傘子のこと 【短編】

カブ

傘子のこと

 視界にあるすべてのものが、暗闇のシルエットに包まれている。傘子の天上は暗闇だった。……だが、遠くに浮かぶ地平線の空は、まるで業火ごうかに包まれているかのように赤く染まっている。その光が万物の稜線をなぞっているが不思議と赤くは染まらない。ただそこに、なにかがあるとわからせてくれるだけだ。

 傘子は無機質な暗闇の孤島に立っている。孤島の周りにはやはり暗闇の海があって、波がときどき白く光る。


「ここどこだろ……私、地獄に来ちゃったかな」


 海には、他にも孤島がいくつか浮かんでいるが、不思議と赤く染まらない。まるで、光の場所と暗闇の場所とでくっきりと分かれているようだ。


「私がいるのは、暗闇の部分なんだ……」

 ふと、白く光る波が気になって、孤島のへりに近づき、しゃがみこんで海をのぞきこんだ。暗闇に目が慣れてきたのか、スーツ姿の自分が映っていた。

(こんなところにまで来て、なんでスーツなんだろ)

 そんな自分を滑稽こっけいに感じながらも、興味本位で海の水をすくってみる。

(ドロドロしてる……)

 純粋な液体を期待していたが、意外にも粘着質で意表をつかれた。しばらく海面を眺めていると、底の方に無数に光るものをみつけた。よくよく目をこらしてみて、傘子はぎょっとした。海の底に沈んでいるのは無数の人間の目だった。


 裸の人間同士が海の底で、絡まるようにして回転していた。

(歯車だ! 人間の歯車だ!)

 海の底には、人間の歯車の塊が音もなく回っている。老若男女が無差別に、だが彼らは苦しそうでも痛そうでもなく、無表情で、まるで感情すらないようにみえる。見渡してみると、海一面に人間の歯車が沈んでいる。

 傘子は言葉を失った。手足が震えて、そこから一歩も動くことができなかった。

 すると、黒い人影が空中を飛んでいるのに気づいた。ひとつ、ではない、無数の黒い影が孤島から孤島へ跳ね回っている。


――。


 目が覚めたときはびっしょりと汗をかいていた。それが真夏の暑さのせいなのか、悪夢をみたせいなのかはわからなかった。

(人間の歯車……なんだろ、働き過ぎなのかな)

 少し息も荒かった。傘子は落ち着かせるように深呼吸をしていると、窓の外から、


ぴちゃ、ぴちゃ


 という音がするのに気がついた。雨でも降っているのか、とも思うが、雨音とも違う。足を引きずるように路上を歩いているような音だった。傘子の部屋は一階だから、なおさら近く聞こえる。

 不思議な音だと思いながらも、あまり気にせず、再び深い眠りに落ちていった。


 翌朝、寝坊をして慌ただしく家を出た。自分を家から追い出すように、スーツに着替え、化粧をして駅へと向かったが、電車には間に合わなかった。

(遅刻だ……夢見が悪かったからかな。身体が重たい感じがする)

 車内はぎゅうぎゅうのすし詰め状態。たくさんの人間の臭い、人間の話し声、車内アナウンス、一駅ごとの喧噪、揺れる電車の音。こんなにたくさんの音や人に囲まれているのに、まるで一人きりでいるみたいだった。

 職場に着くと、さっそく、呼びつけられて上司に怒られた。後ろからは同僚のくすくすとした笑い声。デスクに戻って仕事をするが、進捗ははかどらず、先輩や上司にはどやされる。社会人になってからの数ヶ月、溜息の回数が増えたと傘子は思った。


(私だけ社会の一部じゃないみたい。まるで私だけ、よその人間みたい……)

 残業をして、会社を出て、駅のホームに立ちながらぼんやりと考える。故郷が恋しかった。温かい家族と、気の置けない友人。ホームの先に立ち並ぶビル群が、異界の景色にみえた。

(あの夢、なんだったんだろ)

