神崎ひかげVSイタチザメ ジョーズ・イン・沖縄

武州人也

炸裂!限界酔拳! 沖縄のジョーズを駆逐せよ!

「アクーラ、頼んだよ。全てはお前にかかっている」


 夕暮れ時の波打ち際で、一人の少年が海を眺めていた。辺りにはさざ波の音と海鳥の鳴き声ばかりが響いており、真っ赤な太陽の光が少年の白い頬を照らしている。

 

「神崎ひかげ……この沖縄の海がキミの墓場だ」


 おかっぱ頭をした眉目秀麗の美少年は、まるでよからぬことを企んでるような悪い笑みをその顔に浮かべていた。


***


「すごーい! 海青い!」


 ダイバースーツ姿の藤原は、岩崖の下のダイビングポイントの前ではしゃいでいた。青い空の下に広がる沖縄の美しい海は、彼女を興奮させるに十分なものであった。


「やっぱ来てよかったなぁ……ひかげちゃん、誘ってくれてありがとう」

「いいやぁ……それほろれもそれほどでもぉ……」

「ひかげちゃん……まだお酒抜けてないんじゃない……?」


 藤原を沖縄旅行に誘った神崎ひかげは、昨晩もホテルの一室でストロング系飲料を体に流し込んでいた。前の会社で心身ともに限界であった頃に身に着けた飲酒の癖は、ようやく平穏を取り戻した今となっても抜けていなかったのである。そのせいで、日を跨いだこの日も神崎の酔いは醒め切っていなかった。


「いいじゃないのよぉタマちゃん……」

「もう……あれだけやめなよって言ったのに……」


 舌の回りが明らかに悪くなっている神崎に、藤原は呆れ顔で肩を貸したのであった。


 二人はダイビングガイドに導かれて、海中へと入った。ガイドは二人より少し上の、三十がらみの女であった。

 耳抜きをしながら、二人は陸地を離れ、より深く潜っていく。ガイドはハンドサインで「おいで、おいで」をしている。

 ガイドについていくと、やがて様々な魚が姿を現した。南国というだけあって、明るい色のカラフルな魚が多く見られた。非日常の空間が、今まさに二人を取り巻いていた。まだアルコールが抜けきっていない神崎も、この絶景と隣の藤原の喜び様を見て、沖縄に来てよかったと心から思った。

 ガイドにソーセージを手渡されると、魚たちが大挙して押し寄せてきて、手に持ったソーセージをついばんでいった。隣の藤原を見てみると、どうやらびっくりしてソーセージを手放してしまったようで、水中に浮かんだソーセージに魚たちが群がってつついていた。そんな藤原を見た神崎は、可愛いなぁ、と思いながら、手元のソーセージを少しずつちぎって魚にあげていた。後でこのことでタマちゃん(藤原のあだ名である)をからかってやろう、そうしたイタズラな心を抱きながら……

 ふと下の方を見ると、見たこともない巨大なナマコが横たわっていた。大きさはざっくり見て四十センチメートルはありそうだ。普段の神崎なら気味が悪いと嫌ったであろうが、この時は不思議なもんだなぁと感じたのであった。


 その時、急に、集まっていた魚たちがばぁっとかき分けられるようにして散っていった。突然のことで、神崎は何事かとびっくりしてしまった。

 ガイドの方を見ると、ガイドは握り手を作っていた。このサインは確か……危ない生き物が近くにいる時のサインだ。

 沖縄の海にはウミヘビやオニダルマオコゼ、ヒョウモンダコなどの人を死に至らしめる強い毒を持つ生物が少なくない。勿論それらによって命を落とす人間は少ないのだが、まったくいないわけではない。対処を間違えば呆気なくあの世行きになってしまう。

 その危険生物は、三人のすぐ側に近づいてきていた。


 ――サメ!


