朱
micco
朱
金魚とは、ひと
夕食を摂れば読書に没頭するのが常で、居間を暗くし机上の小さな電灯を点け揺り椅子に掛ける。神無月ともなれば夜の訪れは殊更早く、薄ぼんやりとした室内で灯を反射させるのは見開いた
私が頁に視線を戻し欠けた時、視界の端で件の朱が大きく揺れた気がした。オヤ今し方迄寝ていたはず、と再び見遣る。清潔な鉢の水は澄み切って居り
其時は金魚も寝惚る事があるのだろうと気にも留めず次の頁に目を落とした。
霜月に入ると其れは木曜の夜の殆ど同じ時分に起こると判った。
其の異様な金魚の様子がこの時間
三度目の夜の事。何かまともな物に縋りたいと時計を初めて持込んだ時の事だった。先ず
くるりくるりと速度を上げる朱。私は湧上がる恐怖に気づかない振りをし
然し
アァ気が触れる──! と思う刹那、喉に刺さる様な冷気が消え去った。睫毛の間の灯に眩しく目蓋を持上げた時には、点滅は収まり金魚が悠揚と鉢を泳いで居た。
恐怖の去った気配にドッと額から汗が噴出した。其れを手で拭い私は
師走に入り夕食後の読書は止めてしまおうかと思い
此日遂に私は今夜又其れが起これば金輪際此処で読書はせぬ、と決心して揺り椅子に掛けた。外の曜日の読書も微かな物音に怯えてしまう様になって居たのだ。金魚に餌を遣るのも億劫になって居た。
冬の自然な寒さで吐く息が白く濁り、頁を捲る指先が
──お出ましだ。口を付けない儘ミルクに薄ら膜が張った頃、ひぅと喉が冷えた。次は朱の回転。壊れた玩具の様に只回る金魚。時計は未だまともに回って居る。暫くイヤずっと時計を見て居る訳で無いから時間は判然としないが、兎角待つと灯が点滅し始めた。チカチカチカチカチカチカ、灼く様な白黒の点滅から目を逸らし息を詰めた。頁は湿って跡がついている。イヤ此は先週の跡か。目を逸らした先には狂った金魚が此方もチカチカチカチカと鱗を光らせ何処を向いても目眩をもよおす有様だ。私はとうとう目を閉じた。
但し今日で最後かと思えば人間も僅か余裕が出来るらしかった。
サア後は収まるのを待つ
目蓋を挟んでも未だ点滅の止まぬ気配と凍えそうな程冷え続ける部屋にカチカチカチカチと私の歯は鳴り続けた。アァやっと気が触れそうだ、と脳天に痺れが走った時、突如灯が消えた。初め其れは判然としなかった。何しろ目を開けたか閉じた儘か判らぬ闇の中で、私の目は点滅を反芻し続けて居たからだ。但し、定かで無い視界の隅から何かの気配が近付いて来る事は判った。アァアレが此処に来る──!
高まる恐怖で思わず目をくゎ、と見開いた時、ミルクの水面がぴちょりと弾けた。揺れたのでは無くまるで何かが一口舐めた様に雫を飛散らせたのだ。間髪入れず右手の甲につぅ、と何かが触れて行った。
私は不思議な事に点滅する視界の中でその飛散った丸い雫達の再びミルクに帰る様子がはっきりと視え、そしてヒィ、と恐怖の所為で
然し次の瞬間、其れは唐突に私の遠い記憶を揺すぶった。私は子供の時分猫を一度だけ飼った事があった。小さな捨てられた猫を二晩だけ納屋に匿ったのだ。其の猫は私の用意したミルクを舐め、手に甘えて躯を
──アァ猫だ!
