第2話 4/7(日) 日曜日の平常運転(日が暮れるまで)

煩わしいから先に書いておこう。

この男が過ごす日曜はこのルーティンで回っている。


~起床~

→コンビニで買い物をする

→朝食を食べる

→レンタルショップでDVDを借りる

→コンビニとカレー屋で買い物をする

→部屋で昼食をとる

→テレビで野球観戦

→借りたDVDを見ながら夕食をとる

→シャワーを浴びる

→Twitterに浮上する

~就寝~




 毎度の休日の過ごし方がまったく同じというわけではないが、だいたいこれらのルーティンが彼の行動の基盤になっている。時折、友人と飲みに行ったり、インターネットを介して友人と一緒にゲームをしたりするイベントが入ることもあるが、それらはそんなに頻繁に行われているわけではない。男は誰かに誘われなければ、好んで外出したがるような性格ではなかった。特に用事もなければ、ずっと布団に横になっていたいのだ。


 社会人になって早数年。自分にぽっかりと空き時間ができたとしても、気軽に会える友人がゆるゆると減ってきた。周りの友人は少しずつ身を固め始めている。わざわざ、既婚の友人を遊びに連れ出すのは憚られる。新妻を待たせている友人を夜の街にしけこませるわけにもいかない。なんだか、家族団欒の時間を削ってまで、遊びに連れ出すのは罪悪感がむくむくと浮かび上がるのだ。かと言って、独身の友だちならみな都合よく会えるという訳もなく。少々、寂しくもあるが、それはそれで仕様のないことだ。男本人も今のところ恋人が欲しい訳でもなし、自分の時間を楽しめる精神的余裕があるのはありがたかった。

 友人はみな気の良いやつらなので、もし自分が彼らを誘ったら、二つ返事で会う約束をしてくれるだろう。その間、彼らの家族はお留守番。家族ぐるみの付き合いが出来るならそれが一番なのだろうが、残念なことに男は独身だ。いっそ結婚してしまおうか。いやいや、相手がいないぞ。相手が出来る気配もないが、それ以上に自分の甲斐性のなさが露呈するのも居た堪れない。男はぐるぐると思考の迷路を歩き回り、結局いつもスマートフォンの画面を眺めるだけで空き時間を終えてしまうのだった。


 休日に会う相手として、同僚を選ぶというパターンもある。しかし、なんとなく気が引ける。決して同僚が嫌いなわけではないが、あまり親しくしたいわけでもない。あまり親しくなりすぎて、私情から仕事がなあなあになり、支障を来たすのは困る。それに、私生活に仕事を思い出させるようなものを持ち込まれるのも勘弁したい。同僚の顔を見ながら酒を飲んでいて、もし部長のむっつり顔なんかが脳裏をよぎったら不愉快極まりない。酒が不味くなる。

 あと考えられるのは元彼女か。有り得ない。絶対に有り得ない。連絡先はスマートフォンに残したままだが、ただただ恐ろしくて、こちらから連絡したことはない。たまに、あちら側から何の気なしに近況報告が来ることもあるが、男はその連絡に対し、できるだけ差し障りのない内容を簡潔に著して送り返す。もし、年賀状が来た場合は、年賀状を送り返さずにお礼のメールを送る。それが男の精一杯だった。


 前述の文章でわかる通り、男は独り身。彼女もなし。会社員歴5年の27歳だ。現在、特に浮いた噂もなければ、将来の目標や展望もまだない。将来どころか一年後、いや一ヶ月先の未来もわからない。今の会社に就職して5年。男はいつも真面目に働いてはいるが、このご時世だ。いつ何どき何が起こるかなどわからない。正直なところ、男は目の前のことで手一杯で、先なんか全く見えていない。例えどうにか前が見えたとしても、周囲に真っ暗な不安の海ばかりが広がっていることぐらいにしか気づけない。

 そもそも、同じような行動を繰り返す毎日が諾々と続いていく限り、今後のことなど考える余裕すらもてないだろう。今の男の人生には余裕がない。とりわけ情熱を燃やしたい事柄もなく、あったとしても潤沢な資金があるわけでもなく。とりあえず、今生きるために食べて寝て、余った時間のほとんどを浪費して生きる。


あとは仕事。仕事仕事仕事。


男はそんな代わり映えのない、移り変わる見込みのない現状に飽き、変化を求め、一方ではある種の諦観を覚え始めていた。






*******




 休日でも男の朝は早い。通勤の関係で朝6時に起きる習慣ができているからか、自然にその時間帯には目が覚めてしまう。うっすらと目を開き、薄いカーテンから射し込む微かな光に目をぱちぱちさせた。それからもう一度、目をつぶり欠伸をする。布団の中からもぞもぞと手を伸ばし、枕元に置いてあるスマートフォンの画面を見て時間を確認する。現在時刻は6時2分。今日もいつも通り、早起きをしてしまったと思いながら、はあと一つため息をついて、うんと伸びをした。背骨の辺りの筋肉にぴりぴりと心地よい感触が走る。

 春と言ってもまだ朝は冷える。男はもう一度、頭まですっぽりと掛け布団に潜り込む。薄暗い布団の中でスマートフォンの画面を見る。男が画面をタップするとパッとスマートフォンの画面が明るくなった。スマートフォンの画面には、小さく四角いアイコンが複数並んでいる。そのアイコンもきっちりとフォルダ分けしているところからも、男のまめまめしさが伝わるだろう。

今日もまた昨晩のうちに届いたメールが溜まっている。男はメールフォルダを開いた。


一通目―


「この写メ見える?」


題名がこれだった。この文言の下に三行のURLが貼り付けてある。


(見えません。というか、写メって最近の若者は使いません。27の俺でも使いません死語じゃないですか?送ってるの、おっさんなんじゃない?)


