ジークムント、君は

真花

ジークムント、君は

 曇天だから、そこから差し込む光の階段を見ることが出来る。僕たちはその光を美しいと言ったり、幻想的だと言ったりしながら、いつも最後には、雲の向こう側に行く話をした。

「今日の空はどうだ?」

 後ろからジークムントの声。僕は手摺りに寄り掛かったまま、振り向かずに応える。

「ウィーンらしい空と言いたいところだけど、僕にはウィーンらしさがまだ分からない」

「俺たちが大学に来てからちょうど一年、何かを知るには十分だが、何かを分かるには不十分な時間だ」

 彼が僕の隣に並ぶ。同じ空を見る。

「僕はここを君が『港』と呼ぼうと言ったとき、呆気に取られた」

「ウィーン最初の港だ」

「でも、一年経ってここに何度も君と通って、空を見ている内に、ここから飛び立つのだと思えて来る」

「暗示じゃないよ」

「それはそうだ。僕たちは漫然と大学にいる訳じゃない。だけど、未来が不明瞭であったのも確かだ」

 ジークムントは遠くの雲を指す。

「あの雲までが俺たちの知ることの出来る未来だ。その先は、行かなきゃ分からない」

「行くためのチケットは、自分で用意するしかない」

 彼は僕の顔を見る。だけど僕は空を見詰め続ける。雲はどこまでも続いていて、切れ目がないから天使の階段は一つも降りて来ない。

「ハンス、未来を決めたのか?」

 僕はゆっくりと頷く。

「僕のチケットは大学にはない。……学問をしようと思ったのは、商売と関係がないと思ったからなんだ。でも実際は金は付いて回る。僕は金と関係のない人生を送りたい」

「何でだ?」

「生きていかなきゃいけないから、金と完全に切れることはないのは分かってる。でも、限りなくそれに近い生き方がしたい。それは、金が汚いとか言っているんじゃない。ただ、それを常に考えなくちゃならないことが煩わしいんだ。学生だってそうだ。僕は潔癖過ぎるのかも知れない」

 ジークムントは小さな声で、正しさがある、と呟いた。

「正しさ?」

「ハンスにはハンスの正しい生き方がある。俺たちは十八歳の若造だが、生き方を決めてもいいくらいは生きている。金との付き合い方は、どう生きるにしたって決めなきゃいけないことだ。ハンスは離別に向かう」

「ジークムントは?」

「俺は、金は必要なものだし、仕事は金を稼がないと意味がないと考えてる。認められた学問に金が投入されるのは当然のことだし、そもそも金を稼ぐことはいいことだ」

 彼ならそう言うと思っていた。だから気持ちが固まるまで話せなかった、話題にも出さなかった。考えの違いくらいで関係が途切れることはない、だけど、中途半端な自分では、彼の言葉に引っ張られると思った。

「君がそう考えてても、僕は、僕にとっては、金を離すことに価値がある」

 彼も雲の空に視線を移す。

「そうだな。そう見付けたんだよな」

「そこまで到達した。僕が僕と言う人間を一つ深く知ったところにそれはあった」

「俺も深く掘ればまた別の自分があるのかな」

「それは分からない。でも、何かはあるだろ。そうやって俺たちは成長する」

「人に掘って貰うのはどうだろう?」

「ジークムント、自分で掘ることに意味があるんだ。だけど、助けてもらうのはいいと思う。僕が今回の考えに至ったのには、君の助けが、直接的にではないけれど、必要だった」

 彼は嬉しそうになりそうな顔を筋肉で抑え付けて、そのまま思索するような顔をする。でも本当に考えている顔ではない。カッコ付けているだけの顔。僕は彼の方に向き直って、続ける。

「僕はアートをする。文学だ。どう生活するのかはこれから考える」

 彼の顔が驚き、そして羨望の顔になる。でも、どうしてその顔なんだ?

「じゃあ、大学を辞めるのか?」

「半端者に思えるかも知れないけど、大学は卒業するまでやるよ。傍らで書く」

 ジークムントの顔がパッと明るくなる。

「お前がいなくなったら寂しいから、いてくれると嬉しい」

「君は感情が顔に出過ぎるね。高度な交渉とかは顔の出ない状態でした方がいいよ」

「そんなに出るかな」

「髭を生やして、むっつりしてればあまり分からないかも知れないけど、今は表情が豊か過ぎて言葉が要らないくらいだ」

「覚えとく」

 僕たちは連れ立って大学のキャンパスに戻る。彼は僕の進路よりも自分の分かり易い顔の方に関心を持って、道々その話をして、それぞれの行くべき場所に向かうために別れた。


 ジークムントと僕はこのときにお互いが不十分に持っていた二つずつのものの片方を交換し合い、彼と僕のそれぞれに十分が一つずつ出来た。それ故に彼は不確かなものを徹底的に確かなものに変換して行くようになり、僕は世界にある不確かさをそのまま受け入れて表現するようになった。彼は金を得ることに実直で、僕は金から逃げた。彼は医者になり、僕は小説家になった。


