ゆめのつげのみこ〈2〉

 王宮は高い石垣で幾重にも囲われていた。

 宮中へ入るには、石壁がそそり立つ谷底のような坂道をぐねぐねと登っていかなければならない。まるで石造りの迷路のようだ。

 朱塗りの楼門をくぐり抜けた瞬間、むせ返るような花の香に包まれて息を呑んだ。

 ひらり、風に垂れ絹が翻る。

 色鮮やかな衣を纏った乙女たちが舞い踊るかのごとく、花々が咲き乱れていた。

 ぶっそうげはもちろん、紫や淡紅のいかだかずらブーゲンビリア、燃えるように真っ赤なさんたんか、橙黄色の蝶が翅を広げたようなおおこちょう――

「花神が遊ぶ庭のようだな」

 水沙比古が感嘆をこめて呟いた。

 どこまでも青く広がる南国の空の下、花の波間に翡翠色の瑠璃瓦と紅緋の外壁の宮殿が浮かんでいる。大陸文化の香りが漂う、壮麗な佇まいだ。

「あれが王族の御殿か?」

「ええ。いちばん立派な殿舎が大神女や稚神女の御座所がある正殿。その裏に、後宮である奥殿が建っているそうよ」

 王宮は、まず内郭と外郭に分けられる。内郭は王族の居住エリアと行政・儀礼の場、その他の施設は外郭に点在する構造だ。

 内郭は玉庭ぎょくていと呼ばれる広場を中心に、西に正殿、行政を司る北殿、儀礼を司る南殿が建つ。この玉庭は諸官が大神女・稚神女に拝謁したり、異国の使者を迎えたりする場所らしい。

 行列は玉庭の中央を進む。広場は敷き瓦で舗装されており、馬蹄の音が高く響いた。

 広場の周囲には優に百人を超える正装の男女が並んでいた。母系社会の伊玖那見では女性の官吏も珍しくはなく、色とりどりの衣裳に目が眩みそうだ。

 号令に合わせて行列が止まる。わずかな揺れとともに輿が下ろされた。

「『尊き太母、われらが大神女に申し上げます。常夜大君のお導きにより、陽と月の都から参られし客人まれびとをお連れいたしました』」

 勅使が伊玖那見語で声を張り上げる。輿の外で人影が動き、垂れ絹がまくり上げられた。

「王子殿下、内親王殿下。どうぞお降りください」

 垂れ絹の陰から真赫が促した。水沙比古が無言で頷き、先に輿から降りて手を差しだす。

 その手を借りて垂れ絹をくぐると、凄まじい情報量のヴィジョンが脳裏に流れこんできた。

 遠い過去から近い未来まで、この場に焼きついた記憶が溢れ返る。

 大陸から渡ってきた使節団の行列。力強い太鼓のリズムに合わせて舞い踊る妓女たち。銅色の波のように揺れるかがり火の輝き。

 ――いやだ……いやだ! 

 ――いかないで、ヒコ!

 変声期前の、甲高い少年の叫び声が木霊する。

 激しいスコールが叩きつける中、女官たちに取り押さえられた少年が必死に手を伸ばしていた。いや――少年と呼ぶには幼い、男の子。

 虚空を掻く指先のむこうには、雨に打たれながら立ち尽くす男の子がいた。手を伸ばす男の子と同じ顔をした、白茶けた髪と浅黒い肌、海色の瞳の男の子。

 ――ごめんね、ナキ。

 寂しげにほほ笑む頬を雨垂れが涙となって伝い落ちる。

 ――でもぼくは、常夜大君に感謝しているんだ。ぼくを選んでくださったことを、おまえを生かしてくださったことを。

 ――母さまの罪はぼくが贖う。だからナキ、おまえは…… 

 雨音が男の子の台詞を掻き消した。

 水沙比古の手を握り、呼吸を整える。両脚を踏みしめ、ぐらぐらと揺れる視界の均衡を取り戻していく。

 優秀な従者は黙って手を握り返してくれた。日避けの紗布越しに目が合い、大丈夫と小さく頷いてみせる。

「そのまま正殿へお進みください」

 真赫の言葉に、私たちはゆっくりと前方――正殿に向かって踏みだした。

 玉庭から続く正殿の正面には石段が延び、その上は龍蛇が巻きつく太い柱に囲われた舞台になっていた。舞台の奥にある戸口は五色の垂れ絹に覆われ、屋内を垣間見ることは難しい。

