あの人はバレンタインが嫌い(最終話)
お昼を済ませ、お気に入りの赤いチェックのロングスカートに、白のニット。そして茶色のベレー帽をかぶって鏡で二十面相を繰り広げる桃子は、バレンタインに取りつかれた少女そのものだった。
そろそろ出発しようか、それとも早いだろうか。うんうん唸っていると、両親が出かけるという声かけに、二人が出かけた十分後に出ようと決意する。
紙袋に入れられたオペラが笑っているように見えた桃子は、ぐっと握りしめてムートンブーツを履いて家を出た、
びゅうっと吹いた風は桃子の頬をかすめて冷やしていく。たった十分の道のりなのに、大冒険をしている冒険者のように歩く。
オペラの看板が見えてくると、途端に足がすくんでしまった。ラスボスでも目の前にいるのではないだろうか。そんな気持ちが浮かんでは消え、浮かんでは消え、消えたタイミングで桃子はついに扉を開けることに成功した。
日曜日だというのに、お店はなぜかがらんとしていて、お客さんは桃子ただ一人だけだった。
「いらっしゃい。いつもの席?」
「あ、はい……」
窓際にいつも陣取るのは、カウンターだと見えすぎるし、他の席だと見えづらいこともあって、桃子のお気に入りの席だった。
その席に紙袋を置いて、桃子はカフェオレを注文した。オーナーは相変わらずはちみつ入りのカフェオレを持って、さっさとカウンターに戻っていった。
いつ、どのタイミングで渡すかはもう桃子次第だ。それでも口を一文字にしてしまうのは、恋心が邪魔しているのか、バレンタインが邪魔をしているのか。
すると、オーナーがトレンチを持って桃子のもとへやってきた。
「これ、いつも贔屓にしてくれてるから、サービス」
置かれた皿に乗っていたのは、可愛らしいショートケーキだった。シンプルなのにどこか可愛らしいそのケーキに、桃子は思わず立ち上がった。
「そんな! 私が会いたくて来てるだけなのに!」
言ってすぐ、桃子は後悔した。これではただの告白に過ぎない。
「あ、えっと、その、これ!!」
紙袋を差し出した桃子は、あんなに二十面相を繰り広げていたのにやっぱり強張った表情で硬直してしまった。面食らったオーナーとの沈黙に、桃子は耐えることができなかった。
「あ、あ、甘いものが、苦手って言ってたから、その、このお店の名前と同じケーキ作ってきて、そのっ」
「ははっ」
普段の無表情なんかではないオーナーの顔に、赤面していく桃子。そんな桃子を見て、オーナーは紙袋を受け取った。
「俺、甘いもの嫌いなんかじゃない。バレンタインが嫌いなだけ。でも、そうだな。頂いとくよ、ありがとう。えっと……」
「桃子! 桃子です! 桃の子って書いて、桃子!」
「うん。ありがとう桃子ちゃん」
天にも昇る様というのはまさにこのことだ。桃子はついにバレンタインを全うすることができたのだ。
「ところで、バレンタインが嫌いって、なんでですか?」
「……から」
「え?」
そっぽを向いたオーナーの耳が赤くなっている。そんな様を桃子は不思議そうに見つめていた。
「だから、ホワイトデーじゃなくてバレンタインに俺からあげたいから!」
ぷい、とそのままカウンターに向かっていったオーナーの背中を見て、桃子はその言葉にさらに顔を赤く染めていった。
少ししてお客さんが入りだした喫茶オペラに、桃子はまだ座り続けていた。桃子はまた本を読むふりをしてオーナーを見ると、他のお客さんに向けてコーヒーを淹れていた。
甘いカフェオレをすすりながら、バレンタインが過ぎていく。桃子はとうとう閉店の六時まで居座り続けてしまった。
席を立って会計をしようとすると、オーナーがまた耳を赤くしながら口を開いた。
「今日、サービスで出したショートケーキ、誰にも出してないから」
「え、え?」
「……俺からのバレンタイン」
照れ臭そうに笑って見せたオーナーの顔に、桃子はまた顔を赤面させた。桃子にとって今年のバレンタインは、とっておきの甘みを含めたバレンタインとなった。
あの人はバレンタインが嫌い 仮名 @kamei_tyan
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