おちのつるぎ〈3〉

 滞在先として用意されたのは、奥殿の一画にあるこぢんまりとした宮だった。

 本来、奥殿は大神女と稚神女の配偶者や子女が住まう後宮だ。しかし今上の王配は死去したり国外へ出てしまったりでだれもおらず、蕾王女の異父妹である砂羅さら王女――水沙比古と那岐女の叔母君――はお産で亡くなっているため、現在は砂羅王女の息女のよう媛だけが暮らしている。

 宴席で顔を合わせた瑶媛は齢九つの、利発そうで警戒心が強い小動物のような印象の女の子だった。丁寧な挨拶はしてくれたものの、私や水沙比古を見る目には不信感がありありと浮かんでいた。

 血筋でいえば次の稚神女に最もふさわしいのだが、神女になれるほどの異能を持っていないという。那岐女はたったひとりの従妹をたいへんかわいがっているらしく、瑶媛も那岐女には瞳をあどけなく輝かせて笑顔を見せていた。

 長らく閑散としていた奥殿だが、私たちが訪れると夜半にもかかわらず大勢の女官が待ちかまえていた。

 あれよあれよという間に水沙比古と離されてしまい、女官たちの手で盛装をほどかれて湯殿に追い立てられた。

 体の隅々まで磨き抜かれて香油を塗りこまれ、生絹すずしのように薄くてひらひらした寝衣を着せられる。洗い髪に白いぶっそうげの花を一輪飾ると、仕上げ係の女官は満足そうにほほ笑んだ。