二通目―


「あなたのメールアドレスが第三者に使われています」


(もう既にあなたが俺のメールアドレス知ってる時点で、気づいてます。あなたも、どこかからか漏れた俺の個人情報を利用しているわけですよね?なんかもうそれ、いろいろ今更じゃないですか?)


よくも飽きもせずにこんなくだらないメールを無作為に送り続けるもんだなあ。男は迷惑メールの一つ一つに脳内でツッコミを入れながら、メールを削除していった。一晩スマートフォンを見なかっただけなのに、要不要合わせて20通以上のメールが届いていた。それを処理した男は二つ目のため息をつき、寝返りを打った。


 男は何らかのアプリを開こうとしているのだろうか。人差し指をスマートフォンの画面に近づけたまま、その指はぴたりと画面の目の前で静止している。暫しの間、男はカラフルなアイコンたちを眺めながら逡巡していたが、結局それらのアイコンをタップするのをやめた。それらは同僚が楽しんでいるアプリゲームたちであった。同僚はみな、通勤時間や休み時間など空き時間を見つけては、スマートフォンを使ったソーシャルゲームに勤しんでいる。いわゆるソシャゲである。

 特に、男の周りではパズルゲームが流行っているようだ。あと、カードを収集して戦うゲームも流行っているらしい。男も勧められたため、律儀にいくつかやってみたものの、あまり長くは続かなかったようだ。毎日持ち歩くスマートフォンを使ってゲームができるわけだから、とても利便性が高い。種類も豊富で無料で楽しめるゲームも数多ある。しかし、男はそのソーシャルゲームには馴染めなかった。

 男は別にゲームをすること自体が嫌いなではないわけではない。学生時代は対戦型ゲームを目当てにゲームセンターに通っていた時期もあったが、今は昔。平日はどこにも寄らず出来るだけ早く家に帰りたいし、休日にゲームをするだけのために、わざわざ繁華街に出向くのもつらい。平たく言えば、男は家庭用据え置きゲーム機やポータブルゲーム機派なのだ。平日でも休日でも、時間が合えばポータブルゲーム機を使い、友人とゲームの協力プレイをしている。決して、遊ばない訳ではないのだ。

 しかし、せっかく勧めてもらったアプリだ。それを許可なく消してしまうのも申し訳なく感じる。だから、お勧めアプリは消されず、そのまま男のスマートフォンの画面に彩りを添えている。このままアプリゲームを勧められ続けたら、スマートフォンのデータ空き容量がパンパンになってなくなってしまうのではないかと、男は密かに懸念していた。


 さあ、目が冴えてしまったのでは仕方がない。今日も男は二度寝を断念し、冬眠から目覚めた熊のようにのっそりと身体を起こした。この熊は毎朝毎朝、何度も冬眠から目覚めなければならない。眠る時は明日のことは考えない。長い冬の間、雪深い山で眠る熊のほとんどがそうだろう。しかし、男は違う。いくら泥のように眠っても、起き上がらなければならない明日は来る。掛け布団がふにゃりと男の身体から剥がれ落ちる。半袖シャツの男には、四月の朝はまだ肌寒かった。男は小さく身を震わせた。それから、掛け布団の上に脱いだまま放置されていたジャージの上着を無造作に取り、もそもそと羽織った。

 そしてベッドから足を下ろして立ち上がり、ふらふらと覚束無い足取りでキッチンへ向かう。寝ぼけまなこのまま歯を磨き顔を洗う男。しかし、顔と口を拭うタオルを準備するのを忘れてしまったようだ。男はまだ雫の滴る顔でつかの間ぼうっとシンクを眺めていた。顎を伝いぽたぽたと落ちていく雫をいくつか見ていた。背に腹は変えられない。男は何度か髪の毛を手で軽く鷲掴みするようにしてくしゃくしゃにして、それからその手を下ろし、そのまま着ていたシャツで顔を拭った。

 リビングに戻ると、男は薄めたココアのような色をしたカーテンを開けた。そして、先程まで眠りについていたベッドに寄りかかり、リモコンでテレビをつける。これも休日の日課だ。男は首を何回かぐるぐる回したあと、左肘をベッドの上に引っ掛けた。


 平日の朝はテレビを見る暇などない。寝る前にセットしたアラームで起き、洗面、インスタントコーヒーを飲む、着替えて、次のアラームで家を出る。この間30分。男はこういうスピード勝負で慌ただしく出社している。だから、休日にこうしてテレビをつけるとなんだか、毎度新鮮さを覚えるような感じがする。「今日は休みだ」という感覚を楽しんでいるのかもしれない。それに、テレビの映像からは”生”を感じる。なぜかスマートフォンで見る動画は静止画が連続で描いた点を繋いでいるように男には見えた。でも、テレビから流れてくる映像からはなぜか生の躍動感のようなものが感じられる気がするのだ。面白いとか面白くないとかは置いておくとして。

