四 波夫里の女王〈上〉
はふりのおおきみ〈1〉
墨を磨ったような薄闇に、仄青いあかりがぼうと灯った。
青い火屋で覆われたランタンに案内役の神女が火を入れたのだ。ひとつふたつ三つと、柱のあいだに吊るされたランタンの青ざめた燈が浮かび、室内の様子を照らしだす。
開放的な造りの伊玖那見の建築では珍しい、塗籠のように四方を壁に囲われた部屋だ。ある程度の広さはあるものの、窓が一切ないために息苦しく感じる。まるで継ぎ目のない石棺の中に閉じこめられているかのよう。
仄青いあかりに煙の影がうっすらと波打つ。四方を支える柱の根元に小さな香炉が置かれ、細い煙が天井までするすると立ちのぼっていた。
あたりにはお線香のような香りが漂い、それが余計に死の気配を色濃く感じさせた。病院の霊安室や、火葬場の待合室の空気を連想させる。
部屋の中央には大陸風の寝台があった。匣型の天蓋から紗帷が垂れ下がり、寝台に横たわる貴人の姿を覆い隠している。
案内役の神女は寝台の前で跪くと、長い両袖に面を伏せた。
「大神女の玉体はこちらに」
私は隣の那岐女をちらりと一瞥した。
姫宮の装いに長躯を包んだ少年は伏し目がちに寝台を見つめていた。仄青い光を帯びた横顔は硬く、口元がぎゅっと強張っている。
反対側に控えた水沙比古を見遣る。若宮にふさわしく身形を整えた私の護り手は、目が合うと「二の媛に任せる」とばかりに頷いた。
「那岐女殿。大神女のご尊顔を拝してもよろしいかしら」
「――ああ。かまわないよ」
諾と答える声は淡々としていた。
案内役の神女が恭しく寝台の紗帷をまくり上げると、暗がりに細身の老女が仰臥していた。
真白の上衣と裳。癖の強い霜髪が敷布の上に広がり、痩せて節榑立った両手を胸の上で組んでいる。
切れ長な眦を縁取る魔除けの紅。深い皺が刻まれた貌は、眠っているにもかかわらず
美しい
「お婆様」
ぽつりと呟き、那岐女は寝台に歩み寄った。裳裾にかまわず膝をつき、大神女の手をやさしく撫でる。
「ほら、ヒコが帰ってきましたよ。お婆様が会いたがっておられた黄昏の瞳を持つ巫女姫を伴って」
那岐女の言葉に、ゆらりと煙の影が揺らめいた。
両眼に神経を集中させて大神女を凝視する。かろうじて呼吸はあるものの、彼女の肉体は
サーモグラフィーの画像のようなヴィジョン。大神女の身の裡に納まっているはずの霊魂が見当たらず、臍のあたりから仄赤い光が細くたなびきながら天井まで伸びてどこかへ消えていく。
あの光は肉体と霊魂を結ぶ緒だ。
「大神女の御魂はいずこに?」
私の問いかけに、うなだれていた那岐女が頭をもたげた。
案内役の神女は驚いた顔をしている。
「夕星媛。あなた、
「ええ、そうみたい。玉体は空っぽで、御魂だけ別の場所へお出ましになられている状態だわ」
「……体から魂がなくなっているのに、大神女は生きているのか?」
水沙比古が理解しがたいと言わんばかりの口調で訊いてきた。
「魂の緒は切れていないから、完全に霊魂が失われてしまったわけではないのよ。危うい状態には変わらないけれど、精神力と呪力で肉体の生命活動を維持している。今上猊下は、まさに巫王と呼ばれるにふさわしい異能をお持ちね」
「
那岐女は呆れたように頭を振り、薄闇に揺らめく魂の緒を見つめた。
「わたしにも細く伸びた光が視えるよ。側仕えの神女たちも、ある程度把握できる。だけど、一歩臥所の外へ出ると追えなくなってしまうんだ」
「どういうこと?」
「お婆様が意図的に痕跡を消しているのだと思う。万が一、わたしや神女たちが追いかけてこられないように」
