三 変若の剣

おちのつるぎ〈1〉

 ざあざあと、波音が聞こえる。

 私は闇の中にぽつんと立っていた。

 無明の闇ではない。三、四十メートルほど先にいびつな円形の穴が大口を開け、淡藍色の星影が射しこんでいる。

 うねうねとさざめく黒い水面の上を星影が滑る。穴の外から吹きこむ潮風が波音を運び、ざあざあと木霊する。

 素足を包む、冷たく湿った砂の感触。どうやら私は海辺の洞窟にいるらしかった。

 星影を頼りにこわごわ前へ進むと、波が爪先を舐めた。ここが水沙みなぎわだ。

 脱出するためには海へ入るしかなさそうだ。覚悟を決めて裳裾を絡げ、片脚を水に浸そうとして――

「それ以上行くと、引きずりこまれて戻れなくなるぞ」

 背後から話しかけられた。

 思わず飛び上がって振り返ると、いつの間にか人影が佇んでいた。

 星影に照らされた面差しは妙齢の女性のものだった。私と同様に、伊玖那見風のゆったりとした上衣と裳を纏っている。

 無造作に束ねた長い巻き毛。明るい髪色に反して肌の色は暗い。星影を吸いこんで青みがかった白目が際立ち、煙るような金色の瞳が蛍石のごとく底光りしている。

「ここは死せる女神の胎内を模した霊場だ。霊魂の状態でふらふら潜り抜けようとすれば、間違いなく肉体に戻れなくなる」

 男性的な口調にもかかわらず、ハスキーな声は不思議と艶っぽい。女性は肩や腕に絡みつく髪を煩わしそうに掻き上げ、危うげのない足取りで近づいてきた。

「どこの見習い神女が迷いこんだのかと思えば……その朱金色の瞳、七洲から亡命してきたという噂の姫宮か」

「あの、あなたは……?」

さんだ」

 呆気に取られるほど端的な自己紹介だ。

なれと同じ巫、常夜大君に仕える神女ものだ。この霊場の守り目をしている」

 燦殿曰く、この洞窟は実際に那見大島のどこかに存在しているらしい。

 女神信仰の聖地のひとつで神女が行を積むための禁域なのだが、ごく稀に生者の霊魂が迷いこんでしまうことがあるそうだ。まさしくいまの私のように。

 守り目の神女は、生者の霊魂を現世へ導く役目を担っているという。あとは霊場を穢そうとする悪しきものを祓ったり、訪れた神女の修行を手伝ったりするらしい。

われも王族の端くれでな。肉体は王宮にあるのだが、病を得てから長く起きれなくなってしまった。それで、以前の役目は後継に譲って守り目の任に就いたのだ」

 守り目は代々、長時間霊魂の状態で留まれる――死期が近い神女が負うしきたりなのだそうだ。淡々と説明する燦殿の横顔に悲愴感は見当たらず、静かに天命を受け容れているのだと察せられた。

「汝は闇の女神の先触れ、宵告げの娘。知らず知らず女神の痕跡に惹かれて、霊場へ迷いこんだのであろう。力は一流だが、まるで見習いになりたての童のように危うい」

 呆れまじりの批評に首を竦める。単なる陰視として育った私が、巫女の心得など持ちようがない。

 燦殿は眉根を寄せ、首を横に振った。

「いや……汝を責めても詮なきこと。伊玖那見の神女のしるしを忌んだ父御によって、無力な娘に育てよと強いられたのだ。汝を預かり育てた巫女殿は、さぞ口惜しかったであろうな」