 疲れてるのかな。そう思っていると、少し離れたところに、スーツ姿の男の人が黄色い線の外側に立っているのをみつけた。横顔をみると、青白く、やつれているようにみえる。

(あの人、あんなに線路に近くて大丈夫かな。なんだか、ふらついてるし、顔色も悪いみたい)

電車がホームに滑り込んできた。瞬間、ブレーキ音があたりにけたたましく響き渡った。

「人が飛び込んだ!」

 あたりは急に騒然を極めた。女の人の叫び声が耳をつんざき、怒号が飛び交った。さっきの男の人が飛び込んで先頭車両にぶつかったのだ。傘子は思考が停止して、なにも言葉を浮かべることも、動くこともできなかった。

 こみ上げてくる吐き気を我慢しながら、騒然とする電車の先に目を向けた。血飛沫なのか、無機質なホームの一部が黒く染まっている。

目を疑った。電車の先頭車両の付近に、人の形をした真っ黒な影がうずくまっていて、その腕がにゅっと延びたかと思うと、線路の下からもうひとつの人型の黒い影を引っ張り上げたのだった。

 他の人間にはみえていないようだった。ただ慌ただしく、騒然と動き回っている。二つの黒い影は、飛び上がって、反対側のホームの屋根に飛び移ったかと思えば、そのままビル群の闇に消えて行ってしまった。

 傘子は目を疑ったまま、黒い影の消えた先にずっと視線を向けて、身体を震わすばかりで動かすことができなかった。


 部屋に戻りお風呂から上がって、パジャマに着替えてからパソコンが置いてある机に座り、ふぅっと息をついた。

 脳内では駅での騒然とした人々の動きがリフレインしている。

(あの人、死んじゃったんだよね……)

 なんで死んじゃったんだろ? そんなに辛かったのかな? なにから逃げたかったんだろ? でも、死ぬって……。

 気晴らしに、パソコンを起動してネットゲームを開いた。

 銃を持った兵士視点で、チームに分かれて殺し合いをする戦争ゲームだ。さすがにプレイする気にはなれず、観戦に徹した。

兵士たちの叫び声(ホームでの断末魔)――血飛沫の音(飛び跳ねた血)――銃声(電車のブレーキ音)、いちいち人身事故の様子が頭に浮かんでくる。

 半ば放心状態のまま、じっと勝敗の行く末を見守っていると妙なことに気がついた。一人だけ、ある地点から一歩も動いていないのに殺されていないプレイヤーがいる。

(なんだろう、この人。どうして動かないの?)

 最後までみていたが、結局そのプレイヤーは生き残ってしまった。

 名前には「yasu」と登録されていた。

 その後、傘子はゲームには参加せず、何度か観戦を繰り返したが、どのゲームでもyasuは最後まで生き残った――一歩も動くことなく。

(どうして? なんでこの人やられないんだろ?)

 他のプレイヤーも気づいているようで、何人かがyasuに向けてメッセージを送ったがなんの返信も見られなかった。

 結局、プレイヤーの間では、なにかしらのバグだろうという話しになったが、傘子は気になって仕方がなかった。だが、時計の針は十二時を過ぎようとしている。

(明日も仕事だ、そろそろ寝なくちゃあ)

 気乗りがしないまま、傘子は歯を磨いて布団に潜った。


――。


(また、ここだ……)

 暗闇――ものの輪郭だけが存在する世界。

 孤島のへりまで近づいて、また海を見下ろすと、昨日と同じように人間の歯車が底で回っていた。肉体の歯車、感情のない歯車。

 海の底で回る歯車をみていたら、傘子は突然やるせなくなって涙が出てきた。上手に社会で立ち回れない自分が、情けなくて、ふがいなくて、悲しかった。

(どうして私、上手にできないんだろう……なにひとつうまくいかなくて、こんなにダメな私なら、いっそ死んじゃった方が……)

 海の底で歯車として働けている人々の方が、誰かの役に立っている気がして、傘子は自分も歯車の一部になりたいと思ってしまった。歯車の回転に吸い込まれるように、すぅっと海に頭を寄せていくと、


――やめて、傘子ちゃん。その海には入らないで。


 と子供の声が聞こえてきた。

(子供の声?)

