ゆめのつげのみこ〈3〉

 ――私が大神女の後継者?

 那岐女の言葉を何度咀嚼しても飲みこめない。玉庭に降り立ってから湧き水のように溢れる幻影とぐちゃぐちゃに混ざり合い、吐き気すら覚えた。

「おや。顔が真っ青だ、大丈夫かい?」

 きょとんと瞬いた那岐女が顔を覗きこんでくる。すかさず水沙比古が袖で壁を作った。

「気安いぞ。近づくな」

「なんだよ、心配しただけじゃないか」

 那岐女はむっとした様子で口を尖らせた。

「年ごろの近い親族同士、仲良くするべきだろう? それに、夕星媛にはわたしの子を産んでもらうかもしれないのだし」

「……なんだと?」

 水沙比古の声がぞっとするほど低くなった。

 私は呆然と那岐女を見つめた。はくはくと口を震わせ、なんとか言葉を押しだす。

「私が、あなたの子――を?」

 那岐女は、なぜ驚くのかわからないと言わんばかりに小首を傾げた。

「次代の稚神女候補を増やすためだよ。わたしもあなたも巫覡だから優れた素質を持つ子が生まれやすい。再従姉弟同士なら、近親婚による弊害も心配いらないだろうし」

「まっ……待ってちょうだい。勝手なことを言わないで!」

 私は水沙比古の腕にしがみついて頭を振った。髪に挿した花がはらりと散る。

「私と水沙比古は、藩王家で保護してもらえると言われて伊玖那見まで来たのよ。稚神女になるとか結婚して世継ぎを産むだとか、そんな話は聞いていないわ!」

 砂金水晶アベンチュリンの双眸が私を覗きこみ、チシャ猫みたいに笑った。

「特に伝えていないからね、あなたの祖父君には」

「え……」

「だけど、藩王家にあなたたちの身柄を託した時点で承知されていると思うよ? 王族の一員として遇されるなら相応の対価を求められるってね」

 水沙比古の肩がぐっと強張る。

「親父どのが、おれたちを藩王家に売ったのか?」

「ええ? なんで飛躍するのかなあ。違う違う、和多の氏長はあなたたちが生き延びる道を探して伊玖那見へ逃したんだ」

 那岐女はひらひらと片手を振った。

「伊玖那見に渡れば夕星媛は次代の稚神女、ヒコは現稚神女の兄宮。常夜大君のお墨付きなんだから、殺されたり手酷く扱われたりする心配もない」

「……つまり、藩王家の庇護を得たければ二の媛に身を差しだせということか」

 いまにも腰の得物に手を伸ばしそうな水沙比古の様子に、那岐女は下瞼を持ち上げた。

「そんなつもりはないけれど。単純に、今後発生するだろう王族としての義務の話をしていただけだよ」

「命からがら逃げてきた相手にする内容ではない」

「ヒコは何に怒っているの? 夕星媛がわたしの子を産むことが気に食わない?」

 水沙比古を包む怒気がぶわりと膨らむ。私はとっさにかれの腕を掴んだ。

「だめよ、剣を抜いては!」 

「しかし」

「私たちはまだ客人まれびと――余所者なのよ。稚神女に刃を向ければ、ただでは済まないわ」

 水沙比古の眉が険しく歪む。私は首を横に振ってみせ、悠然と佇む那岐女に向き直った。

「藩王家が私に期待する役割はわかったわ。でも、諾々と従える話ではとうていないわね」