 パッとついたテレビの光を見ると、なんとなく目がチカチカしたので、男は眉間を何度か揉んだ。テレビの中では、ここ最近のニュースを、毎週いつも通り同じキャスターが淡々と伝えている。男はぽちりとリモコンのボタンを押す。すると今度は、男性タレントがぶらぶらと街を歩き、ご当地グルメを紹介していた。男は無意識に腹をさする。またチャンネルを替えると、政治家が盛んに討論を繰り広げる番組が映った。それを見た男は「こんなところで意見を積極的に交わすぐらいだったら、通常国会で意見をぶつけ合えばいいのに」というような呆れたような諦めたような複雑な表情をした。まあ、ここで男がぼやいても政治家先生の心には届かない。特に、何か見たい番組があるわけではない。ただ、「テレビを眺める時間の余裕がある」という事実が、男にとっては殊のほか大切だった。なんとなく、ほっとするというか落ち着くのだ。これが心の余裕というものだろうか。


 男はつかの間、目を閉じてテレビから流れてくる音の波を聞き流していた。半分眠っている脳みそは発信される情報を耳から耳へと左右に受け流している。なんとなく聞こえてくる人々の声は、眠っている脳みそを起こすのにはちょうどいい刺激になったようだ。男は一息つき、テレビ画面の左上に表示されている時刻を確認する。部屋には掛け時計や置時計がない。いかにも男の一人暮らしの部屋、と言えるかもしれない簡素な部屋だ。あまり物がない。この部屋にあるのは、ベッド、テレビ、テレビ台、ゲーム機、ノートパソコン、パソコンデスク、本棚、クローゼット、小さなテーブルぐらいだろうか。案外、きれいに整頓されている。

 家電はキッチンにあるが、冷蔵庫や炊飯器など、必要最低限なものしか置いていない。洗濯機もない。おしゃれにこだわりがないので、週に二度コインランドリーに行くぐらいで事足りてしまうのだ。どうせ一人暮らしだ。洗濯機を買ったり干したりする手間をお金で買っていると思えば、安いものである。男の会社は私服出勤なので、ワイシャツにぴっちりとアイロンがけすることもない。男のシャツは形状記憶シャツなので、洗濯乾燥機にかけても、そこまでくちゃくちゃにはならない。だから、男はそれをパンパンと伸ばし、いつもクローゼットにしまう。

 男は羽織っているジャージのジッパーをジャッと上げ、立ち上がった。先程よりは幾分、足取りもしっかりしてきた。それから、腰から背中まで、上半身を左右に捻る。パキパキっと乾いた小枝を踏みしめたような音がした。男は背中を擦りながらテレビを消す。それから、パソコンデスクの上に置いてあった小銭入れをズボンのポケットに入れ、よたよた玄関を出た。


 玄関を出て施錠し、空を見た。快晴とまでは言えないが、雲の少ない空である。水で溶きすぎたような水色の空の端に、もやもやと薄い雲のかたまりが漂っている。なかなか良い天気だ。

 男はエレベーターに向かおうとした。すると、ランニング帰りであろう女性と鉢合わせした。すぐ右隣の部屋に住む女性だ。男は特に声をかけるでもなく、軽く会釈をし廊下の先へ向かう。女性も軽く会釈を返したが、男に話しかけることはない。黒いスポーツウェアを着た女性は浅い呼吸を繰り返していた。首に巻いたタオルで顔を軽く拭う。額の汗が朝の光できらりと浮かび上がり、ふんわりとほろ甘い香りがした。男がちらりと振り返ると、ぱたんと音を立てドアが閉まった。

 男はエレベーターに乗り込み、1階へ向かうボタンを押し、右半身を壁に寄りかからせた。それから、左手で髪の毛をくしゃくしゃにする。先程も出たが、これが何か考えている時に出る男の癖だった。ふわふわした長めの髪が、柔らかそうに耳や目にかかる。ゆらゆらとエレベーターは揺れ、フラットな機械音が鳴る。ポーン。男はゆっくりと開く扉を出て、マンションの入口へ向かった。足取りは心なしか軽い。マンション正面自動ドアが開くと、男は朝食を調達しに出かけた。


 男の住むマンションから徒歩三分のところにコンビニはある。特に規模が大きいわけでもなく、ごく普通の大きさのコンビニだと言えるだろう。商品のラインナップにも目立ったものはない。しかし、それはただ単純に男がいつも同じような商品ばかりを選んでいて、他の商品に目がいっていないだけだからかもしれない。

 近隣には他の系列のコンビニもあるが、男はこのコンビニに良く通っている。比較的、男の住むマンションから近いからだろうか。しかし話は逸れるが、コンビニはなぜ近距離に多くの店舗が乱立していても経営が成り立つのだろう。いくらフランチャイズだからといって、男の家の近所は徒歩10分圏内にコンビニが4店舗もある。それぞれのコンビニによって力を入れるポイントを変え、差別化を図ってはいるのだろう。見込み顧客も多いということなのだろうが、それでもやはり不思議でならない。