 舞台のすぐ下、石段の両脇に女性たちが三人ずつ並んでいた。ほかの女性官吏よりも華やかで高貴な装いに身を包み、眦には魔除けの紅を差している。

 階下から彼女たちと視線を交わした刹那、大神女に仕える高位の神女なのだと直感した。育て親の婆を彷彿とさせる静謐な瞳がほほ笑んだ。

 長い袖で顔を隠すように神女たちが拱手した。最も上段に控えた神女が溶々と告げる。

夜の食す国ネィラエィラより参られし死返しの若子と乙女子よ、ご帰還を心よりお待ち申し上げておりました」

 まるで京人のように訛りのない七洲語だ。面食らっていると、神女が面を伏せたままささやいた。

「どうぞ舞台へお上がりください。稚神女がお待ちです」

「……大神女に拝謁するのでは?」

 水沙比古が小声で尋ねると、神女はわずかに袖を揺らした。

「畏れながら、大神女は仔細あってこの場にはお出ましになりません。本日は稚神女が代理としてお会いになられます。大神女へのお目通りは日を改めて機会を設けさせていただきますので、何とぞご容赦くださいませ」

 深々と垂れた神女の頭を胡乱げに見下ろし、水沙比古は視線で「どうする?」と問うてきた。

 私はこくりと頷いた。

「彼女の言うとおりにしましょう。嘘はついていないわ」

「……わかった」

 水沙比古のくちびるは若干不服そうに尖っていた。

 神女の前を通過して舞台へ上がる。一瞬、水中へ潜ったかのように耳の奥で空気が膨らんだ。

 階を駆け上がるように風が吹きつけ、戸口を覆う垂れ絹が閃いた。

 薄い布地を透かして人影が見えた。

 内側から垂れ絹を掻き分け、スウと褐色の腕が伸びた。細い金の手環をいくつも手首に嵌めた、骨張った大きな手だ。

 まるで――青年への過渡期にある、少年のような。

「こちらへ」

 垂れ絹のむこうから誘う声にわたしは息を呑んだ。

「もっと近くまで来ておくれ」

 シャランと手環が澄んだ音色をこぼす。

 垂れ絹をまくり上げ、手の持ち主が現れた。

 水沙比古の喉がヒュッと鳴った。

 同じ水面から弾きだされた雫のように水沙比古そっくりの少年が立っていた。

 腰まである砥粉色の髪をハーフアップにして、頭頂部で結った髷に金鈿と赤いぶっそうげの花を挿している。金鈿から垂れた雫型の金鎖が柱のあいだから射す斜光をきらきらと弾く。

 山吹色の地に濃い赤や紫の花が咲き乱れる上衣と茜色の裳をゆったりと纏った長身は、あきらかに女性ではない。だが化粧をして魔除けの紅にふちどられた双眸は、南国の巫女姫にふさわしい美しさと神秘性を湛えていた。