「何が気に入らない? ああ、もしかしてふたりは妹背の仲なのかな。わたしとの結婚というのがまずかった?」

 那岐女は薄く笑んだまま、探るようにねっとりとした視線を注いでくる。

 かすかに滲む苛立ちと嫉妬めいた感情に、私は困惑した。

「違う」

 水沙比古はきっぱりと否定した。

「おれたちが交わしたのは妹背の契りではない。主従の誓約うけいだ」

「……ヒコは夕星媛の従者なの?」

「そうだ。おれは和多の水沙比古、二の媛の護り手。そう在ると、神にではなく己に誓った」

 迷いなく宣言し、かれは私を庇う腕に力をこめた。

「おれは二の媛の剣であり、盾だ。二の媛が望まぬことは、けして許さない。もしも無理やり世継ぎの責を負わせ、挙句に子を孕ませるというのであれば――」

「わたしを斬るかい?」

 ひどく暗い声で、那岐女は問うた。いつの間にか紅い口元から笑みが抜け落ちている。

「その手で、わたしを」

 水沙比古は頭を振った。

「去るだけだ、伊玖那見を。おれは、二の媛が心安らかに暮らせる土地へ連れていってやりたい。七洲にも伊玖那見にもないのなら、ほかの国を探す」

 淡々と、本当にそう考えているのだと伝わる口調で、水沙比古は告げる。

「二の媛の心と身を損なってまで、この国に尽くす義理はない。おれはもともと死人で、二の媛は七洲の皇女。客人は、いつか立ち去るものだ」

 どこまでも私に添おうとするやさしさが胸に痛い。

 那岐女は半身を見つめ、ぼんやりと立ち尽くしていた。

「また、わたしを置いていくの。あの日のように――わたしをひとりぼっちにするの」

 褐色の面に引きつれたような笑みが浮かぶ。一瞬、そこに明星の顔が重なった。

 ともに死んでくれと縋ってきた片割れの手を私が振り払ったように、水沙比古もまた失われた記憶とともに過去の絆を手放そうとしている。

 ――ぷつ、と、いまにも糸が切れてしまいそうな音がした。

 冥き泥の海に落とされた三つの玉繭。ひとりでは耐えがたき定めにも、ふたりでなら耐えられるはずだと希望を語っていた女の声。

 あの声の主が常夜大君――闇水生都比売なのだとしたら、彼女は力を合わせて苦難を乗り越えられるよう私たち三組の双子を現世に送りだしたのではないか。

 全き一対に揃えられたはずの私たちは、すでにひと組――明星と夕星わたし――が決裂に至った。さらにひと組、水沙比古と那岐女が袂を分かてばどうなるのか。

 ぷつ、ぷつつ、と、縁の糸がちぎれていく。このままぷっつりと断ち切れたら……

 視界がぶれた。

 絹を裂くような悲鳴が聞こえる。

 おうおうと渦巻く、無数の人びとの叫び。

 世界が真っ赤に塗り潰される。流血。業火。侵略。破壊。殺戮。破壊。殲滅。死。死。死。死死死死死死――!

 紅蓮の赤に、黒い影が浮かび上がった。

 天を衝くほどの巨大な人影が地を這いずり、山の峰を磨り潰す。

 虚ろな闇でできた腕が振り下ろされると、大地が割れ、地中の熱が鮮血のごとく噴き上がった。巨人が触れた水はどろどろした黒色に濁り、河川も湖沼も海洋も腐り澱んだ死の淵に変貌した。