 何か動くものを感じて、ふと空を見上げてみると、また無数の黒い人影が跳ね回っていた。黒い影たちは、孤島から孤島へと飛び移ったかと思えば、海の上に着地をすると、腕をにゅっと伸ばして海の底につっこんだ。傘子は言葉を失った。身体が小刻みに震えた。黒い影が海の底から、黒い影を引き抜いていた。

(あの黒い影……電車のホームでみた影!)

 傘子は、自分の息が小刻みに震えていることに気がついた。

(どうしよう、ここは逃げ場がない。みつかったら、どうしよう……)

 すると、ひとつの黒い影が海の上でピタリと動きを止めて、頭をゆらゆらさせながら、こちらをみていた。傘子はますます息が荒くなった。

 その黒い影は他の影の合間を縫うように、飛び跳ねながら近づいてきた。

「イヤだ、やめて! こっちに来ないで!」

 傘子は後ろに手をつきながら後ずさりをしたが、孤島は小さく、すぐ後ろは海だった。黒い影はぴょんぴょんとはねながら、傘子の元へと近づいてきた。

 あと一歩の距離で、ぴたりと止まった。鼓動が早まる。

 黒い影はその首をにゅっと、傘子の顔の間近まで伸ばした。黒い影だと思っていたが、どちらかというと膜に近い。その奥に、鈍く光る二つのものをみつけた。

(目だ……青白い目)

 息を切らしながら、その目をみつめていると、黒い影は自らの顔の膜を引き剥がし、地面に投げ捨てた。どちゃ、という不快な音が耳に残った。

 初老の男性の顔。生気を宿していない目。だらんと垂れた唇が不慣れに動く。

「生キテル人間……オ前」

 黒い影は、マスクを剥がすように、その顔も顎から皮ごと引き剥がすと床に投げ捨てた。血飛沫が傘子に飛ぶ。どちゃ、という音が聞こえたかと思えば、目の前にはまた別の顔があった。若い女性の青白い顔、まるで生首のようなそれはまたしゃべり出した。

「アナタモ一緒ニ……コチラニオイデ。ソコハ辛イデショウ?」

 女性の顔も引き剥がされ、捨てられる。

(この顔……)

 その顔はホームで飛び込んだ男の人の顔だった。首が傾いて頬がたるんだ。

「感情ト感覚ヲナクシチャエバ、スベテ楽ニナルヨ。ココニイルトイウコトハ、キミモ……」

 男の顔が引きつったように笑うと、黒い影の腕が傘子ににゅっと伸びてきた。

(イヤだ! イヤだ! 怖いよ!)


 腕が届く寸前で目が覚めた。呼吸と鼓動が荒かった。

 携帯の着信音が鳴っていた。深夜の三時。

(この時間にだれ?)

 通話ボタンを押して、耳に押し当ててみたが受話器からはなにも聞こえない。気味が悪くなり電話を切った。

(でも、この着信音がなかったら私、目覚めてなかったかも)

 携帯のお知らせ欄に、新着メールが届いていた。戦争ゲームのプレイヤーからメッセージが来たら、通知が来るように設定していたのだった。開いてみると、

「僕が助けてあげる  だから怖がらないで」

 と書かれていた。不気味に思いながら送信者を確認すると「yasu」からだった。

(一歩も動かないで最後まで生き残ってた人だ……バグじゃなかったんだ。それにしてもさっきの夢……あの男の人、駅で飛び込んだ人だった。あの黒い影にひきずられたら、私、どうなっちゃってたんだろう)

 不安に駆られながらも、暗闇の中で携帯のライトをぼうっとみていたら、


ぴちゃぴちゃ ぴちゃぴちゃ ぴちゃぴちゃ ぴちゃぴちゃ……


 と外から、濡れた足を引きずるような音が聞こえてくる。

(昨日と同じ音だ。量が増えてる。気味が悪い音……)

