後編-近里彩歌は篠浦眞穂と味わいたい

「どうして……ソッコー帰ったんじゃ、」


 とっくに下校したものと思っていた。


 鉄の風紀委員たる篠浦が部活に入っていないことはクラスの誰もが知っている事実で、その風紀委員としての仕事にしたって放課後までは残っていないはずだったから。


 けれども、眼前の女は見間違えようもなく篠浦で。


 まさかよりにもよって彼女が現れるなど予想だにしなかった彩歌は、ただただ目を瞬かせることしかできない。


「どうもこうも、クラスの下駄箱を見たらアナタの外履きがあったから探していたんじゃないですか。部活動でもないのにいつまでも居残っているなんて、生徒として好ましくない、わ……」


 そこで篠浦は口をつぐんだ。どこまでもまっすぐなその視線が、彩歌の顔面をぴたりと捉えている。


「あなた、泣いていたの?」


「やっ……こ、これは違くて!」


 不覚にも程があった。よりによって篠浦に見られるとは。


 せっかく篠浦が現れたのだからラッキーと思うべきではないか、というのはすべて終わってから振り返ったときの後知恵に過ぎない。まさしく事の渦中にある彩歌の脳ミソはどこまでもヘタレで、この期に及んでごまかすことを選ぼうとする。


 目元を拭おうと上げた手首を、篠浦に掴まれた。


「袖で拭くのはやめなさい。制服が汚れます」


 篠浦は半分呆れたような、けれども半分気遣うような表情でハンカチを差し出してくる。


 彼女の心根を象徴するかのような、うっすら青みがかった白い布。


 受け取って左右の目元を擦る。再びハンカチに視線を戻してみると、涙で崩れたパウダーとファンデーションがハンカチにくっきりと付着していた。


 篠浦に感謝だ。たしかにこれは制服につくとまずい。


「サンキュー。洗って返すよ」


「そうしてください」


 打てば響くような篠浦の返事。口調こそにべもなかったが、瞳には相変わらずこちらをおもんばかるような色が宿っている。


 篠浦はそのまま静かに彩歌の隣に並ぶと、落下防止の金網に背中を預けた。


「――で、何があったんです? 私でよければ聞きますよ」


「え」


「それはもちろん、アナタの素行には手を焼いてますが……だからといって泣いてるクラスメイトを放って『それじゃさようなら』ってわけにはいかないでしょう。……まあ、だいたいの事情は想像つきますけど」


 最後の一言を放ったとき、篠浦の視線は彩歌の手元へと向けられていた。ハンカチを借りていなければ汚れてしまっていたであろう右手は、ブラウンと赤の包装紙に包まれた箱を握りしめている。


