husband.

三山 響子

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 夫の慶太けいたが帰宅したのは日付が変わる少し前だった。


「出張お疲れ様。ホワイトデーのお返し、準備したよ。そこの紙袋」

「わあ、ありがとう。中身は何?」

「クッキー」

「いいね。包装もお洒落で」


 テーブルの上にある紙袋の中を覗き込んだ後、慶太は顔を上げて申し訳なさそうな顔をした。


「実は、ホワイトデーの日、定時後に大事な会議が入っちゃったんだ。どうしてもこの日程しか都合がつかなくて。外食する予定だったのにごめんね」


 胸の中に灯っていた光がフッと消えた。

 残念な気持ちが滲み出ないよう、無理に笑顔を作る。


「そうなんだ。仕事なら仕方ないよね」

「本当にごめん。また別の日に行こう」


 お風呂入ってくる、と慶太はリビングを後にした。


 壁にかかったカレンダーの三月十四日には“デート”の文字とハートマークが虚しく輝いている。舞い上がって書き込んだ自分が今更になって恥ずかしい。


 三十路の女が「仕事と私どっちが大事なの」と喚くなんてみっともないから言葉を飲み込んだけど、やっぱりショックが大きかった。

 私は多忙な慶太に代わり、銀座へ繰り出し職場へのホワイトデーのお返しを買い集めたというのに。

 

 ホワイトデーのお返しは、世の夫にとって職場での通信簿に値する。いくら義理でも適当なものは渡せない。

 ネットで鬼のように検索し、そこそこ名の知れた名店の、でもお洒落すぎるお菓子だとかえって重く捉えられるかもしれないから、三種類のクッキーがキューブ型の箱に入ったセットに決めた。我ながらなかなか良いチョイス。夫の株も上がること間違いなしだ。


 慶太がシャワーを浴びている音が聞こえてくる。

 慶太の細身で引き締まった筋肉がふと目に浮かぶ。


 ……本当にこれ以上株を上げていいのか。

 すでに十分すぎるほど上がっているというのに。 


 妻が言うのもなんだけど、慶太はモテる。

 仕事に真面目で礼儀正しく、普段は寡黙だけど笑うと犬のように人懐っこい顔になり、後輩にも優しい。

 私と付き合っている間に告白された事もあったし、先月バレンタインデーに慶太が持ち帰ってきたチョコレートの中には、義理とは思えないようなメッセージカードを添えてきた女もちらほらいた。


山岡やまおかさんは私にとって大切な人です』

『今度飲みに連れて行ってくださいね!』 


 こういう女は自ら積極的にスキャンダルに足を突っ込む勇気はないのだけど、あわよくば男性側から橋を架けに来てくれる事を期待して、自分が悪者にならない絶妙なラインでさり気ないアプローチを仕掛けてくるのだ。

 

 あざとい。慶太の左手薬指に光っている指輪の存在を認識しながら、彼への好意を込めた挿し花を日常生活やイベントの中で一輪、また一輪とさり気なく花瓶に挿してくる女は、非常にあざとい。

 

瑠美るみ、体は辛くないか。もう遅いから先に寝てて」


 でも、慶太はそもそも花瓶に水を入れていないから、女たちが何本花を生けようがすぐに枯れてしまうのだけど。


 慶太がカードをこそこそ隠す事もなくテーブルの上に無防備に放っているのは、彼が女たちを一切相手にしていない潔白の証だ。


「ううん、元気。もう少ししたら寝るね」


 妊娠三ヶ月。幸い悪阻がなく毎日ピンピンしているものの、慶太はいつも私の体調を気遣ってくれる。

 仕事を頑張っている事を知っているから、優しくしてくれるから、慶太がどんなに忙しくても文句を言おうとは思わないし、彼宛ての思わせぶりなメッセージカードを目にしても私の心は揺るがず、大木のようにどっしり地に根を張って構えていられる。

 