 傘子ははっとした。夢の中で黒い影が近づいてくるときの足音と同じ音だった。

 気味が悪くなって、傘子は布団をかぶった。

 「yasu」という名前にも馴染みがある。

(そうだ、あの声。実家の裏に住んでたお兄ちゃんの声だ)

 

――。


 傘子がまだ、六歳か七歳、小学校に上がったかどうかもわからない幼い頃。

 傘子には兄がいて、兄はどちらかというとイタズラが好きな悪ガキグループの一人だった。幼い傘子を遊びの輪に入れず、仲間外れにされていた傘子は、いつも一人で外遊びをしていた。

「一人で遊んでるの? よかったら僕と一緒に遊ぼうよ」

 そう声をかけてくれたのは、裏の家に住む、三つほど年が上のやすしだった。靖は足が悪いため、いつも杖をつきながら歩いていて、生まれつき心臓も弱いため、近所の子供たちとは遊ばずいつも家の中にこもっている小太りの男の子だった。

「なにをして遊ぶの?」

 傘子がそう問いかけると、

「うちにゲームがあるから一緒にやろうよ」

 と家へと誘ってきた。ゲームは傘子の兄がいつも独占してしまって、意地悪でやらせてもらえなかったので、そう聞いて喜んで靖の家に向かった。

 傘子を連れてきたことに靖の母親ははじめ驚いたが、嬉しそうにゲームで遊ぶ二人にジュースやお菓子を運んできてくれた。

 靖はゲームが上手だった。幼くて、まだ上手にできない傘子を守りながら遊んでくれた。いつしか傘子は靖に信頼感と安心感を覚えるようになり、遊ぶことが日課になった。


 そんなある日、いつものように靖の家へ遊びに行くと、憔悴しきった母親が玄関口に出た。

「ごめんね、傘子ちゃん。靖、昨日の夜に急に具合を悪くして、今病院に泊まってるの。元気になったらまた遊んであげてね」

 幼いながら動揺したことを今でも覚えている。母親の影が差した表情で、一抹の不安を抱えながら家へと戻った。傘子は子供部屋に戻って、ベッドの淵に腰掛けると、靖が死んでしまうのではないかと思うと、怖くて、悲しくて寂しくて、全身を震わしながら泣いてしまった。夕食の準備をしていた母親が駆けつけてきて、事情を尋ねられたが、その頃の傘子には話す言葉がみつけられなかった。ただ、波のような、名前がわからない感情に押し流されて泣き続けるしかなかった。


――。


(もしかして、あの声。靖お兄ちゃんの声)

 布団の上には、携帯電話の液晶が光っている。メールの差出人の「yasu」という名前をぼんやりと眺めていた。

(じゃあ、このyasuも? まさか、靖お兄ちゃんはもう、十六年前に死んじゃったのに……)

外からは相変わらず、「ぴちゃん、ぴちゃん」という足音のようなものが聞こえてくる。往復しているようにも聞こえる。

 傘子は、不気味に感じながらも明日のことを考えて布団をかぶった。

(最後に会ったの、たしか病室だったよな。あの時、お兄ちゃん、苦しそうだった)

 入院してから二週間ほどたって、会いたがっているから来てほしいと、靖の母親にお願いをされ、お見舞いに行ったことがあった。うつろな目で、痩せ細った体をベッドに横たえる靖の姿をみて、傘子は言葉を失った。靖は、弱々しく掛け布団から手を出した。

 握手がしたいのだと傘子は感づいて、その手を握った。傘子の手には靖の手は大きかったけれど、筋肉が少し動いただけで、握ることもできないようだった。

「傘子ちゃんの手は小さいね……今まで遊んでくれてありがとう。傘子ちゃんのことは、僕が守るから……。だから、怖がらなくて大丈夫だからね」

 靖はそうつぶやくと、疲れたのか眠りに入ってしまった。傘子はその手を離すことができなかった。今別れたら、二度と会えないような気がした。母親に諭されて、やっと手を離した。靖の母親は目を伏せながら泣いていた。傘子も泣きたかったけれど、唇をかんで我慢したが、帰りの車の中で、大声で泣いてしまった。

