明日、仕事休みます。

ももつばき。

第1話 新年度のはじまり


 皆様、本日から2023年度が始まります。新年度の年頭にあたり、まずは社員の皆さんのご健康とご活躍を心から祈念いたします。


 昨年度は二つの大きなプロジェクトを成功させることができました。皆様のこの一年間の努力に心より感謝致しております。 一人ひとりの個性や結束力に富む優秀な社員の皆様とともに仕事に取り組むことができ、仕事冥利につきます。20年、30年先の時代にも社会に必要とされ、お客様に必要とされ続ける企業であるために、更なる飛躍に向けた成長していきましょう。


 おそらく今年度は、更なる努力を払って、技術競争力を磨き、目標を達成し、新しい成長の道が開けるようになるでしょう。是非、社員の皆さん同士でも共に助け合い、工夫しあい、着実に前進して頂きたいと願っております。私も会社や皆様のために精一杯努力する所存です。


以上 私の年頭の挨拶といたします。どうも有難うございました。




2023年 4月1日

代表 小田島 隆




***************




 男は届いていたメールにざっと目を通し、モニターから目を離した。目頭が痛い。じんじんと痛む。だから男は、二本の指で眉間をはさみ、ゆっくりと三回揉んだ。指を離してもまだ目の奥の違和感は収まらない。はあ、と露骨なため息が出てしまった。

 今年も新年度が始まってしまった。日々、同じ電車に乗り、同じ会社に通っているだけでも、この季節は新しい風を人生に吹き入れる。それは閃く花火のような変化もあれば、大きな山がまるで以前からそこに佇んでいたかのような顔をして現れるような変化もある。男は、じわじわとインクが紙に染み込んでいくような変化もが一番嫌いだった。染み込んでいくような変化に対応できるようになるのは非常に難しい。何より変化が起こる兆しを掴むには鋭敏な神経を縦横無尽に張り巡らせるが必要があるからだ。


 男は手元に置いてあったメモパッドに今日行える最大限のタスクを書き込んだ。それから、タスクを眺めて優先順位をつけ番号を書き込んだ。これ以上、仕事が増える前に状況を整理しておきたかった。


こつこつこつこつ。


男はペン先の出ていないボールペンの先をテンポよくデスクに叩きつける。こうすれば、自然と自分の集中が深くなることを男は知っていた。先ほどまで痛んでいた眉間に力が集まり、徐々に熱を帯びていくのが分かる。眉間がちりちりしている。


 今日中に最低限こなさなければ行けないタスクは三点あった。まず一つ目、4/3(水)に行われる入社式までに、オフィスフロアに入室するためのセキュリティカードを新入社員の人数分用意する。二つ目、新入社員が使うノートPCとiPadの設定をする。これも新入社員の人数分準備する必要がある。それから三つ目、社用携帯のメール設定をする。PCメールアドレスに届くメールを出先でもすぐに確認できるように、社用のスマホに自動転送されるように設定するのだ。

 三つ目は上司からの要望だ。PC周辺機器やスマートフォンを使いこなせない社員はままいる。昨日など、Safariのブラウザが突然黒くなって、今まで検索していた白い画面に戻せなくなってしまったという不具合問い合わせがあった。備品を故障させてしまったと半泣きになっていた彼は若い社員だったが、どうやらプライベートブラウザの存在を知らなかったらしい。情報の最先端にいると思われがちな若者ですら使いこなせない機能が搭載されているのだから、便利便利と持て囃される多機能な製品も万能ではないのだと思い知らされる日々である。

 まあ、最近の電子機器では説明書が付属されていない商品も珍しくないから、使い方を知らない機能がない人の方が多いだろう。使える機能をもっと分かりやすく提示しろとお怒りになる方もおられるだろうが、結局ウェブサイトで読める説明書に目を通さないようなユーザーは、使用方法が詳細に記述された分厚い説明書が付属されていても隅々まで読まないだろう。それなら、自分が困っていることに気づいたユーザーや、製品の機能に関心を持っただけが本来の用途を調べることが出来ればいい。それがシンプルで美しい。それにこの便利と不便利の透き目に挟まってくれるひとがいるから、男の仕事が存在で来ているとも言えるだろう。


 そんなことを思考の浅瀬で考えながら、男は目の前に平積みにされているセキュリティカードにデータを入力する。手のひら大の四角い機械の上にカードを置き、キーボードを叩く。暫くすると、ポンッと入力完了を示す音が鳴り、男は手際よく次のカードと今あるカードを入れ替えた。男はこのような流れ作業は好まなかった。ただただひたすらに同じことを繰り返す。男にとってこのような作業は、単純につまらないと感じられたし、飽きてしまうようだ。とりあえず、男は大まかに各部署に割り振られた新入社員の人数ごとに、データ入力済のカードをまとめていった。

 そうしている間にも、動かなくなったノートPCへの対応が一件舞い込んできた。電源が入らなくなってしまったと、持ってきた社員は言う。男も確認してみたが、確かに電源が入らない。これはいろいろ試行錯誤して修理する方法を考えなければならなそうだ。PCを持ち込んだ社員は、すぐにでもPCを使い、仕事をしなければいけないという。

 男は故障したノートパソコンをひっくり返し、ハードディスクを抜き出した。そして、それを予備のPCに埋め込み、データを移行して依頼主に渡した。幸い、今までのデータを使用できる代わりのノートPCがあれば仕事は進められるらしく、故障したPCの修理を優先させなければ拙いという案件ではないらしい。男はほっとして、先程まで行っていたタスクを消化する作業に戻ることにした。