 コンビニに入る頃には、おおよそ普段通りの足つきに戻っていた。きびきびとまではいかないが、すたすたぐらいにはなった。まず、男はいつも一週間分の飲み物を調達するという任務に着手する。それを達成するために、男は迷わず店の奥へ進んだ。その際男は、総じて入店してすぐ左手に陳列してある雑誌コーナーの前を通る。雑誌コーナーには、漫画、ファッション雑誌、週刊誌、青年誌など、様々な本が並んでいた。男はあまり雑誌は買わない。どちらかと言うと漫画は単行本派だ。そして、ここ最近になって雑誌に載っている情報はほとんどインターネットで得ることが出来るのではないかと思うようになってから、特に雑誌を手に取ることもなくなった。男はそちらへちらりと目をやるだけで進んだ。

 最奥の飲み物コーナーにたどり着いた男は、2L麦茶のペットボトルと、500mlの炭酸飲料水、缶コーヒーを一本ずつ迷いなく手に取った。これが何くれとなく繰り返す男の日常の一部なのが伺える。ところが、今日の男は買い物カゴを用意していなかった。両手いっぱいに飲み物を抱え込み、きょろきょろと周囲を見回す。まず、カゴを手にしてから商品を選べばいいものを、男は面倒臭がりなのか鈍いのか、そういう細かいところまでは神経が行き届かない性質のようだ。もしかすると、男が潜在的に保有している集中力や判断力は、職場ですべて吸い取られてしまっているのかもしれない。

 男は、やっとオレンジ色の大きめのカゴを見つけて、飲み物をその中に入れた。これもまた、何も考えず手に持っていたものをそのまま入れたので、カゴを持ち上げるとぶつかり合った飲みものたちがガランガランと音を立てた。炭酸飲料水は大丈夫だろうか。


 男は振り返り、菓子コーナーを見る。菓子コーナーでは、若そうな女性店員が陳列された商品の向きを見栄えよく整理している。在庫管理でもしているのだろうか。その姿を数秒見て確認し、男はお弁当や惣菜が置いてあるコーナーに向かった。その途中には、アイスクリームや冷凍食品が入ったボックスがある。男は立ち止まり、そのボックスの中身をのぞき込んだ。さまざまな商品が並んでいる。色とりどりのアイスクリームや冷凍食品。朝はまだ風が頬を冷やすが、暖かい部屋で食べるアイスクリームは至高だ。

 男はボックスの隅に置いてあったおかずを手に取った。なかなか美味しそうだ。どうせ自分しか食べないのだ。それなら、自分の好きなものだけを食べたい。男は暫くそのおかずをじっと見つめ、それを二つカゴに入れた。それから男は頭を上げて、ゆらゆらと身体を左右に揺らしながら、先へ進む。何か考え事をしているのか。それとも、日々凝った疲れが思考力を低下させているのか。足取りはまたゆるゆると速度を落とし、やっと次の目的地へ向かう。そよ風を受けた帆船を思い起こさせるように男は進んだ。

 男は弁当コーナーを通り過ぎ、サンドイッチやおにぎりが並ぶ棚の前に立った。しばらく時間をかけて商品を眺める。サンドイッチは初めから視野に入れていない。視線がおにぎりのコーナーに集中している。パンはあまり好きではないのだろうか。四段に渡っておにぎりは陳列されていた。海苔が巻いてある所謂スタンダードな三角形のおにぎりの具は、焼き鮭、昆布、たらこ、ツナマヨ、明太子、高菜、いくらなどが売ってある。初めからご飯に味がついている混ぜご飯のような丸いおにぎりは、鶏五目、チャーハン、赤飯、オムライス、焼きおにぎりなどが並んでいる。手巻き寿司のような形の商品もあったが、そちらに興味はなさそうだった。


 男はゆっくりと二つのおにぎりを手に取りカゴへ入れた。それから、フライヤーコーナーを横目にレジへ向かい、レジ台にカゴを置く。ガタッ。2Lのペットボトルが派手に音を立てた。男はポケットの中から、レジ横の台の上にチャリンと小銭を出す。レジに入った店長らしき中年の男は少し眉をひそめたが、男はちらとも店長の顔を見ない。店長は商品を飲み物と食べものを、二枚の袋に手際よく分けて入れた。次に、すくうような形で台の横につけた左手の上に右手で集めた硬貨を乗せる。硬貨の枚数と金額を確認した店長はレジに小銭を放り込んだ。そして、お釣りの20円と小さなレシートをぶっきらぼうに男に差し出した。

 それを受け取った男は、小銭とレシートをもしゃもしゃと小銭入れに詰め込んだ。男が店を出ようとした時、ドアの前に立つと鳴る音と共に、中で作業していた女性の、客を送り出す挨拶が聞こえる。呪文のようなその声を背に、男はコンビニの目の前にある児童公園に向かった。



 時刻はまだ7時12分。こんな早い時間に外遊びをする子どもは勿論おらず、公園には静穏な空気が漂っている。この公園は、住宅地にあるにしては、なかなかの広さがある。遊具も充実している。だから、もう少し時間が経つと、それこそエネルギッシュを体現したような子どもたちが集まり、身体中に溢れる活力を発散させる。子どもは元気が一番。

 男はぐるりと周囲を見回し、公園に入っていった。ベンチは複数点在するが、どこも先客はいない。血気盛んなチビたちがやってくる前に、穏やかな朝食を済ませてしまおう。男は一つの遊具に向かった。ブランコだ。ブランコは横並びに四つあり、男は一番左端に腰を下ろした。ぎいと鎖ががちょうのように鳴く。遊具はもちろん子ども用なのだが、たまにはおじさんにも使わせてほしい。区に納めるはずの住民税をふるさと納税しているのはそっと横に置いておいて、使わせてほしい。