 それから、二日後に、靖は息を引き取った。


 翌朝、またさらに身体が重く感じた。鬱々として、どんよりとした今日の曇り空のように心が晴れなかった。

 急いで準備をして外に出かけたが、雨の降った形跡はなかった。

(あの音、なんなんだろう。夢といい、気味が悪いな)

 電車に詰め込まれて、会社へと向かう。鉛の身体を運んでいる。

 会社のデスクにつくが、相変わらず、自分の居場所という感覚がない。デスクは無機質な孤島。同僚はみんな黒い影。オフィスの喧噪は、歯車の軋む音に聞こえる。

 もうすぐ昼休みにさしかかろうかというとき、部長に呼び出された。粘着質で、パワハラ気質で有名な上司だった。

――あの子、また呼び出されてるよ。

――ターゲットにされてかわいそう。

――部長のあの声だと、なかなか解放されそうにないわね。

 部長のデスクに向かうまでの間、同僚の女性のこそこそと話す声が聞こえる。いちいち気にしていたら持たないとわかっていても、耳に入れば、嫌でも心に触った。

「君ぃ。この報告書はなにかね? わかりずらいし、文脈もなにもあったもんじゃない」

「すみません」

「だいたいね、君みたいなゆとり世代の子らはたるんでて、やる気を全く感じない。いる価値がないのなら、代わりはいくらでもいるんだから、すぐにやめてもらった方が会社のためにもなるんだよ。ただでさえ君は暗いんだから、せめてこれぐらいはできるようにならないと」

 容赦のない言葉の暴力は、無防備で、応酬する力のない傘子に浴びせられ続けた。彼女はただ耐えるほかなかった。自分を否定する言葉を、本心でもないのに受け入れなければならない状況に心の感覚は消えていった。

 説教から解放されたのは昼休みが終わる二十分前。購買に行って、パンを一つ買って食堂で食べた。身体が重いのは変わらず、食欲もわかなかった。

 食堂のテレビでは天気予報が流れている。

「今日の夜から、明日の朝にかけて大雨の降る予報です。傘の忘れ物にお気をつけください……」

 時間通りに戻らなければ、また同僚になんていわれるかわからない。急いでパンを口に詰め込んで、傘子はオフィスに戻った。


 その日の午後は、仕事に集中できなかった。上司の言葉や、同僚の陰口が頭から離れなかった。

(私なんて、いないほうがいいのかな……)

 いっそのこと、黒い影に、ここではないどこかに連れて行ってもらいたい。

(私のことを誰も知らない、誰にも馬鹿にされず、必要とされることも居場所を探すことも必要のない世界。そんな世界があるなら、行ってしまいたいのに)

 仕事が終わらないで、結局、職場を後にしたのは九時を回ってからだった。予報通り外は土砂降りだった。

ホームに立って電車を待っている間、精神的な疲労で、頭がぼうっとしていた。

 間もなく電車がホームに来るアナウンスが流れた。遠くから、二つのライトが街の明かりを縫うように近づいてくる。

(あの電車に飛び込めば、楽になるのかな……)

 ふと、目の前のビルの屋上を見上げたら、たくさんの黒い人影が、フェンス越しに立ってこちらをみていた。

(そっか、私、呼ばれてたんだ。私が疲れてるから、選んでくれてたんだ)

 そう思うと、黄色い線の外側に向かって歩き出した。


――ダメだよ、傘子ちゃん。


 傘子は、はっと足を止めた。また子供の声だ。

「靖お兄ちゃん?」

 電車のホーンが鳴り響いて、思わず身体をビクッとさせた。今までみたこともない近い距離で、目の前を電車が通過している。電車は急行電車で、駅を通過して姿がみえなくなっていた。

