はふりのおおきみ〈2〉

 大神女の魂の緒をたどると、光の軌跡は王宮の外――麓の城下から湊に至り、更に島外の海へと出ていった。

 舟に乗って追跡すると、光はぐるりと島の東側へ回りこみ、入り組んだ岩場の奥へと延びていた。

 岩場の先には干潮時のみ小江が現れ、そこから洞窟が続いているのだという。しかし、探索は断念せざるを得なかった。

 というのも、追跡に協力してくれた舟乗りが岩場への上陸を頑なに拒否したからだ。

「『たとえ高貴なお方のご命令とあろうと、那見の海で生きる者として禁を犯すわけにはいきませぬ。どうかご容赦を』」

 屈強な海の男が小さく身を縮め、舟底に額をこすりつけて懇願する。

 護衛として同行した真赫や黒鉄が武器をちらつかせても、舟乗りは怯むどころか「『那見の舟乗りとして死ねるのなら本望です』」と居直って首を差しだす始末だった。

 国と海は違えど舟乗りとして生きてきた水沙比古はかれの様子を見て、静かに首を横に振った。

「二の媛、あきらめろ。舟乗りにとって掟は絶対だ。禁を犯すよう迫って命を奪い、舟と海を罪なき者の血で汚せば、海神だけでなく舟の神や風の神、果てには産土である母神の怒りを招くぞ」

 淡々としているが実感のこもった忠告に、舟の上に沈黙が落ちる。

 姫宮らしく日避けの紗布を被った那岐女が伊玖那見語で話しかけると、舟乗りは恐縮しきった様子で何かを説明しはじめた。

 すかさず真赫が会話を通訳してくれる。

「稚神女が禁について問われたところ、舟乗り曰く『われわれ伊玖那見の舟乗りのあいだでは、あの岩屋は古代の巫王の霊廟だと言い伝えられております。かつて嵐に見舞われて流れ着いた舟乗りが金色の眼を持つ神女の死霊に遭遇し、命をたすける代わりに何人たりともこの地に近づいてはならぬ、もしも禁を犯せば岩屋に眠る大いなるもの・・・・・・の呪いが災いとなって降り注ぐぞと末代まで語り継ぐようにお告げを賜ったそうです』……と」

 大いなるものとは変若の剣――生太刀のことに違いない。金色の眼の神女は古の守り目だろう。

「以来、あの岩屋は禁足地として伝えられてきたそうです。巫王の霊廟と聞かされれば、伊玖那見の民ならばけして近づこうとはしないですからね……」

 複雑な表情を浮かべた那岐女がこちらへ向き直り、「ヒコの言うとおりだ」と告げた。

「この舟……というか、伊玖那見の舟乗りの舟で禁域に近づくことは不可能だ。命と引き替えになる無理強いを民にさせるなんて稚神女として許可できないし。別の手立てを考えないと」

「異国の舟乗りを雇ってみたらどうだ?」

「どこの馬の骨かもわからない異人をほいほい国家機密に近づけるわけにはいかないよ。あすこは王族ですら限られた者しか知らない場所なんだから」

 水沙比古の提案に頭を振りかけ那岐女はふと瞬き、「いや」と呟いた。

「ちょっと待てよ。……異人だが頼めそうなあてがひとり――ふたりいるな」

 砂金水晶の瞳が水沙比古と私を交互に見つめ、微笑とも苦笑とも言いがたい笑みを作った。

「いずれ引き合わせようと考えていたんだよ。こんな形になるとは思ってもみなかったけれど」

 那岐女はちらりと私の右手首――螺鈿細工の手環を見遣った。

 私の脳裏に、玻璃の眼鏡越しにほほ笑む鉛色の瞳、続けて鷹のように鋭い薄茶色の三白眼がよぎった。

 胸の前まで右手を挙げ、まつむしそうの手環を見せながら那岐女に問う。

「そのうちのひとりは、璃摩国の海燕殿とおっしゃる商人かしら? 稚神女の客分として王宮に滞在していると話していたわ。私と水沙比古の出自も把握している口ぶりだった」

「うん。海燕は……わたし個人で雇っている御用聞きと言ったほうが正しいかな。やり手な上に情報通でね、いろいろと仕事を頼みやすいんだ」

 那岐女によると、海燕個人で舟を所有しており、相応の報酬を提示すれば禁域への上陸だろうと喜んで引き受けるはずだという。改めて海燕殿を思い浮かべ、なんとなく納得してしまった。