 *




 ホワイトデー当日、パート後にスーパーに寄って帰宅すると、社宅前で隣の真田さなださんの奥さんと会った。

 真田さん夫婦は社内結婚で、奥さんは慶太と同じフロアで働いているらしい。


「こんばんは。お疲れ様です」

「あら、山岡さん。仕事帰り?」

「はい。今日は特売なのでスーパーに寄って」

「働いてるのに毎日ちゃんと晩ご飯作って偉いわねえ。私なんか平日は出来合いのものばかり」

「私も大したものは作ってないですよ〜、今日は主人が残業で帰りが遅いので手抜きするつもりですし」

「あら、ご主人?」


 真田さんは首をかしげた。


「ご主人なら、定時後に会社を出ていくのを見たけど。なんだか急いでいる様子だったわよ」

「え?」


 どういう事だろう。今日は会議で遅くなると言っていたのに。


「まあ、何か急用でもできたのかもしれないしね」


 私の顔に不安の色が漂った事に気付いたのか、真田さんは慌ててフォローの言葉を口にするとあたふたと自宅に帰っていった。




 買い物に行ったのに自炊する気力が一気になくなり、スーパー袋をテーブルに置いて椅子に座り込んだ。

 慶太は一体どこへ行ったのだ。定時で上がれる事なんて滅多にないのに。

 

 消し忘れていたカレンダーのハートマークが目に留まった瞬間、黒いモヤモヤが胸から湧き出し、溢れた墨汁が半紙に染み渡るように全身にじっとり浸透していった。


 もしかして、お返しを渡した中の誰かと夜の約束をしているのだろうか。慶太はなびかないと信じていたのは私の思い込みで、実はこっそり花瓶に水を張って女たちが生けた花を大切に育てていたのだろうか。

 女からのメッセージカードも、私を安心させるために敢えてオープンにしていたの?


 雨風に打たれても動じなかった大木はたった一度の疑念によってぐらぐらと揺れ始め、頭上から葉っぱたちが『油断するな』『甘いぞ』とカサカサ囁いてくる。


 試しに電話をかけてみたけど当たり前のように応答はなく、かえって真田さんの証言がより確実なものとなり不安を増長させただけだった。


 理由はなんであれ、慶太が嘘をついていたという事実が何よりも悲しい。

 私はこんなにも信じていたのに、一方通行の信頼関係だったなんて。


「慶太なんかもう知らない」


 収納棚の引き出しから修正テープを取り出すと、カレンダーの書き込みを勢い良く白線でビリリと消した。



 

 *




 寝ている間にクリスマスまで時間が巻き戻しされたのだろうか。枕元にプレゼントが置いてある。それとも子供時代まで遡ってしまったの?


「おはよう」


 枕元に置かれた二つの小箱を布団に入ったまま寝ぼけ眼で見つめていたら、隣のベッドから慶太が声をかけてきた。


「……おはよう」

「昨日は遅くなってごめん。帰ったら寝てたから、一日遅れちゃった」

「なにが」

「ホワイトデー」


 慶太は小箱を指差すと、くしゃくしゃ頭のまま恥ずかしそうに微笑んだ。


 機械的に小箱に手を伸ばし、包みをほどいた。

 一つ目の箱には、宝石のようにキラキラと輝く十個入りの高級チョコレート。 

 二つ目の箱には、雫型のゴールドのネックレス。半年前に横浜デートをした時に、たまたま覗いたジュエリーショップで私が一目惚れしたネックレスだ。


「どういう事? 昨日真田さんから、慶太が定時で上がるのを見たって聞いたけど」

「そうか。それじゃあ白状するしかないな」


 慶太は頭をポリポリと掻いた。


「そのネックレス、昨日の仕事帰りに買ってきたんだ。早く上がれる日が昨日しかなくて」

「それじゃ、会議は?」

「ないよ。横浜まで行くと帰りが遅くなっちゃうからそう言うしかなくて。嘘をついてごめん。でも、欲しがってたからどうしてもあげたく……なんで泣いてるの」


 私の顔を見て、慶太は困ったように笑った。


「うれしい」


 全身に張り巡らされていた疑念がストローで一気飲みしたジュースの如くみるみるうちに吸い取られ、浄水に生まれ変わって涙となり、ポロポロ止まらない。


 私は、自分が思っている以上に慶太から愛されているみたいだ。

 タイムマシンに乗って昨夜にタイムスリップし、やさぐれていた自分の背中を後ろから蹴り飛ばしてやりたい。


「瑠美、今日体調はどう?」

「すごくいい」

「そしたら、急だけど夜ディナーに行こうか。お店探そう」


 携帯を手に取り早速お店を探す慶太の背中に、後ろから勢いよく抱き付いた。


 

 ねえ慶太、知ってる?

 チョコレートもネックレスもとても嬉しいけれど、慶太が私のために忙しい中お店を駆け回ってくれたことが、いつも私を誰よりも大切に想ってくれるその気持ちが、私にとってかけがえのない一番のプレゼントだよ。

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