大神女の手を撫でさすりながら、那岐女は呟いた。「
「波夫里……」
「七洲では
奥津棄戸とは棺や墓所を表す古語だ。死者の亡骸を棄てる場所という言葉が転じて、亡骸を納める棺、更に棺を埋葬する墓所を意味するようになった。
「お婆様の生霊は波夫里の岩室にいらっしゃる。藩王家に伝わる霊場のひとつで、王族の血に連なる神女だけが入ることを許された禁域だよ。岩室は常に守り目の神女によって鎖されているのだけれど、守り目には死期の近い神女が就く習わしなんだ。守り目の神女は生きながら肉体を捨てて、命が絶えるまで霊魂のまま岩室に留まらなければならないから」
「大神女は守り目の任に就いたのか?」
水沙比古の質問に、那岐女は苦々しげに表情を歪めた。
「うん。先代の守り目――お婆様の従姉君がお隠れになられたとき、ほかにお役目を継げる者がいなかった。するとお婆様はなんの相談もなく、『あとはよしなに』と言い放って眠り薬を飲みやがったのさ」
大神女はなかなか豪胆な人物らしい。育て親の婆を思いだし、ほろ苦い郷愁を噛みしめた。
「習わしどおり、お婆様は二度とお目覚めにならないだろう。このままでは大神女が空位になってしまう。だからわたしは――なんとしてもお婆様がお隠れになる前に、夕星媛に大神女を継いでもらいたいんだ」
男子である自分では正統な跡目になれないから。那岐女の口調には苦悩と悔しさ、それ以上に一国を背負う王族としての矜恃が滲んでいた。
夢の中で邂逅した
以前の役目は後継に譲ったと語っていた。私を次期稚神女候補ではなく、生太刀の鞘として見做していた。
それが天命なのであると迷いせず。
思わず長いため息が洩れた。那岐女が片眉を跳ね上げ、きつく睨んでくる。
「何が言いたい?」
「ああ、勘違いしないでね。あなたに文句があるわけではないの。私を育ててくれた婆もそうだったのだけれど、巫女って歳を重ねれば重ねるほど勝手気ままな性格なるのかしら。お互い苦労するわね」
砂金水晶の瞳が胡乱げに瞬く。
私は那岐女の傍らに膝をつき、目線を合わせて話しかけた。
「那岐女殿、大神女の御名は燦様とおっしゃる?」
「……そうだけれど」
「では間違いないわ。私、夢で大神女にお会いしたの。海辺の洞窟に霊魂のまま迷いこんでしまって――たぶん、あそこが波夫里の岩室だったのね」
「はあ!?」
那岐女がぎょっと声を上げた。
案内役の神女は唖然としている。さもあらん。
「お若いころのお姿で、ただ神女の燦とだけ名乗られたから、まさか私も大神女だとは思いもしなかったのよ」
「ちょ――ちょって待って。霊魂だけ飛ばして波夫里の岩室に行ったの?」
「偶然による事故よ。波夫里の岩室は闇の女神の胎内に擬した霊場だから、無意識に女神の痕跡を追いかけてしまったのだろうと言われたわ」
朱金色の両目を指差すと、那岐女は眉をひそめつつも口をつぐんだ。
「大神女は、以前の役目は後継に任せて守り目になったとおっしゃっていたわ。私を次代の稚神女にとお考えなどなっていなかった。波夫里の岩室には藩王家が代々受け継いできた神代の遺物が封じられていて、それを私と水沙比古に託すように常夜大君から神託を受けたそうよ」
「なんだよ、それ」
那岐女は顔を歪め、深く眠り続ける大神女を見下ろした。
「わたしを認めたことなんてなかったくせに。男のままでは表に出せないからと女の格好をさせて、女名を名乗らせて、女のふるまいをさせて……どんどん大人の男になっていくわたしを、父様に似ていくわたしを忌々しそうに見ていたくせに!」
ドンッ、と大神女の枕元に少年の拳が振り下ろされた。