「こちらへ」

 しずしずと手を引かれて別室に移動する。

 戸口の両側に立った女官が垂れ絹をまくり上げて頭を垂らしていた。困惑しながら垂れ絹を潜ると、薄紅色の火屋に覆われたランタンのあかりが艶めかしく室内を照らしていた。

 臥所だ。中央には大陸風の立派な寝台が置かれ、枕元の香炉から立ち上る煙がいっそう陰影を滲ませている。

 女官が一礼して退出すると、するすると垂れ絹が下ろされた。私だけぽつんと残される。

 今夜はここで休めばいいのだろうか? 戸口の外には女官が控えているようで、確認しようとした矢先に再び垂れ絹がまくられた。

「これより、若宮がお渡りになられます」

「え?」

 垂れ絹を潜って現れた水沙比古と目を丸くして見つめ合う。水沙比古の後ろで垂れ絹が下りてしまった。

 水沙比古も湯上がりらしく、ほどいた髪をゆるく束ねて肩に流し、私と同じ生地の寝衣に着替えている。布越しに筋肉質な胸板が透けて見えて、思わずぎくりとした。

「なぜ二の媛がここに……?」

 少年の視線が妾の顔から下へと動き、弾かれたような勢いで背を向ける。

「水沙比古?」

「みっ……見ていないぞ! 見ていないからなっ、おれは!」

 慌てふためく口ぶりにはたと気づく。水沙比古と揃いの寝衣ということは、つまり――

 悲鳴を上げそうになった。寝台の掛布を引っぺがして、ぐるぐる体に巻きつける。

「……もういいわよ」

 おそるおそる振り向いた水沙比古は、掛布にくるまった私の姿に安堵の息を洩らした。

「いったいどういうことだ? 手違いで二の媛の臥所に案内されてしまったのか?」

「手違いではなさそうよ。あなたが入ってきたとき、『若宮のお渡り』と女官が言っていたから」

「は?」

 眉間に力を込めて室内を見回す。出口を閉ざす垂れ絹に奇妙な気配を感じた。

 しばし睨んでいると、垂れ絹の表面に仄光る紋様がぼうっと浮かび上がった。外から入ることはできるが中から出ることはできない、たちの悪い呪術だ。

「那岐女殿の指図でしょうね。私たちを同衾させたいのよ」

「どっ……!?」

 水沙比古は目を剥いたまま固まった。

 垂れ絹以外にも呪術が施されていないか探してみたが、特にそれらしい痕跡は見当たらなかった。やれやれと嘆息し、寝台に腰を下ろす。

「私たちの仲を誤解したままなのか、自分が断られたから水沙比古を代わりにと思ったのかまではわからないけれど……よほど急いで子どもを産んでもらいたいのね、私に」

「ナキは何を考えているんだ!? 一発殴ってやる!」

 肩を怒らせて垂れ絹に手を伸ばした水沙比古だが、見えない壁に阻まれたように戸口の前で立ち止まった。

「なんだ? 出られないぞ?」

「臥所から出られないように術がかけられているのよ。きっと朝陽が昇ったら解けるわ」

 私はあくびを噛み殺し、隣をぽんと叩いて水沙比古を手招いた。

「これだけ大きな寝台なら、ふたり並んで寝ても問題ないでしょう。私はこちらで寝るから、水沙比古はもう半分を使ってちょうだい」

「大いに問題あるだろう!?」

 水沙比古はぶんぶん首を横に振った。少年の慌てように訝しむ。

「単に隣で寝るだけよ? 伊玖那見までの舟旅でも同じことをしていたではないの」

「あのときといまとでは状況が違う」

 苦い木の実を噛み潰したような顔で、水沙比古はため息を吐いた。

 気怠そうな、どこか熱っぽい仕草に違和感を覚えた。

「水沙比古?」

「この部屋……妙に暑くないか? 頭に靄がかかったような……いまさら、酔いが回ってきたのかもしれない」

 水沙比古はいつもより覚束ない足取りで歩いてくると、ふらりと寝台に倒れこんだ。

「だいじょうぶ!?」

「うん……」

 息が荒い。照明のせいで顔色がよくわからないが、ギュッと眉間に皺を寄せている。

 ひと言断って額に触れると、褐色の肌は薄く汗ばんで熱かった。

「熱があるわ。待っていて、いま医女を――」

 不意に手首を掴まれた。

「二の媛」

 乱れた髪の下から潤んだ銀碧の瞳が見つめてくる。水沙比古は体を丸め、もう片方の手で寝衣の胸元を握りしめていた。

「おかしい」

「え?」

「体が熱くて、気が、変に昂ぶっている。それに、おれ、急に……」

 水沙比古は口ごもると、両目を瞑って褥に突っ伏した。強張った肩が呼吸に合わせて震えている。

 私は慌てて水沙比古の背中をさすった。

 急激な体温の上昇と興奮状態。確かに不調と片付けるには奇妙だ。

 もう一度室内をくまなく探る。……さっきよりも煙が濃くなっている?

 まるで、暗い紅色の靄が立ちこめているような――

 くらりと眩暈がした。血液が逆流しはじめたみたいに身の裡から熱が滲みだす。

 まずい。

 この煙を吸いこんではいけない。とっさ口元を袖で覆い隠した。

 異様な火照りとともに息が上がる。煙に何かしらの毒が含まれているのだ。

 早急に脱出しなければ。なんとか垂れ絹の呪術を破れないか綻びを探していると、するりと垂れ絹を掻き分けて那岐女が入ってきた。

「おや」

 長い髪を背に流し、薄物の寝衣をしどけなく素肌に纏った姿は、淫蕩な遊び女そのものだ。ぐったりとうずくまっている水沙比古と、かれを庇いながら睨みつける私を見比べ、妖しくほほ笑んで近づいてくる。

「まだ意識を保っているとは驚きだ。ナキはしこたま呑んでいたから、すっかり動けないようだけれど」

 寝衣の裾を割って現れた少年の膝が寝台に乗り上げる。髪を耳にかけながら顔を寄せてこようとする那岐女に、私は獣のように唸った。

「触らないで。私にも、水沙比古にも」

 拒絶の言葉は一瞬、那岐女の動きを止めた。水沙比古と同じ形の眉が不愉快そうな線を描く。

「ずいぶん強気だね。逃げ場なんてないのに」

「毒を盛ったりして、私たちをどうするつもり?」

 那岐女はくすりと笑った。

「毒なんて盛っていないよ。安心して、この香には媚薬の効能があるだけさ」

「び……なんですって!?」

「宴で出された酒があるだろう? あれを呑んでからこの香を嗅ぐと色欲が高まるんだ。南妓の手管のひとつだよ」

 薄紅色の火あかりに砂金水晶の双眸がゆらゆらと輝いている。意識がくらみ、狂おしい熱に呑みこまれそうになる。

 いけない。このままでは、身も心も那岐女の術中に――

「わたしと子を生すことがいやなら、かまわないだろう? ヒコも直系の王子なのだから、きっと強い異能を持つ子が生まれるはずだ」

 那岐女は無邪気な笑顔でとんでもないことを言い放った。溶けかけた思考がぱきんと凍りつく。

「生まれてくる子は、どちらの種でもわたしとヒコに似ているのだろうね。ああ、楽しみだなぁ。わたしとヒコの子をあなたが産んでくれたら、みんなずっといっしょにいられるんだ」