 男は持っていた重い方の袋を地面に置き、足でブランコを揺らしてみた。伸ばした膝をおもむろに曲げる。がちょうの鳴き声とともにブランコが振り子のように振れる。男の太ももの上で、ビニール袋がくしゃくしゃと音を立てた。風はほとんどない。まだ早い春に冷やされた鎖は、鈍い血のような匂いがした。


 男はここでも空白の時間を作る。何も考えず、五感を研ぎ澄ます。閉じたまぶたの裏には柔らかな明るさを感じ、朝の空気の澄んだ香りを感じる。遠くでは自転車が通り過ぎる音。近くでは鳩の鳴き声が聞こえる。


鳩よ、すまん。俺はパン派じゃないんだ。


なぜか男は居た堪れなくなった。


 頬を撫でる風が心地よい。ブランコはもう軋むのを止めている。こうやって自分しかいない公園にいると、時間が止まってしまったような、この世界には自分しか存在しないような、そんな不思議な感覚に陥る。離人症のようなこの感覚は、子どものころから確かに男の中にあった。テレビを流したままにしたり、誰もいない公園でぼうっとしたり。無駄だとも感じられるこの空白の時間は、男の感性を豊かにする。二進数で作られたデジタルの世界に身を置く男の凝り固まった思考を解きほぐしてもらうのにちょうどいいリハビリなのだ。

 ふと時計の文字盤を見ると、もう8時だった。この時間になると、ぼちぼち子どもがやってくる。男は二つのビニール袋を下げ、遊具から少し離れたベンチに腰を下ろした。ふう。またため息をつく。それから、缶コーヒーを取り出し飲んだ。プルタブを引いた親指が熱い。うっすら苦くてなんとなく甘い。飲み慣れているいつもの味だ。男はもう一方の袋からおにぎりを取り出した。


 ツナマヨ。ツナマヨ。買ったおにぎりは二つともツナマヨ味だ。よっぽどツナマヨが好きなのだろうか。今日の男の朝食スターティングラインナップは、ツナマヨ選手が二人。あまり食欲が旺盛でないのか、コンビニで買った食べものはこの二つだけのようだ。おにぎりの封を開けていると、本日一組目の親子が公園に現れた。まだ、8時半。


あの子はスーパーヒーロータイムは見ない派なんだな。電車派か?昆虫派か?それとも恐竜派か?いずれにせよ、いろんな子がいるもんだ。


そんなことを考えながら、おにぎりを口に運ぶ。

 一口かじっても、まだ具には到達できなかった。コンビニ特有の甘い米の味を味わう。三回ぐらいかじってやっとツナマヨに到達した。もぐもぐもぐ。男は少し固めに炊いてある米と、それにへばりついた海苔を咀嚼していく。普段あまりマヨネーズを好んで食べることはないが、粉もんとポテサラとツナマヨのマヨネーズは美味い。特別美味い。

 男は二つのおにぎりをぺろっと平らげ、また缶コーヒーに口をつけた。何をしても、また何をしなくても時は移ろうし明日は来る。時は男を置いていってはくれない。一定のペースで理不尽に未来を引っ張ってくる。「未来」なんて大層な言葉を使うのは気が引けたが、鼻たれ小学生だった男があっという間に社会人になってしまうのだから、足の先にくっついている「未来」が絶えず男に残された時間を削っているのは確かなのだろう。


 そうして“何もしない”をしている間に、まばらだった人影がちらほらと集まり始め、子どもたちの楽しそうな声がそこかしこで聞こえるようになった。男はよっこらしょっとブランコを立った。実際、かけ声をかけたわけではないが、20代も半ばを過ぎると、身体がリズミカルに動かなくなってくる。日常的に身体を動かしている人はそうでもないのだろうが、常に体を丸めて生きているような男はそれに該当しなかった。

 席が空いたのを見計らって、何人かの子どもがこちらに向かって駆け出してくる。その群れを避けながら、手に持っている飲み干したあとの缶を振り飲み残しがないか確かめる。残った雫がこぼれてきたら困る。念入りに缶の中を確認してから、任務を終えてゴミ袋になったレジ袋に入れた。

 遊具へ向かって突っ込んでいく男の子とすれ違う。それを追いかける父親らしい人とたまたま目が合ったので、男はすれ違いざま目で会釈した。父親は困ったような恥ずかしいような表情を浮かべている。その様子が微笑ましくて、男の口元にもうっすらと笑みが浮かんだ。帰り道、さやさやと音を奏でる木の葉から射し込む木漏れ日が、道を照らしている。きらきらと輝くその光が、男の行く道を示しているかのようだった。


 とりあえず、飲み物を置きに家へ帰ろう。ペットボトルの入ったビニール袋を持っている左手が痛い。重いものをビニール袋に入れて持っている時、だんだん手に持っている部分のビニールが、荷物の重さで細くなり固くなって、指の腹にくい込んでくるあの感じ。今、男はちょうどそれを感じている。男は特に力持ちでもひょろひょろでもない。この程度の重みなら問題なく運べるはずだ。しかし、男は苦痛を感じている。なぜなら、男の場合は手と言うよりも肩に痛みがきているからだ。日々、一人前の社畜として過ごしている証だろうか。毎日毎日モニターを凝視しているがために、がちがちに凝り固まった肩がそろそろ悲鳴をあげようとしていた。