(私、もう少しで死ぬところだった……)

 周りを見渡してみると、周りの人間が奇異な目をこちらに向けていた。

 傘子はいたたまれなくなり、急いでその場から離れた。



 途中でコンビニに寄って、家に戻ってから、遅い夕飯を食べたら気持ちが少し落ち着いた。

 着替えてから、パソコンの前に座って溜息をついた。

 自分が死のうとしていたことが信じられなかった。

 今までも、思春期特有の劣等感から「自殺」を意識したことはあったが、あんなにも「死」に近づいたことが今までなかった。まるで電車が「死」を引き連れて、傘子を巻き込もうとしていたみたいだった。

 雨が窓を激しく打ち付ける音に、部屋は満たされていた。

 ぼうぜんと、カーテンの閉められた窓をみていたら、


ぴちゃん ぴちゃん ぴちゃん ぴちゃん


 と激しい雨の音に混じってあの足音が聞こえてきた。

(まただ……また、増えてる)

 昨日が四人だとしたら、今日は十人ほどが歩いている。傘子は、恐怖で、息が詰まるのを感じた。夢で、あの黒い影が近づいてきた映像をはっきりと思い出していた。

 十人ほどだった足音は、だんだんと数を増してきた。十五人、二十人……傘子の住むアパートを周回するように歩いている。その度に、水浸しの足をひきずるような音が重なっていった。

 息はだんだんと上がってくる。脂汗が、ときどきひやりと冷たかった。

 突然、激しく窓をたたく音がした。傘子は思わず、ひっと叫び声をあげた。

「イルンデショウ? イルンデショウ? ……居場所モ存在スル理由モイラナイ世界ガホシインデショウ?」

 カーテン越しに声が聞こえてくる。

 夢で聞いた声。くぐもった、男とも女ともつかない声。

 涙があふれてきた。理由がわからなかった。ただ、声を聞いた瞬間に、どうしようもなく悲しくなって、自分が小さな存在に思えて仕方がなくなった。

「私、どこへ行けばいいの? 私の居場所はどこなの? 私は生きていていいの、存在していいの?」

「コッチヘオイデ……コッチヘ。苦シイノナラ、無理ニ生キナクテモイイ。死ンダラ、楽ニナレルヨ」

「死んだら、楽になれるの? 怖くない? 苦しくない?」

「苦シクナイヨ。連レテイッテアゲル」

 傘子は、誘われるままに立ち上がると、吸い寄せられるように玄関から外へと出てしまった。


 激しい雨の音が、街の音をかき消していた。

 傘子の部屋は一階で、すぐ前が車道になっている。黒い人影の濡れた足音が、唯一、雨の音に混じった。彼らは、傘子をみつけると、ずるずると足を引きずりながら周りを囲みだした。大量の蛙の死体が道ばたに溢れているような、生臭さが雨に混じっていた。

 じりじりと黒い影の輪が狭まってくる。傘子はずぶ濡れになるのも気にしないで、ただじっとそこに立っていた。

(生き続ける理由も……居場所を気にする必要もなくなるのなら、それもいいかも……)