 セキュリティカードのデータ入力は1時間程あれば対応できるだろうが、新入社員用のPCとiPadの設定にはかなりの時間を割かなければならなくなるだろう。だから、カード作業が終わったら、先に上司のスマホを設定してしまおう。


今日は昼休憩取れるかな。


 こんな入社ギリギリになってから仕事を投げてきた社員を呪った。「社員たるものお互いを支え合って前進する必要がある」。これは部長自作の格言だ。男はこれを聞くと、俺が支え続けているやつらを見捨てればより高みを目指せるのではないか、などと錯覚してしまうことがある。そして、その真偽を確かめるための行動に移すタイミングを虎視眈々と狙っているのである。そう無駄な思考をしている間も、黙々と男の手は作業を続けている。データ入力済セキュリティカードを各部署の担当社員に、PCメールの自動転送設定をしたスマホを上司に届けに行くと、男は備品倉庫に向かった。

 倉庫に着くと、男は台車を用意し、複数台のノートPCとiPadを乗せてフロアに戻った。今日は誰も使わない小会議室に、箱から開封したばかりのノートPCを並べていく。この時点で、12時10分。並べた分のPCを起動している間に、デスクに戻って朝買ったおにぎりを取ってこよう。

 男はおにぎりを頬張りながら、起動したPCに既に入れられているOSの初期設定をしていく。ユーザー名やログインIDの設定など、初期設定を終えるにはクリアしていかなければならない行程が山程ある。日常業務で必要になるソフトウェアをインストールするのは、その後だ。男はこれから、この行程に数時間単位の時間を費やす。たくさんのノートPCがキーンと囁き続ける間に、お茶を一口含み、男はiPadの設定に取りかかった。


 ぺたぺたとiPadをタップしていると、壁一枚向こうの廊下から、男性社員と女性社員が立ち話をしているのが聞こえてくる。昼食をとり、持て余した休憩時間を同僚とのコミュニケーションに費やしている。非常に健全だ。できることなら、自分もあちら側に回りたい。とは思わないでもないが、例え同じように隙間時間が出来たとしても、男はあのような行動には出ないだろう。良く言えば、男はシャイだった。

 ほかの社員と比較しても、この男は勤勉に仕事に取り組んでいる方だ。極力無駄な時間は作らず、合理的な順序を組んで業務をこなしていく。あまり目立つタイプの人間ではないが、地道に着実にノルマを達成することには定評がある。まるで、肺が無意識に呼吸を続けるように。

 男は会社で仕事をしている分には真面目な性格だった。休まず出勤を続け、皆勤賞。時には、残業や休日出勤、出張も厭わずに成すべきことをする。男は会社にとって理想的な社員だったかもしれない。


でも、内心は。

男はこのような自分の勤務状況を良しとしていなかった。仕事を愛しているわけもない。多くの社会人がそう思うように「生活するためにはお金が必要だ」。だから「働かざるを得ない」。子どもの頃の夢や、志した職業に就ける人間はほんのひと握り。そして、それを希望もって継続していける人間は米粒ひとつより少ない。仕事を思い描いた通り、夢の延長線上にあると捉えられる時期は終わった。仕事に理想は求めない。


生きるために働く。

働くから生きられる。


何か期待しているわけではない。ただ、男はそんなルーティンに飽き飽きしていた。そんな真面目な話はいい。そんなことはいいんだ。



最近疲れが取れない。

ここのところ仕事に根を詰めすぎた。


寝たい。

泥のように眠りたい。


仕事をしたくない。

自由な時間が欲しい。


休みたい。

働きたくない。

癒されたい。


とにかく、とにかく会社を休みたい。



 日本政府よ、祝日を増やしてくれ。GWは1ヶ月にしてGolden Monthにしよう。それか「日月土水日金土」みたいに週四で休みを入れてくれ。国が無理なら都だ。社員が残業したら、翌日は有給休暇にする条例を作ってくれ。それか一年皆勤したら、翌年は金曜を休みにして週末三連休にしなければいけない条例を作ってくれ。都が無理なら仕方ない、会社だ。コアタイムのないフレックス制度を導入してくれ。それかもういっそ、自宅勤務を許してくれ。

 それが無理なら、せめて。せめて、有給休暇を使わせてくれ。なんでだ、なんでこの社会は会社を休みづらいんだ。有給休暇の消化は社員の権利ではないのか。日常の仕事をしっかりこなしているんだから、たまに休養日を入れるぐらい許されるんじゃないか?

 男はそう考えることがある。仕事に追われている時などに、ふと理不尽さが脳裏をよぎるのだ。取得している有給休暇を利用するのは会社員の権利ではないか。男の会社は使用しなかった有給休暇を買い取ってくれるわけでも、次年度に持ち越してくれるわけでもない。明らかに社員側が損である。消化していない有給休暇がどんどん溜まっていくのを見る度に男の胸の奥に雨を降らす雲のようなもやもやが凝っていく。



今年こそ。

今年こそ、絶対有給休暇をとってやる。


休みを奪い労働を強いる会社に、強行手段をとりシュプレヒコールを上げるのだ。もしかすると、社員のみんなも今の異常な経営方針に対して、不満の声を上げてくれるかもしれない。



今年こそ


『自分のために有給休暇をとる!』


『休む!絶対休むぞ!』


『俺は有給休暇を消化して余暇を楽しんでやるんだ!!!』






新年度早々、男は心に熱く誓った。

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