 マンションに戻った男はつっかけていたサンダルを脱ぎ散らかして部屋に入った。それから、左手にあるキッチンに向かい、小さめの冷蔵庫に2Lのペットボトルを突っ込む。一度リビングに行き、小テーブルの上にコンビニで買った炭酸飲料水を置き、先程出たゴミを分別して捨てる。そして、米を炊いた。グラスに氷を入れてリビングに戻ってきた男は、そのグラスもテーブルの上に置く。からりころり。氷が揺れる。

 まだじんじんする肩を労わるようにそっと取り出したのは、スマートフォンだった。真剣な表情でスマートフォンの画面をタップする男。特になんの通知もなく、現在時刻のみが表示されていた。9:24。音沙汰無し。なしの礫。便りがないのは良い便り。待てば海路の日和あり。これ以上のプラス思考は不毛だ。続ければ自分の心に大ダメージを与えること必至なので、もうやめることにした。男はスマートフォンを握りしめたまま一気に脱力し、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。するりと手のひらから滑り落ちるスマートフォン。男は握っていた右手のひらをぐーぱーぐーぱー開いては閉じ、開いては閉じする。それから暫く、点灯していない天井のシーリングライトをじとっと見つめて、暫くずっと。



いつの間にか、うとうとしていた。



***



いつの間にか、うとうとしていた。



 男は身体を起こし、先程まで握りしめていたスマートフォンを探した。なかなか見つからないのでころりと寝返りをうつ。ベッドの右脇を見ると、スマートフォンはベッドから下に滑り落ちていた。ぼんやりした目で時間を確認する。11:16。もうすぐ昼だ。スマートフォンには、やはり通知が来ていない。男は難しそうな顔をして、また髪の毛をくしゃくしゃとさせながら頭をかいた。


 昼飯はどうしよう、などと考えるのは疲れる。休みの日はどんなスピードでも、脳みそを回転させたくない。脳みそを働かせたら負け。心の底からそう思う。だから、「いつも通りでいいか。そうしよう」。いつもこの結論で落ち着く。男はベッドを離れて、クローゼットを開けた。中から、適当にストライプシャツとベージュのチノパンを出す。脱いだジャージは、掛け布団の上に放り投げた。てろり、袖がベッドの縁から垂れ下がった。生活感があってとてもいい。

 着替え終わったら襟を正して、黒いジャケットを羽織った。休日でも、それなりに綺麗めな服装をするということは、彼女との約束だった。その彼女とは、もうとっくの昔に別れてしまったのだが、そのときに買った洋服はまだ残っている。何せ土日しか着る機会がないのに、枚数だけはあるから、それをそのまま着ない手はない。特に未練があるとか、こだわりになったとかではない。「ああ、あの子はお洒落な男と街を歩くのが好きだったな」。などと、思い返すだけである。

 出がけに冷蔵庫を開けて、コーラのペットボトルをとる。ぷしっと音をさせて蓋を開けると、男は何口かコーラを口に含んだ。舌と喉を襲う突然のぷちぷちという感覚に、男はむせた。


ときどき、突然飲みたくなるんだよな。炭酸。


 それをまた冷蔵庫に戻すと、男は黒いスニーカーを履いた。週に五日は出番がある通勤用の革靴がてらりと光った気がする。威張りきって幅を利かせている革靴に押しのけられ、いつも玄関の隅で縮こまっているスニーカーを哀れに思う。靴ひもを結び直しながら、幾分申し訳なくなった。


 さて、食料と娯楽を調達に行くぞ。


男はちびっと意気込んで部屋を出た。


 マンションを出て、駅前に向かう。この町は特別栄えているわけではないが、駅前まで出れば粗方一通りのものを揃えることができる。そのため、男はこの町を便利だと感じていたし、なかなか気に入ってもいた。通りを歩いていると、家族連れやカップル、友だちグループ、いろいろな人々とすれ違う。みんなそれぞれ、何らかの理由があって、どこかにある目的地に向かって歩いていく。ちりんちりん。この方角は正しいぞ、と言わんばかりにベルが鳴る。自転車もまた、商店街を縫い、どこかへ向かっていくようだ。

 それをぼけっと視野に入れながら、男は三階建てのビルに入る。そして、男はエスカレーターに乗った。二階から三階フロアに入っているレンタルDVDショップが男の目的地だ。万引き防止の衝立の横をすり抜けると、男は真っ直ぐ旧作アクションコーナーに向かった。今日はなんだかゾンビものとか、サメものが観たい。B級っぽくて頭を空っぽにして観ることができる映画なら、なおいい。男は暫くアクションコーナーをうろうろうろうろし、あれやこれやとDVDのパッケージの表裏を眺めた。ああでもない、こうでもないしたその結果、二本のゾンビ映画が選考を通ったようだ。

