカリさんがずっと独り身なんてそれはそれで悲しいですもん。長くなるのも嫌なんで最後に少しだけ。絶対に生きて、ヒカリ書店をまた開けてくださいね。あそこで買ったノルウェイの森が私の人生を作ったから。そしてヒカリさんの人生でもあるだろうから。ヒカリさん、大好きです。愛してます。』
彼女は星たちと共に歌っているのだろうか。彼女が隣に居ない僕には、その歌声は聴こえなかった。
今日は彼女の一周忌。
あれ以来、僕の脳梗塞は嘘のように回復に向かい、後遺症が残ることもなく退院することができた。
通りすがる彼女の親族に会釈をし、彼女の前に屈んだ。
「やあ。覚えているかな。まあ君が忘れる訳ないか。僕は今元気に生きているよ。ヒカリ書店も開店しているよ。相変わらず繁盛はしてないけどね。」
少し冗談を混ぜて話した。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。
「死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの。これ、ノルウェイの森に出てくるセリフ。僕は君がいなくなってから、この世界が大嫌いだった。君という人間が死んだというのに、それを無視するかのように動いている世界が大嫌いだった。でも、きっとそれは違うんだって思ったよ。この世界にいる誰もが、大切な誰かの死を受け入れて生きている。だから僕も受け入れなきゃって。今なら君の居ないこの世界の事も愛せそうだよ。」
僕はたまに、ふと星空を見上げることがある。星たちの小さい歌声が聴こえる気がする。
僕は独りじゃない。
エトワールの歌 @amano188
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