案内役の神女が「稚神女!」と批難めいた声を上げる。
「お婆様の後継は、本来は母様だったんだ。だけど母様は禁を犯した。海に出て帰ってこなかった父様を取り戻そうとして……お婆様は、母様を狂わせた父様を、その息子であるわたしとヒコを憎々しく思っているはずなんだ」
「病で亡くなったのではないのか? おれたちの母宮は」
片膝を折った水沙比古が、私を挟んで那岐女に尋ねた。
「違うよ」
那岐女は力なく首を横に振った。
「舟乗りだった父様は海で死んでしまった。それを受け容れられなかった母様は父様をよみがえらせようとした。詳しい方法は知らないけれど、藩王家には死返しの禁呪が密かに伝わっているらしい」
息を呑み、私と水沙比古は顔を見合わせた。蕾王女は、おそらく生大刀を使って夫君の死返しを試みようとしたのだ。
「母様は――常夜大君の怒りを買って発狂し、海に身を投げた」
しかし闇の女神の怒りはあまりに激しく、蕾王女の命だけでは贖いきれなかった。
「罪穢を祓うための供犠を捧げよと、神託が下ったんだ。咎人が産んだ双子の男児の、どちらかひとりを形代として海に流すようにと」
玉庭で幻視したヴィジョンがフラッシュバックする。
礫のようなスコールに打たれながら、泣き叫んで片割れに手を伸ばす男の子と、悲しげに笑って別れを告げる男の子。あれは――幼き日の兄弟が引き裂かれた場面だったのだ。
「そしておれが供犠に選ばれたのか」
那岐女の肩がぐっと強張る。水沙比古はわずかに目を細め、大神女を見遣った。
「ならおれは、伊玖那見の親父どのとおふくろどのに助けられたんだな」
静かな声は、不思議なほどはっきりと室内に響いた。
那岐女がのろのろと顔を上げる。不安定に揺らめく砂金水晶の瞳を、凪いだ銀碧の瞳がしっかりと受け止めた。
「海の底で見た真っ暗闇を憶えている。たぶん、本当ならあのまま海神に連れていかれるはずだった。でも、きっと伊玖那見の親父どのとおふくろどのが海神の手から救いだして、和多の浜まで連れていってくれんだ」
水沙比古はトン、とこめかみを指で叩いた。
「ヒコの記憶を失ったのは、命を見逃してもらった代償なんだろう。確かに伊玖那見のヒコは、いちど死んだ。でも、親父どのとおふくろどののおかげで和多の水沙比古として生き永らえた」
「……そんなの、ただの都合のいい解釈だ」
「そうかもしれない。だが、そう考えると嬉しいよ。伊玖那見の親父どのとおふくろどののおかげで、おれは生まれ故郷を目にすることができた。血を分けた兄弟に出会えた」
水沙比古は薄く笑んだ。「正直に言って、ナキの行いは許しがたいが」
那岐女が青ざめて凍りつく。水沙比古は肩を竦めて私を一瞥した。
「二の媛が許したのなら、もうとやかくは言わぬ」
「ヒコ――」
「二の媛の夢に現れた大神女は、
「ヒコまで、ずいぶん意地の悪いことを言うね」
那岐女はため息を吐きだし、ぐしゃりと前髪を搔き上げた。
「わたしは――おのこなのに」
「実力も実績もじゅうぶんなら、いまさらだれも文句なんて言わないさ。自信がないのなら直接聞きにいけばいい」
水沙比古が手を差しだす。
那岐女は泣きそうな顔をして、逡巡の末に片割れのてのひらに手を置いた。
更にその上に私が手を重ねると、那岐女はびくりと身を震わせた。
雷雨の中で慟哭する男の子そのままの、本来のかれ自身をようやく見つけた気がした。
「会いにいきましょう。三人で、大神女の許まで」
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