 巨人が咆哮する。

 深紅のそらから漆黒の万雷が地上へ降り注ぎ、野を、森を、田畑を、人里を灼き尽くす。雷鳴は祝砲、魑魅魍魎が高らかに歓呼する。

 世界から遺棄された神、死の王の名を――

「だめよ」

 私の言葉に、那岐女がはたりと瞬いた。

 水沙比古が怪訝そうな顔をする。

「二の媛?」

「だめなの、水沙比古。確かに私たちは客人だけれど、まだ伊玖那見に留まらなければ。この国で見つけださなければならないものがあるのよ」

 私は水沙比古の隣に並び、呆とこちらを見る那岐女と向き合った。

「それにはあなたが必要。神代から常夜大君の神陵みささぎを守り続けてきた巫の裔、稚神女であるあなたが」

「わたしは……仮初めに過ぎない」

「仮初めでも中継ぎでも、あなたは太母神が認めた稚神女だわ。その口が言ったのよ、私たちを招いたのは常夜大君の神託があったからだと」

 那岐女の双眸に力と光が戻る。同時に、悔しげに口を引き結んだ。

「伊玖那見に来るまでのあいだ、夢で女神とおぼしき声を聞いたの。『生大刀を探しなさい』とおっしゃっていた」

「生大刀?」

 那岐女は眉をひそめた。「なんだい、それは」

「私にもわからないわ。七洲の神話では聞いたことがなかったから」

「わたしも初耳だよ。お婆様……大神女なら何かご存じかもしれないけれど」

 若干の落胆を感じつつ、私は気を取り直して訴えた。

「那岐女殿。あなたは私たちの――七洲の現状を知っているのでしょう? 大皇は私の姉に弑され、皇太子の身柄と京は姉と通じていた火守の民の手に落ちた」

「ああ、おおよそは。妣なる女神の娘、炉端の姫神を奉じる巫は、わたしと同じおのこだね。かれはとても強い……おそろしい異能の持ち主だ」

 砂金水晶のまなざしが冴え冴えと澄む。

 那岐女の瞳は、北の果てからやってきた火守の男巫をはっきりと捉えていた。

「かれは破壊者だ。あなたの姉宮と出会い、滅びをもたらす道を選んでしまった。かれと明星媛が熾す火は、いずれ七洲にとどまらず伊玖那見にも大陸にも広がっていく――」

「そして、死の王が現れる」

 那岐女が息を呑んだ。

「死の王……悪霊王あくりょうおうか!?」

「悪霊王?」

 なんとも禍々しい響きに水沙比古が顔をしかめる。

「妣なる女神が光の男神とのあいだに最初に儲けた子どもだよ。体のあちこちが欠損した、肉塊のような異形だった。あまりの醜さに父神に疎まれ、泥の海に投げ捨てられたんだ」

 葬り去られた名もなき不具の神。七洲の神話でも、「わが生める子よくあらず」と嘆いた耀火大神の手で海に流されたとしか伝わっていない。

「棄てられた神という意味で棄神きしんと呼ばれる場合もある。棄神が沈んだ場所に、やがて北方の島々――氷波弖列島が創られた。続いて七洲、最後に伊玖那見ができた」

「棄神が沈んだ場所に?」

「そう、それがまずかったんだ。弔われずに打ち捨てられた棄神の怨念が大地を蝕み、北の陸地は天上の光輝が落とす影から生まれた悪しきものどもが跋扈するようになった」

 天上の光輝の影から生じた悪しきものとは、私たちが陰りに潜むものと呼ぶ存在だ。あれらは棄神の落とし子なのだと知り、寒気に身震いした。

「棄神の呪詛は、国産みのふた柱が生んだ陸地のほぼ全域に及んだ。特に七洲の北部、氷波弖列島の穢れは悲惨で、国つ神ですら逃げだす有り様だった」

「だが、あすこにはもともと北夷の国があったはずだろう?」

「火と炉を司る炫和祺比売かがなぎひめ、北方ではオルヘテと称される姫神が棄神の怨念を鎮めるお役目に志願されたんだ。棄神に悪霊王という仮初めの名を被せて慰撫し、荒魂を封印した。炫和祺比売の御光で棄神の陰りは薄らぎ、姫神を慕った氏族が北の地に移り住んだ」

 炫和祺比売を奉じる氏族は、やがて火守の民と自称するようになった。

 次第にほかの国つ神や氏族も北へ生活圏を広げ、国産みのふた柱が生んだ陸地は命溢るる混沌の時代を迎えた。

「その後の歴史は、夕星媛のほうが詳しいよね?」

 那岐女がちらりと視線を投げてきた。

 私はくり返し婆に聞かされた寝物語の記憶を掘り起こした。

「神代末期の七洲は数多の国つ神を奉じる氏族たちが割拠していたのだけれど、争いが絶えない不安定な世だったの。それを憂いた耀火大神によって天孫……太陽と月の兄妹神の御子である赫流比古命あかるひこのみことを地上に遣わして、七洲の平定をお命じになった」

 赫流比古命こそ皇統の祖だ。七洲平定の大事業は三世代に及び、赫流比古命の孫に当たる初代大皇の御世に成し遂げられたとされる。

七洲くにの平定は、皇にまつろわぬ国つ神とそれを奉じる氏族の討伐という側面もあったの。いくつもの国つ神が名を奪われ、信仰を捧げる民を滅ぼされ、歴史の闇に消えていった……」