 篠浦にあげるつもりのチョコレートの箱だった。


「とりあえずチョコの持ち込みは置いておくとして。まわりくどい表現が苦手だからストレートな言い方になってしまうけれど……つまり、その。失恋したのよね?」


「あ、いや――」


 誤解だ。


 男子を呼び出してフラれたと推測されたのだろうが、誰かを呼び出す度胸がもし彩歌にあったなら、篠浦こそがもっと早くに屋上まで来ていたはずなのだ。


 失恋どころかスタートラインにすらまだ立っていない。


 篠浦は今まさにそばにいて、だから踏み出すことは簡単なはずで、なのに彩歌の臆病な心は最後の最後まで予防線を欲して。


「これは……関係、ない。朝も話したろ、今は友チョコってのがあって女どうしでも贈るのが普通だって。だからこれも、マリとかチサと交換してたやつの残りだよ」


 出てきた言葉は、またしても逃げの一手で。


「嘘ね」


 そんな虚飾を、篠浦はただの一言で切って捨てる。


「そんなに丁寧にラッピングしてある箱、朝広げてた中にはなかったじゃない」


「うぐ」


「特別な人にあげるチョコレートだったんでしょう? それをまだ持っているっていうことは、待ち人が来なかったか、来たけど受け取ってもらえなかったか……違うかしら?」


 違う。


 待ち人は来たのだ。


 受け取ってもらえるかどうかがわからなくて怖いのだ。


 だから。


「……バレちゃあ仕方ね~なあ。たしかにこれ、友チョコとして持ってきたんじゃないんだ」


 もうどうにでもなれ、と思った。


「これは、自分用に持ってきたやつだあっ!」


 彩歌は冬の夕空をめがけて叫ぶ。勢いに任せて包装紙を破り、そのまま箱を開けて中身を取り出す。


 湯煎で溶かして型に流して固めただけの、けれども手作りには違いない、ブラウンとホワイトのマーブル模様のチョコレート。


 ハートの形をしたそれを、彩歌は自らの口へと放り込んだ。


「~~~~っ!!」


 舌の先、どころの騒ぎではなかった。口の中いっぱいにミルクチョコレート特有の甘さが充満して、いくらなんでも一口でいくのは無理があったかと痛感する。


 しかし、後悔はない。


 とにかくチョコの処分は済んだのだ。篠浦に渡すことはできなくなってしまったけれど、きっぱり拒絶されることもなくなった。


 これでよかったのだ。


 自分と篠浦は女どうしで、しかもギャルと風紀委員だ。告白したって断られる確率のほうが高いに決まっているではないか。


 玉砕するくらいなら、想いを秘めたままであるほうが――篠浦のことを好きでいられるままのほうがずっといい。


 明瞭さを取り戻しつつあった視界が、新たに湧いた涙でまたしても滲んで――


「……


 肺の底から吐き出されたような、深い、それはそれは深い篠浦の嘆息が耳に届く。


「近里さんが悪いんですよ……隠し事なんかするから」


 ふわり、と。彩歌は肌で風を感じた。


 篠浦の美貌が視界にアップで映し出される。はらりと揺れる長い髪の毛が頬をかすめたのと同時、ほのかな芳香が鼻腔をくすぐった。清涼感のある匂い。お堅い篠浦が香水をつけているはずはないから、たぶん彼女が使っているシャンプーの匂いだ。


 左右の手首に圧力と温もり。篠浦の両手に握り込まれたのだと彩歌が理解した直後、


「ん……っ」


「へっ? ――んむ、うぅぅっ!?」


 唇に押しつけられる、柔らかい感触。


 瞬く間に脳ミソからあらゆる思考が蒸発して、いかなる反応もできなくなった。


 惑う彩歌の口を割りひらいて、細い舌が侵入してくる。中途半端に開きっぱなしだった歯など何の防壁にもならなくて、熱く湿った篠浦の舌が彩歌のそれを探り当てた。


 彩歌の舌の上で蕩けるチョコレートの滓を、篠浦が丹念に舐め取ってゆく。たぶん慣れてはいないのだろう、経験ゼロの彩歌にも何となくわかる程度にはぎこちない動きだ。


 けれど。


 生き物のようにうねる舌どうしの絡む感触も、混じり合ってどちらのものか判別できなくなってしまった唾液の粘つきも、ときおり漏れる吐息から伝わってくる体温も、その全てが。


 チョコレートの心地よい甘さに溶けて、彩歌の脳幹を痺れさせる。


 実際には長くても十秒かそこらだったはずの時間は、彩歌には無限にも等しく感じられた。


 篠浦が舌の動きを緩やかに止めて、顔を離した。


「……たしかに受け取りました、バレンタインチョコ」


「な、な――」


 かすかに口元に付着した唾液の跡をぺろりと舐める篠浦。その舌の様子が奇妙に艶めかしいものに感じられて、彩歌はもはや言葉もない。


 脳ミソが息を吹き返す。


 結局のところ、篠浦にはすべてお見通しだったのだと思う。今日何度となく彩歌が目線を送っていたことも、なんなら今日に限った話ではなかったことも。


 だから、想いへの答え合わせは無用だった。


「あ……あのさ、篠浦」


「何ですか」


「アタシ、初めてだったんだけど」


「私だってそうですよ。ここまでさせた責任を取ってください」


「理不尽!? された側のセリフだろフツー」


「私だってやったことの責任は取ります。いろんなことを総合するに、どうやらあなたの度重なる校則違反行為は私にも原因があったと解釈せざるを得ないようですし」


「……校則っていったらさ、不純イセーコーユーは禁止なんじゃなかったっけ? 今みたいなこと、いいの?」


「私と近里さんはでしょう。規定に抵触することはあり得ません」


 そういう問題なのだろうか。


 いまいち納得のいかない彩歌だが、目の前の篠浦は現に「何を当たり前のことを尋ねるんだ」みたいな表情を浮かべている。


 優等生の篠浦の言うことだ、実際そうなのだろう。たとえこの場で生徒手帳を捲ってみても、校則の一覧には「男女交際」にまつわる条文しか書かれていないに違いない。


 風紀の鬼は、校則の穴にも詳しかったのだ。


「んじゃ、いいんだな? アタシだって本気にしちゃうからな? ……ふ、ふつつか者だけど……よろしく篠浦」


「ええ、こちらこそ――さん」


 薄く微笑む篠浦の頬がほんのり色づいているのは、きっと西日のせいではないはずだ。


 胸の内で幸せが膨れ上がるのを感じて、彩歌は思い人の懐へと飛び込んだ。至近から篠浦を振り仰ぎ、再び近づいてくる彼女の顔を網膜に焼きつけてそっと瞼を伏せる。


 はじめてはチョコレートの味だった。


 二回目のキスは、いったいどんな味がするんだろうか。

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はじめてはチョコレートの味 スガワラヒロ @sugawarahiro

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