 片方は女ゾンビの村に男性が迷い込む話。あまり予算は割かれていなさそうな映画だが、パッケージ裏を見るとなかなか設定が凝っていて面白そうだ。もう片方は、完全なるスプラッタ映画。パッケージの表も裏も真っ赤っか。タイトル文字も赤いので、読みづらくて仕方がない。これは間違いなく、何にも考えずに見ることが出来る映画だろう。登場人物全員が血まみれになること間違いない。なかなか良い映画を選べたような気がしている。

 男はセルフレジにレンタルカードを通して、選んだ二枚のDVDをレンタル処理した。それから、レンタル袋を取り出して、丁寧にDVDを入れて店を出た。ちらりと見えた壁には「アニメコラボのレンタルカードが発行できますよ」という宣伝ポスターが貼ってある。最近はアニメをめっきり見なくなったため、男には一体何のアニメとコラボしているのかはわからなかった。だが、満面の笑みを浮かべた猫耳少女のイラストは素直に可愛いと思った。結局、何のキャラクターだったのかはわからないのだけれども。


 さてさて、娯楽の調達は終わり、次は食糧の調達だ。男はDVDの入った袋を右手に下げ、エスカレーターを降りた。そして真っ直ぐ、目の前にある店に吸い込まれて行った。目が覚めるように黄色い看板は、誰しも見たことがあるだろう大手カレー屋のものだった。店内はそこそこ広い。昼時だからだろうか、ほとんどの席が埋まっている。店内は話し声や、スプーンが陶器の皿に当たるかちゃかちゃという音でいっぱいだ。男は一瞬、たまには店内で食べていこうかと思った。しかし、あまり人の多いところが得意ではないし、ものを食べている様子を見られるのもあまり好きではなかったから、やはり家で食すことに決めた。ポークカレーの食券を買い、カレーを持ち帰ることを店員に告げてから、食券を渡した。

 カレーが来るまで手持ち無沙汰になった男は、とりあえずレジと食券機から離れた。邪魔にならないように周囲に配慮できるのが大人だ。カレーの匂いが充満した店内にいると、なんとなく煙草が吸いたくなる。禁煙してから久しいはずなのだが、食べ物の匂いがすると煙草を吸いたくなるのだ。もともと、煙草がなくては生きられないという程、どっぷり依存していたわけではない。一日に2~3本吸う程度の嗜み方だったので、別段生活から煙草がなくなって困っている訳では無い。なんとなく、この時も本当にぼんやりと煙草を吸いたいな、と感じるだけなのである。ただ単に口寂しいだけなのか。もしかして、食後の一服は美味しかったのかもしれない。


 出来上がりほかほかのポークカレーを受け取った男は、朝寄ったコンビニに向かう。真っ直ぐ食品コーナーに向かうと、シーフードの乗ったパスタサラダを手に取りレジに向かった。レジでは小柄な女性店員が残り少なくなった煙草の在庫を足していた。男が声をかけると店員ははっとして、予備の箱を床に置いた。

 男はやきとりのももタレ二本と肉まん一つを頼んだ。店員は、まずパスタサラダのバーコードをレジに読み込ませる。それから、手際よく白い紙袋をトングで開き、ホットショーケースで温まっていたやきとりを入れた。ほかほかの肉まんも同じ手順で袋に詰めて戻ってくる。男が注文した品物の名前を読み上げながら、ぴっぴっとレジのボタンを押し、代金を受け取る。その一連の滑らかな動作を終え、笑顔を見せる少女の愛らしさに、男の心は春を感じた。

 この女性店員の「いつもありがとうございます」を聞きたいがために、このコンビニを贔屓にしているのではないかと勘繰られても仕方がない。あの子は、歳の頃二十そこそこだろうか。初々しさがとてもいい。朝からずっと勤務していた店長は、仏頂面で雑誌を整頓し直していた。そして、店を出ていく男を横目でちらりと見ただけで、すぐに雑誌の陳列に戻った。


 家に着くと12:48だった。揺れるカレーライスのルーが飛び出さないように気を配りながら、リビングに滑り込む。その様子は、するりと道路を横断する猫のようだ。男は確保した一日分の食料をテーブルに置いて、リモコンを手に取った。テレビの電源を入れ、ホーム画面からアプリを開き接続する。それはスポーツ中継が見られるアプリだった。何種類かのスポーツが見られるアプリだが、男は毎週決まって野球を見ることにしていた。

 現在12:55。今日は日曜日のため、多くの球場は13:00試合開始だ。画面の向こうでは、ずらりと整列した選手たちが国歌を歌っている。カメラがだんだんと寄っていき、視線を上げてはためく国旗を見つめる選手たちの顔が映し出される。男はなぜか監督だけが黒い帽子を抱えて俯いているのが目についた。あまり神妙な様子にも見えず、なんだかうつらうつらしながら立っているようにも見える。国歌を聞きながら、あの監督はいったい何を考えているのだろうか。今年のペナントシーズンの行く末か、はたまた今晩のおかずのことか。

 男がそんなことを考えているうちに国歌を歌い終わり、選手たちが各ベンチに戻った。ホームチームの選手が各々グラブを持って走り出てきた。この日の先発投手は今年の目玉ルーキー、大卒ドラ1投手だ。オープン戦から一軍としてローテーションの一角を担い、なかなか良いピッチングをしている。そのためか、監督のお眼鏡に適い、一軍公式戦デビューに至ったようだ。投手がマウンドに立ち肩慣らしをしている間に、他の野手も守備位置についた。さあプレイボール!