 少年の手が伸ばされる。褐色の指先が届く前に、私は那岐女の袖を掴んだ。

「ふ――ざけるなぁ!」

 瞠目する那岐女を引き寄せ、思いっきり顎下に頭突きを食らわせた。

「〜〜ッ!?」

 盛大に舌を噛んだらしい那岐女が言葉にならない悲鳴を上げた。体勢を崩したところへ鳩尾を全力で蹴りつけると、どすんっと寝台の下に落ちた。

 起き上がる隙を与えずのしかかり、鼻先が触れ合う至近距離で眼光を浴びせる。爛々と燃える邪眼に睥睨された那岐女は、呼吸も忘れて硬直した。

「私の体も心も、私のものだ」

「ひ――は……」

「水沙比古の体と心は、水沙比古のもの。私も水沙比古も、あなたのものにはならない」

 那岐女の喉がひゅうと鳴る。

 胸倉を掴んでいた手を放すと激しく咳きこみ、両手の甲で顔を覆ったまま脱力した。

「稚神女? いかがなさいました!?」

 垂れ絹のむこうから女官が慌てた様子で尋ねてくる。力をこめて呪術の紋様を凝視すると、金色の炎が噴き上がって垂れ絹がぼろぼろと燃え落ちた。

「きゃあ!」

 戸口から覗きこんでいた女官たちが悲鳴を上げた。

 一瞥すると、蒼白になって腰を抜かしたり袖で顔を隠してぶるぶる震えてたりしている。

 故郷でいやというほど見飽きた反応だ。自然と冷めた笑みがこぼれた。

「だれでもいい。すぐに媚薬の解毒剤を持ってきなさい。それから、御匙の手配を」

 ゆらりと視線を滑らせると、目が合った女官が飛び上がって走り去る。おそらく医女を呼びにいったのだろう。

 戸口を塞いでいた垂れ絹がなくなり、香の煙はいくらか薄くなった。私は女官に命じて水盆を持ってこさせると、香炉を水に沈めて完全に火を消した。

 そのころには、わらわらと婢を引き連れて中年の医女がやってきた。

 臥所の惨状に顔をしかめた医女は、私たちを別室に移動させるよう指示を出した。婢や動ける女官が戸板を持ってくると、那岐女、水沙比古、私の順に寝間から運びだす。

 落ち着いた先は、旅籠の客室に似た大陸風の居室だった。庭に接する一面が帷で覆われ、心地好い夜風が吹きこんでくる。

 婢の手を借りて寝椅子に座り、解毒と鎮静効果のあるという薬湯がなみなみと注がれた茶器を手渡された。薬湯はとろみがあり、舌の上に残るような独特の甘苦い味をしていた。

 顔をしかめながら薬湯を飲み干したころ、先に水沙比古を診ていた医女がやってきた。

 かれは居室を仕切る衝立のむこうに運ばれたはずだ。

「水沙……王子の様子は? 無事なのよね?」

「ご安心ください。王子殿下も少量ずつですが薬湯をお飲みになり、いまは落ち着いてお眠りになられています。このままゆっくりお休みになれば、明日には回復されるでしょう」

 医女は薄く笑んで頷いた。安堵のあまり寝椅子にずるずると崩れ落ちてしまった。

 そばに控えていた婢が背中にクッションを当てて体勢を直してくれた。

「失礼いたします」

 医女が私の手を取り、脈を測る。両目や口腔の様子を確かめると、小さく息をついた。

「姫宮は稚神女と遜色無い異能をお持ちなのですね。稚神女がお使いになった媚薬の香は、力の強い神女には効きにくいのです」

「そうなの? てっきり飲酒量が少なかったから助かったのかと……」

「それも要因でございましょう。いずれにせよご無事で何よりでした」

 医女の言葉に思わず両目を眇めた。

「王宮の方々は一刻も早く私に稚神女……那岐女王子の子どもを産んでもらいたいのではないの? 今回の一件はかれの独断ではなくて、女官たちも協力していたように見受けたけれど」

