おちのつるぎ〈2〉
ゆらゆらと爪先が揺れている。
いや、体そのものが揺れていた。横抱きの状態で移動しているのだと悟り、瞼を押し開く。
視界は薄暗かった。点々と浮かぶ赤い楕円形の光は――長い回廊を幻想的に照らす、布製の火屋で覆われたランタンだ。
上を向くと、夕焼けのようなあかりに染まった少年の横顔が見えた。睫毛が光を弾き、銀碧の双眸がふわりと笑う。
「目が覚めたんだな。気分はどうだ?」
「――水沙比古?」
「うん。憶えているか? 宴の途中で酔い潰れてしまったんだ」
水沙比古の台詞を聞いた途端、胸がむかむかするような不快感がこみ上げた。
思わず口元を押さえて呻くと、水沙比古は苦笑を浮かべた。
「伊玖那見の酒は強いからな。慣れていないとかなりきつい」
「……私、ほとんどお酒を飲んだことないの。宮中の宴でもさっさと退席していたから」
「すまない。気が回らなかった」
水沙比古は申し訳なさそうに眉を八の字にしている。精いっぱい首を横に振った。
「歓待される側がお酒を断るわけにはいかないもの。さすがに意識を失ったら抜けだせたみたいだけれど」
「……それを狙って無理をして飲んだわけではないよな?」
「まさか。本当に加減がわからなかったのよ。前世だと未成年は飲酒できなかったし――」
十代での結婚出産が当たり前のこの世界では、もちろん「お酒は二十歳になってから」などというルールは存在しない。
水沙比古は元から飲み慣れている様子で、次から次へと注がれる杯をひょいひょい空けていた。私がダウンする前に相当な量のアルコールを摂取していたはずだが、足取りはしっかりしている。
「ところで、主賓が揃って抜けてきて大丈夫なの?」
「ああ。ナキが気を利かせて、いっしょに退席させてくれた。おれたちがいなくなったあとは無礼講でと話していたから、宴自体はまだ続いている」
一瞬だれを指しているのかと考え、那岐女のことだと思い至る。
ヒコ、ナキという呼び名は、双子の王子たちのあいだで使われていた愛称らしい。昔のように呼んでくれと泣いてせがまれた水沙比古はたいそう困り果てていたが、ひとまず納得したようだ。
「あとでお礼を言わないと」
「宴が終わったら二の媛の様子を見に行くと言っていたから、そのときに伝えたらどうだ? さすがに稚神女が途中で抜けるのはまずいらしい」
「結局、大神女は宴にも姿をお見せにならなかったものね……那岐女殿は摂政も兼ねていると聞いたけれど、実質的な公務も引き継いでいるのかしら?」
宴のあいだ、国主の
水沙比古の眉間に皺が寄る。
「そのようだ。日々の祭祀や政の采配も、ほとんどナキが行っているらしい。家臣のあいだでは次代への譲位を求める声が日に日に強まっていると聞いた」
「当然ね。健康で優秀な稚神女に早く即位してもらって、みんな安心したいのよ。でも、那岐女殿は男だから正式な世子にはなれない……」
「だから、血筋も力も申し分ない二の媛を代わりに即位させようとしているのか」
「私を傀儡の国主に仕立て上げたいのかもね。私と結婚して子を生せば、王配として堂々と政に口を挟めるもの。かれ自身優れた巫覡だから問題なく祭祀にも関われるし」
水沙比古が剣呑な表情で黙りこんだ。
私は慌ててパタパタと手を振った。
「あくまで仮定の話よ!? あくまで、仮定の!」
「ナキの求婚を受け容れるのか。二の媛は」
とっさに口をつぐんだ。
あかりがまじって夕暮れの海のように輝く瞳が私を射抜く。胸の奥がざわめいた。
視線の強さに耐えきれず、俯きがちにぼそぼそと答える。
「よくわからないわ。このあいだまで一生幽閉の身の上だったのよ? だれかと結婚して子を産むとか……考えもつかない」
杣の宮に囚われていたころの
結婚も出産も、今生では関わりのないことだと思っていた。だが、いまは自分の家族を一から作る選択肢もあるのだ――たとえ政略的なつながりだとしても。
「おれは」
少年の声が呼気とともにつむじを掠めた。私を抱える腕にぐっと力が入る。
「二の媛が子を抱いている姿を見たい気もするし、見たくない気もする」
「なあに、それ」
「二の媛と同じだ。自分でもうまく説明できない。ナキの子を産んだ二の媛を想像すると……腹の底がぐるぐるして、いやな感じがする」
奥歯に物が挟まったような、水沙比古には珍しくもごもごとした口ぶりだった。
なんだか妙に気が抜けて、胸に凭れかかって笑ってしまった。
「そうね。だれが相手か見当もつかないけれど、いつか結婚して子どもができたりするかもしれないわね。……少なくとも、いまはそのときではないわ」
肩をぽんと軽く叩くと、水沙比古は脚を止めた。
腕を借りながら黒光りする床に降り立つ。ランタンの燈に照らされた廊下には、薄紅色をした夜の帳が下りていた。
酔いから醒めた意識を研ぎ澄ませれば、離れた柱の陰に潜む人影がひとつふたつ。粗末な官服から察するに、監視を命じられた下級の宮人か