 大学を卒業してからは、会うことはぐっと減り、二十九歳のときに久し振りに再会した。

「ハンス。今俺はシャルコーって人のところで催眠療法を学んでるんだ」

「神経のことをやるんじゃなかったの?」

「脳の機能の問題で神経症は起きる、これだって神経だし、まだ分からないことだらけだけど、これは面白いし、金になる」

「どうして?」

「神経症の子供を持つ金持ちがたくさんいるからだよ。催眠療法は一人あたりにかかる時間が長いから、単価を上げないと商売にならない。でもその商売を成立させる客がいくらでもいる」

 ジークムントの声はいつもより上擦っていて、熱病に冒されて夢物語を語る少年のよう。

「内容が面白いの? 金が儲かるのがいいの?」

「その両方があるんだからこれ以上のことはない。俺はやるぜ。今はまだ催眠療法の門下生のレベルだけど、俺独自の治療法に昇華させるんだ。そしたら、その治療法を出来るのは俺一人だから依頼がたくさん来る。そして、弟子を取ったとしても、そいつらからも金を取ってもいいし、他の俺に有益なシステムに組み込んでもいい」

「野望が走るね」

「走る。俺の野望は現実味が濃い味だ」

 前のめりのジークムントだけど、僕だって気圧されたりはしない。

「濃い味か。つまり、もうオリジナルのアイデアはあるんだね」

 彼はニヤリと笑う。その笑いを隠そうと口許を隠すけどそれも含めて表情なのに、相変わらず分かり易い。

「ある。部分的にはパクリだけど、核心が違うから大丈夫だろう。『無意識』って言うんだ」

 ジークムントは無意識の説明を僕にして、秘密だぞ、と念を押す。確かに新しい概念のようだけど、似たものはありふれているし、そもそもそう言うものがあるのは当たり前のようにも感じる。ジークムントにそう告げると、身をさらに乗り出す。

「そこがまさにポイントなんだ! ありふれているけど言葉になっていないものに名前を付ける。これね。そもそも体感出来るものだから、名前が付いたらより分かる感があるだろ? それに加えて、俺がする治療のためにある概念って言う出自が重要な意味を持つんだ」

「出自?」

 その言葉を聞くと、どうしても自分たちがユダヤ人だと言うことで受けた屈辱を思い出してしまう。僕は苦い顔をしたらしい。

「ハンス、言葉が悪かった。由来が大事」

「ああ、気にしてないよ」

「そうすることによって、治療法と概念がセットになる。セットになれば……」

「概念が広告塔になる!」

「大正解。治療法が整い次第、広告を開始していく。学会、論文、方法はたくさんある」

 ジークムントはやるだろう。徹底的にやるだろう。

「ハンスは、どうだ? 最近」

「単行本が出る」

「それってすごいことじゃないのか?」

「金持ちで気に入ってくれている人がいてさ、その人が金を持つってので。まだ実力とか人気とかとは関係ない段階だよ」

「何言ってんだよ。強力なファンが一人いるってだけで大事おおごとだよ。何だよ、ハンス、お前の方が先に進んでるよ」

「どっちが先とかいいじゃないか。君の野望の方が大成したらエライことになるし、きっと君はする」

「ああ。する。ハンスの単行本の話でさらに火が着いた。タイトルは何て言うんだ?」

「『Analysis分析』」

「分析、か。どんな話なんだ?」

「人のこころの中にゆっくりと入り込んで行きながら、その人を理解してゆく。でも結局は自分を理解する、って感じの話だよ」

「決めた」

 ジークムントは顔中に力を入れて立ち上がって、周りを見渡したらまた座った。

「ハンス、俺の治療法は『精神分析』って名前にする。だから俺は分析家になるってことだ」

「無意識の概念と、治療法と治療者の呼び名、この三つがあるだけで立派なものに見えるから恐ろしいね」


 そのときの宣言通りにジークムントは精神分析を興隆した。無意識は知識階級からなだらかな坂を水が広がって流れるように、誰しもが知るところとなった。彼は弟子を取り、権力を持ち、よくも悪くも医学会や人間世界に影響を振り撒いた。

 僕は好きな小説を書いている。数人のコアなファンが金持ちだったので、家族と一緒に世話になっている。金と言う現実から最も離れるのは、強い金の光の近傍にそっと隠れるのが一番のよう。