 周りの人影たちは、顔の黒い膜を破り捨てて、その下の顔をさらけ出した。それらは、年代も性別も違うけれど、どれも生気をなくした生首同然の顔だった。

「楽ニシテアゲル……モウ、苦シマナクテイイカラネ」

「死ネバイインダヨ、ソレデスベテガ解決スル」

「ソウダ、死ネバイイ。死ヌンダ」

 傘子は涙を流していたけれど、その涙でさえ、雨にかき消されてしまった。

「どうやって、死ぬの? 苦しくない?」

「今日ハ雨ダカラ、コノママ私タチト一緒ニイタライイ。一緒ナラ怖クナイシ、苦シクナイヨ」

 黒い影が近づいてくる度に、力が抜けていき、ついに両膝を地面につけてくずおれた。

「だめだよ、傘子ちゃん。諦めたらダメだ」

 また、あの子供の声が聞こえた。だがその声は、今までの頭に直接響いてくる声ではなくて、黒い人影のわだかまりの中から聞こえてきた。

「靖……お兄ちゃん?」

 黒い人影のわだかまりをかきわけて、子供が一人顔を出した。

「どうして、ここに? 靖お兄ちゃん、死んでしまったはずなのに」

 靖と呼ばれた少年は、近くまで寄ると傘子の手をとった。

「あんなに小さい手だったのに、今では傘子ちゃんの手の方が大きくなっちゃったね」

 と優しく微笑みかけた。傘子は、その手を握りながら最後に靖の手を握った感触を思い出すと、さらに涙が止まらなくなった。

「だって…靖お兄ちゃん、死んじゃうんだもん。傘子、一人だけ大きくなっちゃったよ」

「傘子ちゃん、ずっと頑張ってたね。寂しいことや辛いこともたくさんあったと思うけど、本当によく頑張ったよ」

 傘子は涙を流しながら、小さく首を振った。

「でも、靖お兄ちゃん。傘子のこと誰もみてくれないの。誰も、傘子のこと必要としてくれないの。私なんて、なにもできないから……私なんて、いらないから」

 すると握られていた手が、ぎゅっと強くなった。

「そんなこといわないで。僕が一人で遊んでいたのに、傘子ちゃんはそばにいてずっと遊んでくれたじゃないか。少なくとも僕にとって傘子ちゃんは必要な人間だった。……僕はもういなくなってしまったけれど、傘子ちゃんには、人を幸せにする力がある。傘子ちゃんは、僕を幸せにしてくれた。だから、死ぬなんて選ばないで。誰かを幸せにしてあげて。そして、傘子ちゃんも幸せになって」

「靖お兄ちゃん……」

「黒い影を追い払う方法は、生きたいと強く思うこと。生きたいと強く。傘子ちゃんならできるよ。傘子ちゃんなら、人も自分も幸せにできる。僕を幸せにしたみたいに」

「靖お兄ちゃん、私生きてていいのかな。幸せになれるかな? 傘子のこと、ちゃんとみてくれる人なんているかな」

「いるよ、絶対にいる。それはまだわからないかもしれないけど、きっとわかる日が来る。だからそれを信じて、ずっと生き続ければ傘子ちゃんは幸せになれるよ」

 靖は優しい眼差しで傘子のことをじっとみた。

 それに応えるように、傘子は小さくうなずいた。

「ありがとう、靖お兄ちゃん。私、もう少し頑張ってみる。もっともっと生きて、人を幸せにできる人になって、自分も幸せになる」

 傘子がそう口にすると、黒い影たちは吸い込まれるように地面に溶けていった。傘子が見渡して、それを確かめているうちに、目の前にいた靖の姿もいつの間にか消えてしまっていた。

(靖お兄ちゃん……本当に私のこと、守ってくれていたんだ。ありがとう……)

 激しい雨に打たれながら、震える体で、しばらく靖がいた空間を眺めていた。


 傘子は部屋に戻って、冷えた体をシャワーで温めた。温水が、骨身に染み渡るようだった。

 そうしながら、ぼんやりと先ほどまで起きていた場面を頭に思い浮かべていた。

 黒い影に宿る生首の人間は、生きることに絶望をして自ら死を選んでしまったのだろうか。

 そんなことを考えながら、傘子はじっと手をみた。そこには、少し前まで握っていた靖の感触がまだ残っていた。

(靖お兄ちゃんは、病気に苦しみながらも最後まで生き残った……私は? 私も、自分である傘子のことを絶対に諦めない。生きることを途中でやめたりしないから。だから、もう安心して大丈夫だからね、靖お兄ちゃん)

 傘子はそうして、自分の肌を手でなぞるようにして、肉体があることを確かめた。これから生き続ける決意を、決して諦めないと心に誓いながら。

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傘子のこと 【短編】 カブ @kabu0210

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