「だが、神々の無念は地上に残された」

 思わず喉が鳴る。

「天つ神の血族への恨みは地中深く沈殿し、棄神の怨念と混ざり合っていった。国つ神たちの怨嗟を吸収し続けた棄神は、仮名どおり悪霊の王、死せるものたちの王になってしまったんだ」

「つまり悪霊王は、棄神の怨念と国つ神たちの無念の集合体ということ?」

「あくまで核は棄神だけどね。炫和祺比売の封印がある限り、悪霊王は消えることはなくても眠り続けるはずだった――」

 私はくちびるを噛んでうなだれた。

 皇と風牧の氏族によって火守の民は攻め滅ぼされ、わずかな生き残りは最北の氷波弖列島まで追われた。封印は、失われているに等しい。

「赫日の皇女と火守の男巫によって死の王が解き放たれる。あなたが受けた常夜大君の夢告は、この国のどこかにあるという生大刀を見つけて災厄を回避せよ……ということなんだね?」

「そうよ。私は故郷を守りたい。たとえ刺し違えてでも、姉の暴挙を止めたいの」

「……明星媛を殺すのかい?」

 那岐女が声を低めて尋ねた。押し黙っている水沙比古の表情は硬い。

 無性に泣きたくなって、でも涙はとっくに涸れてしまった。

「いっしょに死んでくれと言われたの。明星には私しかいないから、いっしょに地獄まで落ちてほしいって。でも私は、明星の手を振りほどいて伊玖那見まで逃げてきた」

「二の媛――」

「いっしょにいたかった。いっしょに生きたかった。でもそれが叶わないのなら、ほかのだれでもなく私の手であの子を殺すわ」

 昏く燃えるこの想いが愛だというのなら、私は確かに愛に狂って死んだ父の娘だ。

 私たち皇の愛は苛烈で、支配的で、どこまでも歪んでいる。

「愛している。愛しているから殺すの。そして私は、私の片割れを運命から取り戻す」

 那岐女は目を瞠った。褐色の喉仏が小さく上下する。

「稚神女の座に就くことも世継ぎを産むことも、いまは承服できない。それでも力を貸してくれるなら、あなたをひとりにしないと約束する。あなたの片割れを奪わないと、あなただけに伊玖那見の運命を背負わせないと約束するわ」

「何を言っているんだ、二の媛!」

「水沙比古、わかってちょうだい。私たちには那岐女殿が必要なの。そして那岐女殿には――あなたが必要なのよ」

「それは、巫女としての託宣か?」

 水沙比古は厳しい顔で尋ねた。私は苦い笑みを返し、かれの手を握った。

「そうでもあるし、半分は私個人の願いよ。ようやくめぐり会えたあなたの兄弟を、私のために切り捨ててほしくない」

「……おれはもう、伊玖那見の卑流児ではない」

 銀碧の瞳がさざめく。水沙比古は那岐女を見つめ、血反吐を振り絞るように言った。

「きっとおまえが望むヒコおれには戻れない。おれには大事な故郷も家族うからも主人もある。それでも……おまえが、おれを兄弟と呼ぶのなら――」

「それでいい!」

 那岐女が叫んだ。弾かれたように水沙比古に駆け寄り、寸分違わぬ背丈の兄に抱きついた。

 水沙比古の体が硬直する。やがて那岐女がぐずぐず泣きだすと、脱力して弟の背に両手を添えた。

「それでいいよ。どんな名前でもかまわない。だから、だからもう置いていかないで。わたしの目の前から、いなくならないで……」

「わかった。わかったから、泣くな。おなごの格好をしていても、おまえはおのこだろう」

 ぽんぽんと軽く背中を叩かれると、那岐女は肩を震わせて泣き声を上げた。途方に暮れた様子の水沙比古が視線で助けを求めてくる。

 ――きりりと、儚く途切れかけていた縁の糸が、いまいちど結び直された。

 私は苦い安堵を飲み下し、迷いを滲ませたまま那岐女を抱き寄せる水沙比古の腕に手を重ねた。

 どうか、もう悲しみに引き裂れないように。

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