 ジークムントと会うことがなくなって、彼の噂だけが入って来る。

 弟子を破門にしたとか、娘の分析をしたとか、独裁者のようだとか。

 聞こえる話の量だけ、ジークムントがしたことが大事件だったと分かる。

 何年経っても、彼とその周囲のしたことが話題から抜けることはなかった。

 その結果、名声と言うフェロモンに惹き寄せられて彼の周囲には著名人を含む多くの人間が群がる。彼の正体は、顔を隠すために面談中に見えない場所に座るということを定式化するような、もっとシンプルな男なのに。

 だからきっと、彼は僕を求めている。お互いいい歳だ、そう長くないだろう。

 僕は彼の亡命先のロンドンに向かう。多分僕の最後の作品になるだろう本を一冊持って。


「ハンス」

「やあ、ジークムント」

「その名前で呼ぶ人は、あとは全員死んじゃったよ」

「じゃあ久し振りってことだね。フロイド先生なんて堅苦しい」

「それもそうだな。で、わざわざイギリスまで、どうしたんだ?」

「そろそろ寂しくなってないかと思ってね」

 彼は陽の光が入ってくる窓をじっと目で見るけど、その視線が徐々に落ちてゆく。

「もう諦めてたよ」

「命を? それとも寂しさを?」

「命ももうギリギリだけど、寂しさだ。と言うよりもう忘れていた。お前が来たから思い出した」

「じゃあ、なおさら来た意味があったね。こころが動いた方がいいに決まってる」

「お前は、俺の分析の本を読んだのか?」

「いや、一冊も。あ、これお土産、暇だったら読んでくれ」

 裸の本を渡す。ジークムントはそれを受け取って、横に置く。そして晩年であると悟った顔をする。

「俺がしてきたことは、どれくらい意味があったかな」

「世界を少し変えた。それで十二分の意味があるんじゃないのかな」

「金はしっかり稼いだ」

「僕はからきしだ」

「俺がしたことって何だろう」

「具体的に、現実に、していった。そして科学にしようとして、ビジネスにした。僕さ、前々から思ってたんだけど、分析家って言い方は嘘だよ」

「嘘?」

「金を稼ぐためにしてるんだから、分析屋、じゃないと意味が通らない。家だとアートが入り込む。君はアートを排除しようとしたでしょ? 治療の場面からは。きっと破門もそれから生まれてることなんだと思ってる」

「分析屋」

「そう。分析屋であるために、多くの犠牲を払っている。そうであることが治療としても意味があると主張している。だけどそれは僕には分からない。少なくとも、分析屋であり続けようとしている」

「だけど、世界からは分析家であることを要求される」

「でもその世界は、分析家が何かを知らないよ。ジークムント、自分の好きな風に選んでいいんだよ。全てを構築しようとしたあのときのように」

「俺は、ジークムント=フロイドに閉じ込められた、ただのジークムントなのか」

「そうだよ。僕はずっと素顔の僕で生きた。君は目的のために顔を隠した。だから僕だけが君を元の顔に戻せるんだ、どうする? ジークムント、君は、どうしたい?」

 彼は瞼を閉じてしばらく考える。

 そっと眼を開けて、僕をじっと見る。

「あと少しの命だ、素顔に戻ろう」

「そっか。分かった」

「で、どうするんだ?」

「君がその気になったら、もうその変化は済んでいると思うよ」

 ジークムントがその掌を見る。

「ハンス。素顔に戻ったら二つのことが出て来た」

「何だい?」

「一つは死ぬことの怖さ。これもぼやかしていたみたいだ。もう一つが、何かを成し遂げたいと言う気持ち」

「こっからさらに成し遂げるの?」

「流石に時間がないか。でも、ずっとずっと俺の中にはそういう気持ちがいたんだと思う、原動力になった気落ちが。今まで気づかなかった」

「僕には見えてたけど」

 彼が肩を竦める。

「お前が分析家をやった方がいいんじゃないのか?」

「分析屋は無理だし、分析家をやりたいとも思わない。僕は死ぬまで文学をする」

「そっか。分かった。俺はじゃあ、素朴に自分の死を見詰めながら、可能な限り著作を残して死ぬよ」

「ああ。お互い次まで生きてるってことはないだろうからな」


 ジークムントの訃報は思ったよりも早くて、会ってから数日の内に届いた。

 僕は独りで泣くなんてしないで、家族に慰められながら涙を流した。きっとジークムントが家族に囲まれるのとは違う。彼は世界に剛に影響を与えた。僕は柔に影響を与える。文学がアートとして機能するのなら、そう言う影響が出なくちゃおかしい。

 あの日交換したものはそのままで、彼が死んでも彼由来のそれは僕が持ち続けている。今さら返せない。

 手摺りにもたれて空を見る。

「ジークムント、君は」

 その続きをもう言葉にしなくていい。


(了)



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