 蛍石のまなざしは私の記憶を読み取ったのだろう。見たいものを視る技を持つ、これが巫なのだと痛感した。

 視えたものにただただ振り回されるしかない私とは雲泥の差だ。くちびるを噛んでうなだれていると、「姫宮」と呼ばれた。

「顔を上げて、水面を見てみなさい」

 促されるまま視線を持ち上げると、隣に並んだ燦殿がスイと海のほうへ腕を伸ばした。

 私よりも背が高い彼女はわずかに身を屈め、指先をうねる水面に向けた。

「何が視える?」

「何って……」

「汝は自ずと知っているはずだ。遠きもの、隔たれたもの、秘されたものを視るすべを。吾らにとって、闇は闇ではないはずだ」

 ――闇は闇ではなく、光も光ではない。見えずとも在るものを識る、それがこの目だ。

 ぱちぱちと瞬き、私は両手で目元に触れた。

 眼球がぼうと熱を放つ。瞳が金色に光り輝いていることが手に取るようにわかる。

 瞼を閉ざしても視界は開いていた。金色の光は闇を透かし、暗い水底まで照らしだす。

 洞窟内の砂地がゆるやかな斜面になって海中まで延び、ひと際深い場所が窪地になっている。窪地の中央には、細長い棒のようなものが突き刺さっていた。

 もっとはっきりと識りたくて目を凝らす。

 それは、剣だった。

 ずいぶん古めかしい意匠で、大の男でなければ振り回せないようなずっしりとした幅広の両刃を持っている。海中にあるにもかかわらず錆ひとつなく、銀とも金ともつかない不思議な光沢を帯びていた。

 剣はじっと眠っていた。冷たい海流に身を委ね、いつか再び陸へ上がる日を夢見て待っていた。

 己を振るうにふさわしい使い手の訪れを。

「何がある?」

「剣が……視えます。とても古いのに煌らかで、巨大な生物が眠っているような……」

 私の答えに、燦殿は満足そうに頷いた。

「そう、あの剣は確かに眠っている。遥か神代からずっと」

「神代から?」

「ああ。あれは人ではなく神が造った霊剣だ。あの剣はな、いるのだ」

 蛍石の双眸を眇め、幽明の神女はささやいた。

「お隠れになった闇の女神を追いかけて、光の男神が地底を目指した話は知っているか?」

「は、はい。闇水生都比売の死を嘆いた耀火大神が根の国まで赴き、妻を連れ戻そうとするという……」

「そう。当の女神は子らに課した生と死の理を身勝手に破ろうとする夫を疎んじ、地底に居座った。拒絶された男神は女神を憎み、離縁を申し渡して地上へ戻った。かくして光と闇、生と死は完全に分かたれた――とされている」

 しかし、と、燦殿は言葉を切った。

「男神は女神に怒りこそ覚えたものの、変わらず愛し続けていた。妻をあきらめきれない男神は、変若おちの剣を造った」

「変若?」

「変若とは若返りのことだ。変若の剣は凄まじい精気を刃に帯びており、握れば傷病がたちどころに癒え、老人を幼子にまで若返らせると云われている」

 私は息を呑んで剣を凝視した。愛する妻に顔を背けられようと、耀火大神はとんでもない代物を生みだすほど何ふりかまわずにいられなかったらしい。

 燦殿は片頬を歪めて笑った。

「偉大な神も、愛に狂えば莫迦な男でしかないというわけだ。変若の剣を死者に握らせれば、その命を生者まで巻き戻すことができる。男神は変若の剣を使って女神をよみがえらせようとしたのさ」

「つまり、死返し?」

 私の問いに燦殿は深く頷いた。

「だが、男神の企ては結局失敗に終わった。律を乱すふるまいを見咎めたほかの神々によって阻止され、剣を天上から盗みだして男神の手が及ばぬ地に封じたんだ」

 剣を盗んだのは、右津比売うずひめ左具比売さぐひめという双子の女神だった。

 姉の右津比売は舞踊の名手、妹の左具比売は吉凶を占じる巫女。姉妹は協力し合い、右津比売が得意の舞で耀火大神を誘惑している隙に、左具比売が剣を抱いて天上から飛び降りた。