「もうひとりは多火丸たかまるという男だ。二年ほど前に七洲から渡ってきた武人で、風牧という氏族の出らしい」

 風牧の名に息を呑む。

 とっさに水沙比古を見ると、険しい皺を眉間に刻んでいた。

「風牧は火守の民の討伐で名を挙げ、かれらの恨みを買った氏族だ。火守の巫は、氏長を籠絡して一族ごと手中に収めたと言っていたぞ」

「知っているよ。多火丸は氏長の庶子で……火守の巫とは従兄弟同士で義兄弟なんだ。元は武官として宮廷に出仕していたけれど、父親が火守の巫に入れ込むようになって一族に見切りをつけて国を出奔したと話していた」

 多火丸殿は、もともと海燕殿の用心棒として雇われている立場だったらしい。海燕殿を介して面識を持ち、身の上話を聞いて興味を持った那岐女が食客として王宮に招いたそうだ。

「多火丸は、夕星媛にずっと会いたがっていたんだよ」

「私に?」

「うん。あなたの育て親の巫女殿のことについて話がしたいってね」

 婆との別れがよみがえり、軋むように胸が痛んだ。

 彼女の亡骸もろとも、杣の宮は跡形もなく焼け落ちてしまったに違いない。いつか故郷に戻る日が来たら、婆の弔いをしてあげなくては……

 私たちは上陸を断念し、いったん王宮に引き返した。

 その日の夕刻、逗留中の宮へふたりの食客を連れて那岐女がやってきた。

大七洲国おおしちしまぐにの奇しき姫宮、夕星内親王殿下。伊玖那見イゥナムヤの猛き若宮、卑流児王子殿下。ご尊顔を拝する機会を賜り、恐悦至極に存じます」

 京人のような流暢な発音で挨拶を述べたのは、初対面のときよりも小綺麗に身形を整えた海燕殿だ。堂に入った跪礼を披露する様は、大陸から遊学のために渡ってきた良家の子弟といった印象だった。

 面を上げた海燕殿のまなざしが私を捉え、薄くほほ笑む。舌舐めずりしながら算盤を弾いているヴィジョンが頭をよぎり、半眼で睨み返した。

 海燕殿の隣では、鉄色の髪の青年が頭を垂らしたまま微動だにしない。

 七洲人らしい中背の体躯はがっしりと逞しく、ひと目で武人だとわかる。冠こそないものの、七洲で見慣れた略式の朝服を纏っていた。

「改めて紹介するよ。こちらが商人の晶海燕しょう かいえんと、風牧の多火丸だ」

 那岐女に促されて多火丸殿が面を上げる。薄茶色の三白眼がまっすぐ私を貫いた。

 二十歳をいくつか過ぎた年ごろだろうか。日に焼けた肌が精悍な、どこか幼い顔立ちをしている。

 従兄弟というわりに火守の双子と似通った点は見当たらず、七洲ではごく平凡な風貌だ。

 多火丸殿は小さく瞬き、まぶしい光を前にしたように目を伏せた。

「お初にお目にかかります。風牧の丹毘麻呂たびまろの庶子、多火丸にございます」

「はじめまして、多火丸殿。お話は稚神女からお伺いしています」

 王宮へ招聘された際、旅籠で感じた視線の主はかれに違いない。迎えの兵に紛れていたのだろう。

「火守の男巫とその弟は、あなたの従弟だそうね」

「然様にございます。あれらはわが叔父、風牧の黄毘麻呂きびまろが北夷の梟師の娘に産ませた鬼子。幼きころは北夷の集落で育ち、兄はタテルイ、弟はアクライと呼ばれておりました」