水沙比古も尾行に気づいていたらしく、瞳の動きだけで後方を一瞥してみせた。
敢えて追跡者の視界に入ったまま、さも宴の余韻を語らうように腕を引いて水沙比古の耳に小声でささやく。
「夢を見たの。伊玖那見に来るまでの舟旅で見ていたものとは違う夢よ」
私は夢の中で出会った燦殿や、海辺の洞窟に封じられている変若の剣について説明した。
水沙比古は眉根を寄せ、口を引き結んで私の話に耳を傾けていた。
似ている――と思った。
あえかな光に照らされた面差しが、どこか燦殿を彷彿とさせる。
親族なのだから顔立ちが似通ってもおかしくはない。当代の大神女や祖母と世子の座をかけて競い合ったという経歴を考えれば、燦殿も直系に近い出自なのだろう。
彼女は、私を祖母に似ていると言っていた。つまり明星や、私たち姉妹が生き写しだとさんざん言われ続けてきた亡き母も、伊玖那見人らしからぬ白い肌を持つ祖母の血を色濃く受け継いだのだ。
己の目指すべき場所は生まれ育った国の頂点ではなく海のむこうだと識ったとき、若き祖母は何を思ったのだろうか。
ふと、翡翠の手環からさざめくような感覚が伝わってきた。
「神の剣の担い手――か」
水沙比古がぽつりと呟いた。
「たいそうな役目だな」
「私も、実感なんて湧かないわ。目覚めた生大刀がどれほど強大な力を振るうのかわからないのに、
途方に暮れる心地でうなだれると、水沙比古の両手が肩に置かれた。
「逃げたいか?」
顔を上げると、銀碧の瞳が静かに私を見つめている。私が逃げたいと答えれば、いますぐ王宮から攫っていくだろうと確信できる迷いのなさで。
息を吸い、私は首を横に振った。
「逃げないわ。逃げだすことはいつでもできる。でも、立ち向かうことはそのときでなければできない」
手を伸ばして水沙比古の両頬に触れた。結髪のおかげで顎のラインの精悍さが増し、普段より大人っぽく映る。
水沙比古は睫毛を伏せた。
「二の媛は強いな。たまに、その強さがおそろしくなる」
「単なる強がりよ」
以前にもこんなやりとりを片割れとしたことがあった。
あのころのまま、私は弱くて無力だ。けれどいまは、呪わしい両目に視える予定調和の悲劇を覆したくて悪足掻きしている。
どれほど闇に惑い、光に灼かれても。何かできることがあるはずだと信じたい。
「燦殿がおっしゃったの。燃え落ちるはずの星が消えずに地上までたどり着いたとしたら、それは何か意味があるはずだと、私のお祖母様が言っていたと」
「星?」
水沙比古が怪訝そうに首を傾げた。
手環の紋様をなぞると、さわさわとさざめきが耳朶を撫ぜた。穏やかな波音、女性のやわらかな笑声、異国の子守唄にも似た『声』。
祖母から母へ、母から育て親の婆へ。手環に刻まれた女たちの
――生きなさい、わたしの娘。
――生きて、生きて、生きてこそ。
「私は生きたい。私の人生を、私のために。大事な片割れを傷つけてでも。……こんな罪深い望みを、顔も知らないお祖母様に肯定してもらえた気がしたの。生まれる前から死にたくなかった私は、私のままでもいいのだと」
両手に大きなてのひらが重なった。私の目を覗きこむように水沙比古が身を屈めると、コツンと額が触れ合う。
「何度でも言うが、生きたいと思うことは罪などではない。一の媛のことなど捨て置け。おれは二の媛がいちばん大事だ」
呆れと怒りがまじる声に苦笑するしかない。私は水沙比古へ額を寄せた。
「ありがとう。でもね、どんなに憎み合っても明星を放っておけない。あの子が災厄の種になる運命だとしたら、私の手で断ち切りたい。……あなたを巻きこんだとしても」
「生大刀を呼び覚ますのだな」
私は頷いた。
水沙比古のため息が睫毛を揺らす。ギュッと両手を包みこまれた。
「二の媛が己で決めたことなら、それでいい。おれに対して負い目など感じるな。置いていこうとしても勝手についていく」
「故郷に帰ってこられたのに?」
「おれは和多の水沙比古だ。いままでも、これからも」
水沙比古の居場所は私の傍らなのだと、かれは断言する。
「母神の思惑など知らぬ。おれは守りたいもののために剣の担い手になる」
水沙比古は両手をいったんほどき、ゆっくりと私を抱きしめた。
「二の媛も、迷ったり悔やんだりするな。迷いや後悔は判断を鈍らせる。判断を過てば命取りになる。何よりあんたの命を優先してくれ」
「約束するわ」
私は水沙比古の腕に身を委ねた。きらびやな異国の装束の下から聞こえてくる鼓動に耳を澄ませて目を瞑る。
「水沙比古も約束してちょうだい。何があっても生きて延びて、私のそばにいて。たとえ離ればなれになってしまっても必ず探しだすから」
「二の媛なら、根の国に隠れても見つけてしまいそうだな」
水沙比古が笑う。
瞼を透かして光が射すような声に、私は祈りにも似た想いを抱いた。
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