 正殿や奥殿で働く女性たちは稚神女が男子であることを承知している側なのだ。私の指摘に、医女は深く頭を下げた。

「姫宮のお怒りは至極当然。……稚神女が若宮であることを知る者の多くは、常夜大君の加護篤き姫宮とのご成婚、更に姫宮がお世継ぎとなられ、若宮と手を取り合って築かれる御世の訪れを心待ちにしております。しかし、そのために姫宮を陥れ、あまつさえ無体を強いるような行いが許されるなどありえません」

「つまり今夜の謀りごとは王宮の総意ではなく、稚神女とかれに賛同した一部の女官の暴走……ということかしら?」

「仰せのとおりかと」

 私は深く息を吐いた。

 偽りを述べていない。赫々と輝く神女の瞳を前にして、真実以外を口にするなど愚の骨頂だと理解しているのだ。

「稚神女が事を急いた理由は何かしら。宴の席にもお見えにならなかった大神女と関係があること?」

「それは――」

 顔を上げた医女の表情が歪む。

 私が自白を誘導する前に、長身の人影がふらりと視線を遮った。

「大神女はね、二年前に倒れてからずっと昏睡状態なんだ」

「稚神女!」

 寝衣の肩に女物の上衣を羽織った那岐女が眼前に立った。乱れ髪を気怠げに搔き上げ、瞳に浮かぶ黄金の粒子を煌めかせる。

 視線がぶつかり、金色の火花が散った。私と那岐女はしばし睨み合い、苦笑を浮かべた那岐女が目を伏せて自ら退いた。

「白状するよ。大神女……お婆様は日に日に衰弱している。歳が歳なだけに、意識が戻らないままいつ亡くなってもおかしくないんだ。跡目を継ぐ真の稚神女が見つかっていないのに――このままだと、国の要である大神女の座すら空白になってしまう」

「既成事実を作って私との婚姻を成立させ、ついでに身籠らせて世継ぎ候補を産んでもらおうという魂胆かしら。まあ、伊玖那見の藩王家はずいぶん野蛮な家風なのね?」

 腸が煮えくり返るような怒りを覚える一方、思考は平坦で冷めきっていた。感情のバロメーターが振りきれると冷静になれるらしい。

 那岐女は拳を握り、フイと顔を背けた。

「謗りはいくらでも受け容れるよ。どうすればヒコとあなたをこの国に留めておけるのか、よく考えたつもりだった。でも……ヒコもあなたも、絶対にわたしのものにはならないとわかったから」

 私はひとつ瞬いた。

 悄然と俯く那岐女は臥所で対峙したときとは打って変わり、置いてけぼりを食らった幼子のようだ。

「そばにいてほしい相手を自分のものにしたいと思う気持ちはわかる。けれど力ずくで支配する方法を選んだ時点で、あなたは永遠にそのひとを失うことになるわ」

 そして、最後には悲劇しか残らない。大皇の死に様がよみがえり、くちびるを噛みしめる。

 ふらつく脚で立ち上がり、那岐女を見据えた。

「私の名は夕星。七洲の皇女、闇の女神の裔にして先触れの娘。伊玖那見が女神の民の地であるというならば、私の行く手を阻まないで」

 医女と婢が平伏する。

 呆然とこちらを見る那岐女へ手を差しのべて訴えた。

「私の同胞はらからわかき女神の巫。私とともに来て。私に力を貸して。私のために、あなたの兄弟のために、あなたの国を守るために」

 額が熱い。夢の中で燦殿の指が触れた場所に光が灯り、宵のそらを駆け上がる一番星のように燃えている。

 天啓のように閃いた。

 死のほとりで眠り続ける大神女。もしかして燦殿は――

「大神女に会わせて。彼女に会って、確かめたいことがあるの」

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