 子どもの頃、男はよく祖父と野球中継を見ていた。多くの友人は、野球中継があまり好きではなかった。一台しかないテレビの視聴権を長時間奪うからだ。自分の見たい番組が見られなかったり、延長放送のせいで録画出来ているはずだった番組がきちんと録画出来ていなかったり。野球中継は彼らの娯楽を犠牲にしてきた。だから、男と野球の話をしてくれるのは、数少ない野球部の仲間だけだった。野球を良く思っていない友人たちの中の、野球というコンテンツについての印象をプラスに変えてもらうのには、本当に骨が折れた。まだ純粋だった男は、全力でプレーするあの選手たちの勇姿を見てもらえれば、誰もが野球に魅了されるのではないかと考えていた。のだが、世の中そんなに甘くはなかった。駄菓子とかそんな賄賂でも送っておけばよかったのではないかと今では思う。

 祖父が飲み干すたび、少年だった男はキンキンに冷えたビールをグラスにつぎ足す。その見返りに、男は酒のつまみの枝豆を分けてもらう。野球を見ている祖父はいつも上機嫌だ。もちろん、応援しているチームが勝っていれば酒が進む。同点だと手に汗握り、心臓がどぎまぎしているのが伝わってくる。負けている時が一番力強い。でも、声を荒らげて応援しているのに、それが怒気を孕んでいるようには感じられない。ひりひりした展開に燃え上がる姿が楽しそうなのだ。

 自チームや対戦チームに関わらず、選手がナイスプレーを魅せれば賞賛し、エラーを見せれば叱責する。ペナント優勝という目の前にそびえ立つ山にこれから挑み、頂きを目指そうとするクライマーを支援しているのだ。祖父はいつも目の奥をきらきらさせながら、野球中継を見ていたものだった。一度でいいから、祖父と野球場へ行ってみたかった。

 両親はどんなスポーツでも良いから、男に何か取り組んで欲しいと考えていた。だから、男が野球少年になるのは必然だったと言って良い。毎晩のようにプロ選手のプレイを見ている少年は、当たり前のように野球選手に憧れを抱いていた。重い硬球があんなに速いスピードでびゅっと飛んで行って、ずばっとキャッチャーミットに吸い込まれていく。打席立った選手は飛んでくる球を見極め、バットをぶんっと振る。スイングは風を切り、振ったバットはボールを遥か彼方へ飛ばすのだ。

 自分が野球を習い始めると伝えたら、祖父が喜ぶと思った。それが男が野球を習い始める一番の動機だった。大好きな祖父に喜んでもらうために、夏の厳しい日差しの中で丸焦げになりかけながら練習に耐え、凍えて耳や鼻がもげそうな中でもランニングをした。どんなに苦しい練習も、少年にとっては一つ一つ目の前に置かれたハードルだった。このハードルを越えれば、祖父に喜んで貰える。そう思うだけで、どんなに過酷な練習にも耐えられた。

 こうして、男は祖父が亡くなるまで、野球に打ち込んでいた。男が中学生になっても、野球を見ながら晩酌する祖父の習慣は続いていた。男もその頃には思春期を迎えていたから、両親を始め大人に反発してつらく当たることもあった。しかし、祖父と過ごすこの時間が近くなると、なぜか男は必ず祖父の部屋のテレビの前に座った。そして、祖父が缶ビールを持ってふらりと現れるのをチャンネルを合わせて待っていた。


 祖父が急逝したのは72歳の時、少年がちょうど中学三年生になったころだった。少年がいつの間にか青少年に片足を突っ込み始めたとき、祖父は動脈硬化で亡くなった。祖父は概ね健康であったが、血中コレステロール濃度が高かった。それは日常生活に大きく支障が出る訳では無かった。だが、だからと言って、毎晩のように酒を飲み続けて平気なわけがない。年齢も年齢だから、摂取した余計な栄養を運動で消費しきることもできないのだ。それでも祖父は晩酌をやめなかった。男は毎晩毎晩、祖父とテレビで野球観戦を見ながら、何も知らず大声で選手を応援し笑い合いあっていた。もしかしたら、もしかしたら、自分と一緒に野球を見る習慣を続けていなかったら、こんなことにはならなかったのかもしれない。少年は何度も煩悶し、自分を責めた。

 その結果、男は高校受験を理由に野球を辞めた。塾にも行き始めたが勉強にも身が入らず、芳しいとはとても言えない成績ばかり家に持ち帰った。両親の理解があったのだろう。特に両親からは勉強や日々の過ごし方について厳しく言われることはなかった。それから、高校に進学し、大学に進学し、社会人になっても、男が再び野球をすることは無かった。

 しかし、プレイするのと観戦するのとはまた違う。自分がユニフォームに袖を通すことはなくても、プロ選手がする試合を見るぐらいならじいちゃんも許してくれるだろう。便利なもので最近では、CS放送やインターネット動画サービスを使えば、ほとんどのチームの試合を見ることが出来る。男は先程買ったばかりの食料を手元をちらりとも見ずにテーブルに置き、真剣な眼差しでテレビを見つめている。かぶりつくように球春を楽しむ男を邪魔するのはよそう。


男の「日曜日」はまだ始まったばかりだ。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

明日、仕事休みます。 ももつばき。 @kohta0601

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