 現れたのは、凄まじい体格のサメであった。その鼻先は四角く、前にテレビ番組で見たホホジロザメのように尖ってはいない。どこかぼーっとしているような腑抜けた顔であり、「ジョーズ」のホホジロザメのようなおどろおどろしい怖さはないものの、それでも巨大なサメが近寄ってくる恐怖は察するに余りあるものがある。


 イタチザメ。英語名タイガーシャーク。それが、この巨大ザメの名前である。メジロザメ科のこのサメは成魚ともなれば全長が四メートルを超えることも珍しくなく、ホホジロザメに匹敵する体格を誇る。まさしく沖縄の海の王者とも言うべきサメだ。

 そして、このサメの怖いところは、好奇心旺盛で何でも口に入れてしまうことである。本種は自分より小さな甲殻類や魚類、爬虫類、海鳥、哺乳類など様々な動物を捕食するが、とにかく目についた手頃な大きさの物体は何でも食べてしまうため、生きた獲物のみならず死肉も食べる上に、人間の捨てた金属片やタイヤなどが胃袋から見つかったこともある。そうした悪食の習性から、「ヒレのついたゴミ箱」などというあだ名がつけられている。

 当然、人間も彼らにとっては手頃な獲物に過ぎない。沿岸に近寄ってくることも少なくないため、ホホジロザメやオオメジロザメなどと並んでサメの仲間で最も危険な種類とされている。


 その南海の王者が、白目を剥いた。神崎は知る由もなかったが、イタチザメが白目を剥く行動にはきちんと意味がある。一部のサメの目には瞬膜というものがあり、攻撃を仕掛ける前にこれで目を覆うことで、敵の反撃から弱点の目を守るのである。つまり、イタチザメが白目を剥くのは攻撃の合図なのだ。

 サメの口が、がばりと大きく開く。それを目の前にしたガイドは、慌てて浮上しようとした。しかし、海をホームグラウンドとするサメを相手に陸生哺乳類が逃げられるはずもない。サメはガイドに急接近し、その下半身をがっちりと咥えた。

 その時の光景は、悪い意味で神崎にとって一生涯忘れられそうにないものとなった。海中にまき散らされる赤い血潮、呑み込まれてゆくガイド……スプラッター映画のような凄惨な現場がそこにはあった。海の中でサメに襲われるとはこういうことだ……ということを、まざまざと見せつけられたのである。


 ――逃げなきゃ!


 神崎は藤原の手を強く掴んで泳ぎ出した。ガイドはもう助からないだろう。だから、せめて自分たち二人だけでもあのサメから逃げなければ……神崎は酔いでぼんやりした頭を必死に働かせながら、陸地を目指して泳いでいた。

 どれぐらい引き離せただろうか。きっと人一人を食べきるまでには時間がかかるだろうから、上手く撒けたのではないか……そう願った神崎は、ふと背後を見た。


 そこには、猛烈なスピードで神崎と藤原を追いかけてきたイタチザメの姿があった。


 ――もう来た!


 逃げきれない……酔った頭なりにそう判断した神崎の行動は早かった。助かる助からぬはイチかバチか、なら、ここで一戦交えてやろう。ともすれば、自分は死んでもタマちゃんだけは助かるやも知れぬ。神崎は自分を奮い立たせ、拳を固く握りしめてくるりとイタチザメと向き合った。

 改めてみると、本当に大きいイタチザメであった。目測だが、五メートルは超えているのではなかろうか。まさしく海の王者たる風格を、この軟骨魚類は備えている。前のヨコヅナイワシといい、自分は大きな魚類に何かと縁がある……神崎は自らの数奇な運命を自嘲した。


 南海の王者と向かい合う女一匹、海というアウェーグラウンドにあって、神崎は不思議と落ち着いていられた。酔いが抜けきっていないことが、却って彼女から恐怖心を取り除いてくれた。


 ――限界酔拳!


 ゴーグルの中の神崎の目が、かっと見開かれる。それとほぼ時を同じくして、イタチザメの瞬膜が閉じ、鋭い歯の並んだ大きな口ががばりと開く。

 迷いのない神崎の拳が繰り出された。その拳は、イタチザメの鋭い牙が神崎の体を捉える前に、その鼻っ面を思い切りぶっ叩いた。

 

 この攻撃に、サメは大きくのけ反った。まさに痛恨の一撃であった。

 実は、サメの鼻先にはロレンチーニ器官という、生物の出す微弱な電気信号を感知する感覚器官が備わっている。この器官は繊細なため、サメは鼻を攻撃されるのを嫌がるのだ。

 イタチザメは今までの威勢がまるで嘘のように、体をくねらせて尾びれを向け、そのまま沖合の方へと逃げ出してしまった。


 限界飲兵衛のんべえOL神崎ひかげが、南海の絶対王者イタチザメを返り討ちにした瞬間であった。


***


「ちぃ……失敗か……」


 レンタカーに乗って去っていく神崎と藤原を、憎々し気に見つめるおかっぱ頭の少年の姿があった。太陽も恥じらうほどに美しいその少年の頬を、夕暮れの生暖かい風が吹いていた。

 彼の名前は尾八原おやわら充治じゅうじ。神崎ひかげの暗殺を目論む秘密結社「青蜥蜴あおとかげ」の幹部であった。もうすでに齢百二十歳を超えており、玄孫やしゃごも生まれている身であるが、その容姿は少年のように若く瑞々しい。加えて声までもが声変わり前のソプラノボイスである。

 彼は「青蜥蜴」に属する科学者であり、組織から自らの成長を止める薬の開発を援助してもらう代わりに組織に協力していた。そして次第に組織の中核へと入り込み、今ではすっかり「青蜥蜴」の重鎮となっている。

 あのイタチザメは、裏社会における危険人物リスト第一種に記載される神崎ひかげを討つために、充治がこの海に放したものであった。アクーラと呼んで大事に育てていたこのサメこそが、対神崎の必殺兵器であったのだ。さしもの彼女も海中というアウェーグラウンドで自分の数倍の大きさの敵を相手にするのは難しかろう……そう考えての策であったが、予想に反して呆気なく撃退されてしまったのである。彼の悔しさは察して然るべきものがあろう。


「まぁいい、まだ刺客はいる。神崎め、次こそは……」


 この美少年老爺は目を細めて歯をぎりぎり噛み締め、その麗しい顔を悔恨の念に染めていた。


***


「また飲むのぉ? 昨日も飲んで吐いてたじゃんやめなって」

「いいじゃんよぉタマちゃん。あれだけのことがあった後なんだから。祝杯だよ祝杯」


 その夜、沖縄国際通りの飲み屋で、神崎はまたしてもアルコールに浸っていた。彼女が飲んでいたのは地元製造のハブ酒である。ハブ酒のような強い酒を、神崎はまるで水のようにあおっていた。

 そうして退店するころには、神崎の足取りはすっかり覚束ないものになっていた。藤原はため息をつきながら、千鳥足の彼女に肩を貸して市街地を歩いていた。


 途中、二人は橋に差し掛かった。神崎は欄干らんかんに駆け寄り、その下の川に向かって勢いよく胃の中のものをぶちまけた。


「ねぇねぇ、見れよみてよあれ、サメだよサメ」

「何? またサメとか勘弁してよ……第一川にサメなんかいるわけ……」


 藤原は相変わらずの呆れ顔で、神崎の指差す川の水面をちらと見やった。


「本当だ……サメ……」

れしょでしょ?」


 水面からは三角の背びれが突き出ており、その下には流線型の体がくねっていた。さすがにダイビングで遭遇したイタチザメほどの大きさではなく、せいぜい一メートル程度であろうが、神崎の言う通り、それは紛れもなくサメであった。

 実は、沖縄の河川にはサメが姿を現すことがある。オオメジロザメと呼ばれる種類がそれだ。成魚は全長三メートルを超えるほどになり、気性も荒く、人間にとっても危険なサメである。しかも、このサメは淡水の中でも行動でき、外国では河川を三千キロメートル遡上した例や湖で発見された例などが確認されている。

 もっとも、国際通りまで遡上してくるオオメジロザメは若い小型の個体に限られる。今神崎が発見したオオメジロザメも、その大きさは一メートルぐらいなものだ。


「おらぁ、かかってこいサメ公ぅ」


 神崎は川の下のサメ目掛けてシャドーボクシングを始めた。それを見ていた藤原は、何だか恥ずかしくなってきてしまった。自分を救ってくれたヒーローの醜態を、これ以上他者に見られるのはしのびなかったのである。


「ほら、行くよ」


 そう言って、藤原は神崎を抱きかかえ、無理矢理橋の欄干から引きはがしたのであった。








 その後、神崎と藤原はアメリカで巨大なワニと格闘する羽目になる……ことはない。

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神崎ひかげVSイタチザメ ジョーズ・イン・沖縄 武州人也 @hagachi-hm

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