 タテルイ、アクライという名を耳にした瞬間、金色の草原に立つ異民族の男の子たちのヴィジョンが視えた。

 夜と朝のあわい、光が生まれ闇が去る間際の世界。手をつないだふたりの男の子の、片方は山脈のむこうから立ちのぼる曙光にふちどられ、片方は暁闇の暗い影に塗り潰されている。

 影に覆われた面貌かおの、右目があるはずの箇所で一際濃い陰りが黒煙のように揺らめいていた。陰りはとぐろを巻き、ぽっかりと穿たれた暗黒色の孔となる。

 ――孔の奥底から、何か・・がこちらを覗いている。

 冷たい死人の手で心臓を撫で回されるような怖気が走った。あれは――〈死〉だ。

暁の火を熾す者タテルイあだしくにを統べる者アクライ

 はじめて聞く言葉なのに、するりと意味が思い浮かんだ。

 あだしくに・・・・・とは『他国』や『異民族の土地』という意味合いの言葉だ。だが、あだし・・・は『無常』という意味も持っている。

 すなわち、無常の国――死の国とも解釈できるのだ。

 悪霊王の別名はまかるの王。死の国の統治者――不吉な符合に身震いした。

 タテルイと呼ばれていた兄が氏族を率いる若長であり炉の女神の男巫ならば、アクライの名を与えられた弟は何者なのか。

「皇女様?」

 多火丸殿の訝しげな呼びかけにヴィジョンが霧散する。

「ああ……ごめんなさい。きっとその名はかれらの真名なのね。一瞬、子ども時代のかれらが視えたの」

「過去視――でございますか?」

「過去の記憶……というよりも、かれらの真名が持つ言霊が映像として現れたと言えばいいのかしら」

 火守の双子の真名には強い言霊が宿っている。

 祝福ではない。母親である火守の巫女姫がこめた、しゅだ。

「かれらのことは風牧で与えられた名で呼んだほうがよいわ。これまでどおり奼祁流と阿倶流、と」

 名にこめられた呪は呼べば呼ぶほど力を増す。特にアクライの名から漂う〈死〉の気配はあまりにおぞましい。

 思わず眉間に皺が寄る。海燕殿が興味深そうな顔で那岐女を窺った。

「なるほど。内親王殿下は聞きしに勝る巫師ふしでいらっしゃるようですね、稚神女」

「夕星媛はわたしよりずっと強い異能の持ち主だよ。惜しむらくは巫女の修行を積まずにここまで来てしまったことだ」

 ため息まじりにぼやいた那岐女は頭を振った。

「彼女の育て親は七洲随一の巫女にして呪師だったそうだよ。どうして相応の教えを授けなかったのかさっぱり理解できない」

「……何者でもない、ただ視えるだけの無力な幼子だからこそ皇女様は生かされたのだと、千幡ちはた様はおっしゃっておりました」

 多火丸殿がぽつりと呟いた。

 ハ、と掠れた息が洩れる。千幡とは久方ぶりに聞いた婆の名だ。

「千幡様は先代の大皇の寵愛深い占者でしたが、神がかった異能をおそれた今上から疎んじれ、数多の凶兆を読み人心を惑わしたという謂れなき咎を負わされました。皇女様を巫女としてお育てしたら大皇の勘気をこうむるに違いない。だから何も教えず、伝えず、真の護り手が現れるまで健やかであるようお育て申し上げるのだ――と、お話しされていました」

「多火丸殿は……婆をよく知っているの?」

「占者としてのご高名は聞き及んでおりましたが、実際にお会いしたことは二度ほどです。わが父が北夷の鬼子に誑かされて以来、この身に代えても討ち滅ぼすべきか否かと迷っていた折、千幡様御自らお導きくださいました」

 ――いつか夕星媛が南へ渡るとき、その旅路の果てにこそ氏族を救う道が見つかる。

 さらりと吐かれた台詞に気圧される。

 多火丸殿の瞳は、獲物に狙いを定めた鏃のごとく静謐に光り輝いていた。

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君はみなぎわの光 冬野 暉 @mizuiromokuba

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