 巫女である左具比売は闇水生都比売の啓示に導かれて地上を彷徨し、ついに女神の加護篤き南の果ての島々に至った。

 そこには、耀火大神の怒りを買って惨たらしい姿に変わり果てた右津比売が打ち捨てられていた。

 悲嘆に暮れる左具比売に、闇水生都比売は右津比売の手に剣を握らせるよう促した。左具比売が女神の助言に従うと、右津比売の傷はみるみる癒えた。

 姉妹は抱き合って再会を喜んだ。そして闇水生都比売のはらに擬した海辺の洞窟に剣を沈めると、封印の守り目となった。

「やがて姉妹はそれぞれ夫を迎えて子を儲け、現在まで続く藩王家の祖となった。これが藩王家に伝わる建国神話だ」

 仲睦まじく、手を取り合って困難を乗り越えた双子の姉妹神。羨望が切なく胸を焦がし、とっさに目を伏せた。

「……はじめて知りました」

「光の男神を御祖として奉ずる七洲の皇家にとっては恥部のような話だからな。歴史は常に権力者の都合のいいように改竄されるものさ」

 燦殿は肩を竦めてみせた。

「藩王家も同類だ。時代が下ると七洲の反感を買いかねない真実は隠蔽された。大神女や補佐を担う女たちのあいだで、口伝しか残っていない」

 那岐女が、自分は単なる中継ぎに過ぎないのだと笑っていた理由がわかった気がした。

「教えてくださったのは……私が次の稚神女候補だからですか?」

「いいや? 常夜大君からの神託を受けたからだ。『七洲から渡ってくる乙女が伴う若子こそ、生大刀の担い手である』と」

 ぎょっとして燦殿を見る。ぶっそうげ色の爪紅に彩られた指が剣を示した。

「変若の剣は、別名を生大刀ともいう。生と死の理を塗り替える力を持つ剣を御せるのは、死返し――よみがえりを果たした理の外にいる者だけ。すなわち汝と、汝の護り手だ」

「私もというのなら、なぜ水沙比古が剣の担い手なのですか!?」

「巫女たる汝は神の剣を振るうのではなく、その荒魂を慰撫し鎮める役目こそふさわしい。一方であの若子は、汝のためならばいかにおそろしき力もたやすく振るうだろう。しかし、汝がいる限り剣の神性に呑まれることはない。汝は剣の鞘であり、担い手を人の世につなぎ止める錨なのだ」

 燦殿の指先が掠めるように頬をなぞる。死者に近い生者だからなのか、体温は冷たいほど低かった。

 淡い紅を乗せた口元を歪め、燦殿は悲しげに笑った。

「すまないな。吾は女神の意志を語るすべしか持たない。わいらの宿命を、ただ見届けることしかできないのだ」

「燦殿――」

「ああ……近くで見れば見るほど懐かしい色をしているな、汝の瞳は。香彌によく似ている」

 祖母の名を呟く声には、途方もない年月を経た哀惜がこもっていた。

「祖母を知っているのですか?」

「ふふ。汝が視ている姿よりも、本来の吾はしわくちゃの婆でな。香彌とは童のころから同じ宮で寝食を共にし、稚神女の座を競い合った仲だ」

 幽魂の姿は肉体に引きずられるものだが、死者や死期の近い生者の場合、自ずと当人が望む姿を取るらしい。

 燦殿が若かりしころの姿を取る理由のひとつは、姉妹のように育った幼なじみだという祖母なのだろうか。

「香彌は抜きんでた才を持つ神女だった。彼奴あやつこそが稚神女として立つのだろうと、だれもが思っていたよ。吾も、いつか大神女になった香彌をたすけることが自分の役目だと疑いもしなかった」

「祖母は……大神女の座をめぐる争いに破れて国を追われたと聞きました」

 燦殿はゆるりと頭を振った。

「香彌は自ら跡目争いから退いたのだ、『自分の天命はこの国にはない』と言って。国を捨て、旅女の一座に紛れて七洲に渡った」

 祖母が異国に見出した天命とはなんだったのだろうか。燦殿のまなざしが振り向き、まぶしげに私を見つめる。

「別れのとき、彼奴は不可思議なことを言い残した。『そらから燃え落ちる星は地表に至る前に消えてしまう。けれども、消えずに地上までたどり着いたら、それはきっと意味があることだと思わない?』と」

「星……」

「汝を会ってようやくわかった。香彌は未来さきを視ていたのだろう。地上にこぼれた星の宿命を――」

 ざああ、と波音がひと際大きく響いた。

 洞窟の穴から吹きこむ風が燦殿の髪を炎のように靡かせる。星影を帯びた神女の指が伸びて、そっと額に触れた。

「この霊場を探しなさい。剣の担い手と稚神女とともに、いまこそ生大刀を解き放つのだ」

「まっ……待ってください! まだ聞きたいことが――」

は授けた。あとは汝次第だ」

 燦殿はうっすらとほほ笑み、仄光る袂をひらひらと振ってみせた。

おそれるな。光は汝の裡にある。闇は汝とともにある。その眼で、世界を見定めなさい」

 潮風に押され、急速に彼女が遠ざかっていく。

 私は無我夢中に手を伸ばし――ふつりと意識が暗転した。

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