自らの閃きに手を打ちたい気分だった。間違い無い。金魚が幽霊を感じ取るかは判らぬけれども、猫の気配ならば本能じみた危機を覚えても無理は無かろう。ミルクを舐めるのも猫しかあるまい。アァ其れならば良い。私は読書も続けられる、と満足した。然うと判れば何も恐ろしく感じなく成るから不思議であった。私は心底安堵し揺り椅子に何日か振りに深く腰掛けた。ぞっと汗が周囲の気温で冷やされ身震いをした。
灯がジジ、と息を吹き返して鉢の金魚が緩く回る様子を見れば
師走も中頃とは
然して彼女の愛撫は少しずつ長くなる様だった。今日は背の中頃まで届いた次は肩に届くだろうか、と彼女の去った暗い部屋で
一切の闇と何の物音も聞こえぬ部屋で待ち兼ねた事は彼女を喜ばせた様だった。
普段は暗がりに浮かぶ様な鉢を懸命に回る金魚も、青白く文字を照らす灯も見えない所為か、事は性急だった。アァ何故此迄彼女と二人きりにならなかったのだろう、と私は後悔した。今夜の彼女はミルクに見向きもせず触れて来た。
予告なくつぅ、と指先を痺れさせて腕を脇腹を、背をなぞられた。なぞられた皮膚からゾクリと愉快とも苦痛ともつかぬ酷い快感が這い上がる。まるで自慰に興じて居る様だ、と私は腰を揺らした。猫に気を遣りそうになる等、と我
然し猫は勿体つけながら又背を撫でる。丁度心臓の裏側か。顔を擦りつけて居るのかと目を瞑って愛おしい妄想に
ぬら。
首筋を頬を耳を食まれ丁寧に舐め取られた。已に私は目を開け居るのか瞑って居るのか平衡感覚すら失って居た。細く薄い舌と唇の愛撫に狂いそうな快感に身を委ねた。アァと私が声を出したが最後耳朶を強く食み彼女は去った様だった。
全身の毛穴が開き闇が抜けて行く粟立つ感覚に翻弄され
アァ、アレは私の知る猫の舌では無かった――! 其の発想に私の歯は再び根の合わぬ音を立て始める。猫で無いなら何か。ぬら、と耳朶に残ったアレの唾液が夜の空気に凍るが如く、恐怖が私の血を凍らせた。今更に得体の知れない物に身を委ねていた己の浅慮にかち合わぬ歯の隙間から唾が垂れる。
然しアレは何かと確かめる
悪寒と幽霊がなぞった躯の右側が痛みで再び痺れ始める。何故か快楽の一欠片も無い苦痛が身の内から生じ、意識が歪んでいく。全く揺らがぬ灯の下、酷い痛みに視界すらチカチカチカイヤ此は歯の音か怖いのかアァ違う点滅して居る。私が目を閉じ欠けた時だった。
――唐突に部屋の戸が開かれた。
橙の長方形で入り込んだ光に直ぐさま、私を襲っていた恐慌は嘘の様に霧消した。同時に黒いぐにゃりとした何かが喧しい音を出し部屋に入り込んだ。
「アァ貴方ここに居らしたンですね」「アラ耳の包帯が取欠けてるじゃ有りませンか、血が又」
私は邪悪な化け物の登場に、突如として湧いた憤慨を以て出て行け! と手を振回した。けたたましい音とくぐもった音が左右の耳から鼓膜に反響する。机のカップが床に転げ落ちミルクが昨日の本をしたたか濡らしていく。紙の乳臭く染みる匂いが橙の影を舞った。然し其の黒い
「アァ此腐ってるンじゃ有りませンか!」
車厘の手に嵌められた指環がチカ、と灯を反射し私の目を灼いた。ふと見下ろせば私の左手にも揃いの其れが嵌められて居り、恐慌に陥る。私は立上がり喚き散らすが、車厘は其処等中を勝手に歩き回る。
「金魚鉢もマァこんなに曇って酷い。マァ臭い」
私は今直ぐ出て行け! と左腕を出鱈目に振るい戸を乱暴に閉めた。振回した拳が寸前、車厘をぐにゃと打ち、気色悪い感触に吐き気が起こった。何か喚いて車厘は居なくなった。
漸く静かになったが、息が切れ泥の様に重い躯に辟易する。突然覚束無くなった足に
まさか又彼女が来たのか。寒い。チカチカチカチカチカチカチカチカチ――ァア! 気が触れる!
ひぅ、と凍える闇の気配が舞い戻った。冷や汗を急速に乾かし躯中の痛みすら遠のかせた。然う成れば躯はぞくり、と期待で揺れた。アァ彼女が戻って来て呉れた! 感激と興奮で椅子から身を起こした時、ぬら、と耳をしゃぶり取る如く私の耳は舐め食まれた。激しい愛撫の感覚が私の意識を塗り潰し、ひと息毎に淫靡な心地よさに朦朧としていく。――然うか先程の事は一切合切夢であったのだろう。然うか、彼女はずっと私の傍に居てくれたのだ!
最早、彼女が何者か等と
全てを其の手に委ね目を閉じ欠ける合間、鉢に浮いた鱗がチカと鈍く照った。
(了)
朱 micco @micco-s
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます