嵐、
雷は、僕がこの世で最も嫌いなもののひとつだった。
他にも他人の視線とか…春菊とか…色々あるけど、その中でも群を抜いて苦手だ。なにかトラウマがある訳では無く、あの轟音を聴くと、本能が逃げろと訴えてくる。
つまり、雷が嫌いなのは、僕が臆病なのでなく、いにしえからの人間の本能の正しい名残のひとつである。だから雷を嫌って、音がしただけでも怖くて風呂場の蓋の下に隠れてガクガク震えていようと、それは人として正常な行動なのだ。断言する。
雷はまだ完全に終わりそうに無いと感じていた僕は、風呂蓋の下に潜れてとにかく気の紛れる事を考えようとした。
…そういえば、あの子は僕が急に消えて、驚いてるだろう。でも適応力のある子だからな…。
あの子が、暗い台所で、今も何事も無かったように蒸しパンからレーズンをむしっている光景が頭に浮かんだ。
「りょーたさん、なにしてんの。」
明るい子供の声が聞こえた。頭上からだ。
あの子の声だった。
僕といえば、汗でシャツと背中は張り付いていて、手は小刻みに震えていた。きっと酷い顔をしている。いくら子供でも、こんな情けない姿を見られたくはない。蓋を開けたく無かった。
子供は僕が立て籠もっている風呂の横に座って、喋りかけてきた。
「もしかして………苦手なの?『雷』。」
「……。」
僕の沈黙を、子供は肯定と捉えたようだった。
「ビカビカしてて面白いのに。何が怖いの?」
僕は観念して子供に小さな声で答えた。
「……そ…そ、れが…怖いんだよ…。」
「ビカビカが?一度怖くないって思って外に出てみたら?案外食わず嫌いかもよ?」
「ど、うしても苦手なものって…あ、るだろ。本、能で…もう、絶対に無理なんだ…。」
子供は「う〜ん…。」とうなった。
「それって…つまり、亮太さんにとっての雷は、私のレーズンと一緒ってこと!?」
「つまり………
そ、ういう事だ、ね……………。」
「でも亮太さんは私にレーズンを食べさそうとして、好き嫌いは駄目って言った。矛盾してない?それって。」
「そ、れは……そう…ごめん……。」
「許す。」そう言うと、愉快そうにけらけらと笑っている声がした。
なんだか顔を見せない事が恥ずかしいように思えてきて、風呂蓋を頭で持ち上げ、少し顔を見せた。
子供は僕の目を見てにやっと笑っていた。
「なんか今の亮太さん、ダンボールに捨てられた子犬みたい。」
「どう、いう意味だよ…。」
呆れながら答えると子供はまたケタケタと笑った。
「昔見た、ダンボールから顔のぞかせて寂しそうにクゥ〜ンッてないてる子犬と、お風呂から怯えた目で此方見てる亮太さんの目が似てるの。」
失礼な事を言う。なあなあで杜撰な理由をつけては、この家に入り浸っている子供の発言とはとても思えない。僕は再び頭を下げて、風呂の蓋の下に隠れた。視界が真っ暗になる。足先が冷たい。真っ暗で狭くてほどよく冷たい空間は、どうしてこんなに安心できるのだろう。毎日が永遠に夜だったらいいのに、と学校を面倒がる子供の様な事を考えた。
真っ暗で、なにもない空間に、子供の高い声が降り注いでくる。
「…私は野良猫だけど、亮太さんは野良犬だったんだね。やっぱり似た者同士なんだよ、私ら。」
そして意味の分からない事を言っていた。
僕が風呂の中に籠城していると、暫くして子供が出ていった。体重でフローリングが軋む音が遠くから聞こえてくる。
そしてすぐに戻ってきた。
又隣に座り、咀嚼音が聞こえてくる。
「亮太さん、手、出して。」
蓋をずらし、そろりと手を出すと、手の上に少し冷たい『何か』が載せられた。鼻先に近づけると、独特な果物の、強い薫りがした。レーズンだった。
「食べていいよ。」子供が咀嚼しながら、素っ気なく答える。
時折変な事を言う、嘘をついてるかもしれない、我儘な子だ。と思った。一体何処から来たのかも分からない。こういう子に関わり続けたら、なにかしら面倒な目に合う、と僕の本能が伝えていた。
それでも僕は彼女から受け渡されたレーズンを口に含んだ。
こんな足が悪いことを言い訳に誰とも交流を保とうとしない、カタツムリのように自分の殻に引きこもった人間は、いつか起こるであろう面倒を見ないふりして、この子の変な部分を受け入れるのが当然のように思えたからだ。
雨が止んで、雷の気配が消えるまで、子供は隣で蒸しパンを食べて、「手を出して」と言われるたび、レーズンをひと粒づつ受け取った。僕はレーズンを渋々咀嚼し飲み込んだ。とても口の中が甘くなった。
深町まちこの話 @rararararara
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