 間近で向き合って気がついた。顔立ちは水沙比古に酷似しているが、稚神女の瞳はエメラルドグリーンの海面に金砂を蒔いたような色合いだった。

 奼祁流のときと同じだ。初対面のはずなのに強い既視感がまとわりつく。

 稚神女は無邪気な笑みとともに両腕を広げてみせた。

「嗚呼! 嗚呼! この日が来ることを幾年待ち続けたか! ようやく、ようやくわたしの片割れが帰ってきた!」

 金の足環をシャラシャラと鳴らして駆け寄ってくる。水沙比古がすばやく私を背に庇うと、手が届くか否かという距離で立ち止まった。

「ヒコ」

 期待と不安がこもった声が水沙比古を呼んだ。

「わたしだよ。ナキだ、那岐女なきめだ。わかるかい?」

 水沙比古は眉根を寄せ、同じ貌をした少年を見つめた。

「おれは和多の水沙比古だ。それ以外の何者でもない。……この国のことも、あんたのことも、何も憶えていない」

 稚神女――那岐女と名乗った少年の両腕がだらりと垂れた。

 花が萎むように笑顔が消え、表情がくしゃくしゃに歪む。那岐女は目を閉じ、長く息を吐きだした。

「そうか……聞いていたとおりだ。ごめん、困らせてしまったね。気を悪くしないでおくれ」

 頭を振り、朗らかな笑みを作り直す。

 ふと、金色の粒子が散らばる翠緑の双眸が横に滑った。

 私を視界を納めた那岐女は、きゅうと下瞼を持ち上げた。

「はじめまして――は、おかしいかな。あなたとは夢で会ったことがあるのだから」

 そうだ。夢の中で、私はかれと遭遇した。

 冥い海の波間に佇んでいた人影。運命の潮流を手繰り寄せんとする異邦の巫覡。

 闇の女神の恩寵たる金色を瞳に戴く、私の同族。

 私は日避けの紗布を払い落とした。

 那岐女は眉を押し上げ、品定めするかのように私の両目を注視する。

「お婆様がおっしゃっていたとおりだ。黄昏の火を宿した朱金色の瞳。妣なる女神のときを告げる、先触れの娘のしるし」

 夕星媛、と妖艶にほほ笑むくちびるが私の名を発する。引きずりこまれるような力を感じ、私は視線に威嚇と拒絶をこめた。

 小さな火花が弾けると、那岐女は驚きを覗かせた。

「『はじめまして』が正解でしょう。夢は夢、ここは現よ」

 ぱちぱちと瞬き、おもむろに口端を吊り上げる。

「これは失礼」

 女らしい膨らみなどまったくない胸元に手を当て、那岐女は「改めて名告なのろう」と言った。

「わたしは那岐女。巫王の世子にして摂政たる稚神女。まあ見てのとおり性別は男なので、単なる中継ぎに過ぎないけれどね」

「中継ぎ?」

 私の問いに肩を竦めてみせる。

「不幸なことに、いまの王家には大神女の跡目となれるほどの才ある女子がいないんだ。傍流の傍流すら隈なく探して、結局男子のわたしが成人するまで仮の稚神女を務めることになったんだよ」

「……稚神女は、おれの妹だと聞いた」

 黙りこくっていた水沙比古が口を開いた。

「だが、あんたは……おれの弟、なのか?」

「そうだよ」

 那岐女は目を眇めて肯定した。

「同じ母から生まれた、双子の兄弟だ。対外的にわたしは女ということになっているから、妹だと伝わったのではないかな」

 またしても双子だ。明星と私、奼祁流と阿倶流、そして水沙比古と那岐女。

 夢で見た、闇色の海へ流された三つの玉繭を思いだす。

 ひとつはまほろばに。ひとつは北に。ひとつは南に。それぞれの玉繭が流れ着いた先に双子が生まれ、見えざる手が糸を繰るように引き寄せられる。

 ぞくりとした。偶然と片付けるには、あまりに出来すぎだ。

 この世界には神様がいるのだ――といまさら実感し、戦慄した。人間の意志を遥かに超越した存在によって物事が進んでいるのだとしたら、おそろしさに足元が崩れてしまいそうだ。

「堂々と姿を見せてもかまわないのか? 女だと偽っているのに」

 水沙比古がちらりと舞台の下を一瞥する。那岐女は自慢げに胸を張った。

「心配は無用さ。ごく一部の者以外には、わたしを女だと思いこむ惑わしの術をかけているんだ。念のために舞台の周りに防音の結界も張っているから、下まで会話が聞こえることはないよ」

 舞台に上がった際に覚えた違和感の正体に得心が行った。北夷の男巫同様に、伊玖那見の稚神女もまた優秀な呪師のようだ。

「家臣を騙しているのか」

「余計な混乱を防ぐためだよ。それに、わたしはあくまで中継ぎだと言っただろう? 稚神女になれる真の巫女姫が現れたのだから、すぐにでも退くよ」

 批判的な兄の口ぶりに、弟はひらひらと手を振った。

「真の巫女姫?」

 先ほど女子がいないと説明したばかりなのにと疑問符を浮かべると、那岐女は私へにっこりと笑いかける。

「あなただよ、夕星媛」

「……なんですって?」

「血筋も異能ちからも不足ない、当代の王家で最も稚神女にふさわしい姫宮だ。これは常夜大君の思し召しだよ」

 予想外も甚だしい展開に唖然とするしかない。

 水沙比古は険しい横顔で那岐女を睨んでいる。そんな視線など意に介さず、那岐女は笑みを深めて言祝ぎを謳う。

「弥栄、弥栄。うま伊玖那見イゥナムヤと死返しの稚神女に、女神の祝福ぞあれ!」

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